第8話 倉沢家の朝
翌朝、彩那は母親に身体を揺すられて、ようやく目を覚ました。それだけ昨日の仕事では、精も根も尽き果てたということだろう。
パジャマ姿でキッチンに行くと、龍哉はすでに食事を取っていた。意外なことに、その隣では父親が新聞を読んでいた。
「おはよう」
彩那が声を掛けると、
「何を呑気なこと言ってるんだ。遅刻するぞ」
と返してきた。
「アヤちゃんは昨日頑張ったから疲れたのよね?」
梨穂子はすぐに助け船を出してくれる。
「お父さん、今日も出動するわけ?」
彩那は目を擦りながら言った。
「いや、次は来週の水曜日だ」
「それは犯行が水曜日に集中しているからですか?」
すかさず龍哉が訊いた。
「そうだ」
「お父さん、いろいろと訊きたいことがあるんですけど」
「何だ?」
「高校生おとり捜査班って、一体どういう組織なの?」
「そもそも警視庁が公式に認可している組織ではない。恐らく一般の警察官に聞いたところで、誰もがその存在を知らないと答えるだろう。それだけ非公式で実験的な組織ということだ」
「実験?」
「そうだ。東京の治安を向上させる目的で、今後おとり捜査は一般的な手法となるらしい。これまでは麻薬事件などのごく限られた犯罪にのみ用いられてきた手法だが、それを常習性の高い犯罪にも適応してはどうかという政治的な動きがある」
彩那にはまったく興味の湧かない話だったが、龍哉は身を乗り出して聞いている。
「そのため警視庁では家族単位の組織を編成し、各種データを収集することになった」
「それに倉沢家が選ばれたわけ?」
「まあ、そんなところだ。うちは高校生が二人もいるからな。都内では他に二家族が同じように活動を始めている」
「ふーん」
彩那は無感動に言った。
「それじゃあ、捜査班のメンバーの一人として言わせて頂きますが、フィオナさんと菅原刑事の紹介があってもいいと思うのよね」
剛司は新聞を折り畳んで、娘の顔を見た。
「フィオナ・アシュフォードはロンドン警視庁の総合指令室長だ。元々家族単位のおとり捜査はイギリスが発祥で、長年の運用実績がある。事件によっては、警察官の赤ん坊や退役老人までがおとりとなって捜査に関わっている。フィオナはそういったおとり捜査のノウハウを伝授するために、日本に特別派遣された。生粋のイギリス人だが日本語、中国語、韓国語が堪能だ」
「へえ、凄い人なんだね。今度、テスト前に英語を教えてもらおうかしら」
「お前の個人的な都合で利用するんじゃない」
厳しい口調に彩那は肩をすくめた。
梨穂子がトーストの皿を目の前に置いたのを見て、
「ねえねえ、フィオナさんってどんな人? お母さんと同じ指令室にいるんでしょ?」
勢い込んで訊いた。
「残念ながら私も会ったことがないのよ。フィオナさんはおとり専門の指令長だから部屋は別なの。何でも三家族全部を引き受けているんだって」
彩那は目を丸くした。
「スマートフォンや特殊眼鏡も実際に海外で使われている物ですか?」
龍哉が訊いた。
「ああ、ロンドン警視庁から最新の装備品をそのまま借り受けている。そうだ、彩那。ちゃんと取扱説明書に目を通しておけよ」
「箱に入っていた、あの冊子?」
「そうだ」
「無理よ。全部英語で書いてあるんだもの」
「当たり前だ。自分で何とかしろ」
剛司はぴしゃりと言った。
「それじゃあ、菅原刑事は?」
彩那は気を取り直して訊いた。
「彼は新宿中央署の捜査課にいた。若いが抜群の行動力で、事件解決に大きく貢献を果たした刑事だ。これまでに警視総監賞を五回も貰っている」
彩那は彼の顔を思い出していた。普段の柔和な物腰とはうって変わって、犯人には恐れずぶつかっていく勇気を感じた。
