第9話 自転車修理

 帰りのホームルームが終わると、彩那は一目散に教室を抜け出した。放課後、龍哉と待ち合わせの約束をしていたからである。おばあさんの自転車修理に同行するのだ。

 校門付近で待っていると、龍哉がゆっくりと歩いてきた。こうして一緒に帰る日が訪れるとは、これまで一度も考えたことはなかった。

 背の高い龍哉が真横に立った。不思議と緊張感があった。どうしても身構えてしまう。

「待たせたな」

 彩那が応えようとしたその時、場違いな声がどこからともなく飛んできた。

「おやおや、お二人さん。これまた珍しいこともあるもんだねえ」

 小柴内正幸である。予期せぬ人物の登場に自然と顔をしかめた。

「今日は二人とも演劇部に顔を出さないのかい?」

「家の用事があるんだ」

 龍哉が応えた。

「お前もか?」

 彩那の方を向いて訊いた。

「ええ、そうよ」

「ふうん」

 小柴内はすかさず手帳を取り出して、ペンを構えた。

「な、何よ」

「最近、二人は仲がいいなと思って。確か朝も一緒に登校してたよな。何かあったのかい?」

「いや、何もない」

「いつも通りよ」

 兄妹は声を重ねた。

「本当かねえ」

 さすがに小柴内は鼻が利く。無駄に鋭い観察眼は高校に入っても健在であった。

「あなた、まさかそんな個人的なことまで記事にする気なの?」

 彩那は呆れて言った。

「いや、これは単なる癖だよ、癖。記者というのは、いつ何時、特ダネに遭遇するかもしれないからな。日頃から準備だけはしておくものなんだ」

「作っているのは校内新聞というよりも、校内ゴシップ誌じゃないの?」

「いやいや、俺は記者としての勘が働くのさ。倉沢彩那行くところ必ず事件ありってな。それじゃあ」

 小柴内は片手を上げると校内へ引き返していった。

 彩那には安堵感が広がっていた。ひょっとしたら二人の後をついてくるのではないかと気が気でなかったのである。

 いずれにせよ、せっかく龍哉と自然な雰囲気で話ができると思っていたのに、すっかり水を差された気分だった。

 その証拠に、龍哉も口を開こうとはしない。

 二人は地下鉄の駅に向かった。

「腕の怪我はもう大丈夫なの?」

 沈黙に耐え切れず、彩那の方から切り出した。

「ああ、大分痛みは引いた」

 龍哉は前を見据えたまま答えた。

「ねえ、いつから捜査に参加してたの?」

「ひと月前から」

「あなたも警視庁へ連れられていって、すぐに出動したの?」

「ああ」

 やはり話題はおとり捜査班のことになってしまう。

「毎週火曜日に区内のコンビニが強盗犯に襲われていた。手口から同一犯の仕業だと考えられた。そこでアルバイト店員役として俺が投入された」

「でも、それだけ危険な任務なら、プロの警察官がやるべきじゃない?」

 彩那はかねてからの疑問をぶつけてみた。何も素人がおとりになる必要はない。訓練された若い警官ならいくらでもいる筈である。

「俺たちのような現役高校生の方が、犯人を油断させられるからじゃないか」

「そんなものかしら?」

 彩那は口を尖らせた。

「それに俺たちの役割は犯人をおびき寄せるまでで、実際に逮捕するのは警察の仕事だ。深く関わらなければ怪我をせずに済む」

 二人は切符を買った。

「もう一つ訊きたいことがあるのよ。コンビニなんて星の数ほどあるじゃない。どうして狙われる店に事前に張り込めたの? それって、ただの偶然?」

「偶然な訳がないだろ。フィオナがそう仕向けたのさ。強盗がその店に現れるように細工をした」

「細工?」

「簡単なことさ。他店に協力を依頼して、臨時休業にしたり、閉店時間を早めたりしたんだ。それができない店はアルバイトを動員して、店内が混雑しているように見せ掛けた」

「なるほど。そうやって犯人をあなたの店におびき寄せたのね」

「昨日も、周辺の道路をわざと工事中や通行止めにして、あの道路一本だけを空けておく細工をしたらしい。いつもそういった罠を仕掛けるのさ」

「事前の準備は案外しっかりしてるのね」

 彩那は感心した。

「あのフィオナっていうイギリス人は、かなりの凄腕だと思う。向こうでも俺たちのような若い連中を効率よく動かして、高い実績を上げていたらしい」

 では、どうしてロンドン警視庁はそれほどの逸材を簡単に手放したのだろうか。確かに日本から要請を受けたとはいえ、大きな損失になるのではないか。新たな疑問も湧いた。

 地下鉄に乗った。車内は空いていたが、二人はドア付近に並んで立った。

「そうそう、あなたの成績はどうだったの?」

「強盗を捕まえた日か?」

「ええ。フィオの採点は?」

「百五十点」

 彩那は唖然とした。

「ちょっと待って。百点超えもありなの?」

「犯人逮捕に貢献すると、五十点加算らしい」

「でも、フィオは犯人を捕まえるのは私たちの仕事じゃありませんって言ってなかった?」

「俺は言われてない」

「それって、男女差別よ。フィオって西洋人のくせに考え方が古いんじゃない?」

「初めての出動だったから、お前に無理をさせたくなかったのだろう」

「それじゃあ、あなたの初日の点数はどうだったの?」

「深夜にコンビニでバイトをするよう指示されただけだからな。何も起きずに朝を迎えて、百点だった」

「うぐっ」

 地下鉄を下りた。十分ほど歩くと、見覚えのある大通りが見えてきた。忘れる筈がない。昨日何度も往復させられた道である。

「先にコンビニに寄っていくわよ」

「おい、寄り道するな」

 彩那は相方の言葉を無視して、自動ドアに吸い込まれていった。

「おまたせ」

 外で待っていた龍哉の目の前に缶コーヒーを差し出した。

「お前、こんな物を買うために……」

「やっぱり私がついて来てよかったわ。あなた、まさか手ぶらでおばあちゃんに会いにいくつもりじゃないでしょうね?」

 龍哉はきょとんとした顔をしている。

「普通はね、手土産としてちょっとしたお菓子ぐらい持って行くものなのよ。これだから男子はダメなのよね」

「分かった、分かった」

 龍哉は両手で制するジェスチャーをした。

 二人はおばあさんの家に着いた。玄関の呼び鈴を押そうとしたところで、引き戸が開いて、中からはつらつとした若い女性が出てきた。

「それじゃあ、また来ますね。おばあちゃん」

 薄いピンクの上下に身を包んだ、どうやら訪問介護士らしかった。

「こんにちは」

 先に女性が挨拶をしてくれた。

「こんにちは」

 彩那も笑顔で返した。爽やかに働く女性の姿が眩しかった。

 龍哉が庭で自転車のライトを交換している間、彩那は縁側でお茶を飲みながらおばあちゃんの話を聞いていた。週に一度、介護士が来てくれるのだと言う。外の草むしりや家の中の掃除などを頼んでいるらしい。この歳の一人暮らしは想像以上に大変なのだと語ってくれた。

「直りました」

 龍哉はライトが点灯するのを実演した。

「どうもありがとう。若い人がみんな親切にしてくれて、本当に助かりますよ」

 そんな言葉が、二人にとっては嬉しかった。

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