「とにかく今は時間と予算がない。政治家のお偉方に動いてもらうには、実績を出してそのデータを早急に提出する必要がある。それには家族が力を合わせてやるしかない」
「予算がないのはすぐに分かったわ。暗くて狭い部屋に、貧相なお弁当。挙げ句の果てに着替えはトイレ。酷い扱いだわ、まったく」
「とにかく、おとり役はあくまでおとりに徹することが大切だ。素人に下手な動きをされると、犯人を取り逃がしたり、大怪我されたりすることになるからな」
「素人って言うけれど、多少武術の心得はあるわ。誰かさんに無理矢理仕込まれたんだもの」
「そう言うお前に一つ忠告しておく。張り切り過ぎるな。お前が張り切ると、碌な事が起きん」
「何よ、勝手にメンバーに入れておいてその言い草は。私はね、高校に入ったらもっと女の子らしく生まれ変わろうと決めていたのよ。その計画も台無しだわ」
「それはまた、無謀な計画だな。そういうのは、役者として演じるだけにしておけ」
剛司は苦笑した。
「ふん」
彩那はさっさと立ち上がった。
「お母さん、ちょっと」
手招きで梨穂子を廊下に呼んだ。
「昨日の下着、そのまま学校に着けて行ってもいい?」
小声で訊いた。
「あのGPSブラ、まだ着けてたの?」
「そう。気に入っちゃった」
「だめよ、警視庁の備品なんだから。もし壊したりしたら弁償になるわよ。もちろんアヤちゃんのお小遣いでね」
「えー、それは嫌よ。仕方がない、着替えてこよ」
彩那は慌てて部屋に戻った。
二人の兄妹は珍しく肩を並べて登校していた。
「あなたは全部読んだの?」
「何を?」
「例の装備品の説明書よ」
「一応な。辞書を引いて読んだ」
「凄いわね。ちょっと大事なところをかいつまんで教えてくれない?」
「あの特殊眼鏡はテンプルを広げた瞬間に電源が入って光彩認証を開始する。登録された人物でなければ、電源が落ちて単なる眼鏡となる。よって万が一、他人が掛けても機密は保持される仕組みだ」
龍哉は熱っぽく語った。こういった精密機械が好きなのかもしれない。それは彩那が知らなかった彼の一面だった。
「起動中、音と映像は指令室に転送されている。あとちょっと慣れが必要だが、視線を向けた方にピントが合い、瞬きを素早く二回すると静止画が保存される。さらに視線を固定したまま目を細めると、ズーム機能が働く」
「ふうん、何だか色々と使い道がありそうね」
と彩那は鼻を鳴らしてから、
「そう言えば、今日は数学のテストがあったんだ」
二人の間に沈黙が生まれた。
「お前、何考えてるんだ。まさかよからぬことを企んでいるんじゃないだろうな?」
「な、何言ってるのよ。警察の装備品を使って人の答案を覗く訳ないでしょ、この私が」
「妙に具体的なところが気になるが、まあそうだよな。警察官である両親の顔に泥を塗るようなことを、お前がする訳ないしな」
「そ、そうよ。それに眼鏡なんて持ってきてないもの」
彩那は憮然として言った。
「それから眼鏡にはGPS機能も備わっている」
「そんなのブラがあるじゃない?」
「ブラ?」
「あっ、いえ何でもないです」
「ひょっとして下着に何か仕掛けでもあるのか?」
「ええ、まあそうなんだけど」
「今度見せてくれないか?」
龍哉は畳みかけた。
「ちょっと何言い出すのよ、変態。ダメに決まっているでしょ」
「はあ? 別にお前が着けているところじゃない。当たり前だろ。俺はただメカに興味があるんだ。お前にはちっとも興味はない」
「いや、そこはちょっとぐらい興味持ってくれてもいいんだけど」
「ん?」
「いいえ、こっちの話」
彩那は慌てて言った。
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