第7話 彩那の初仕事

 いつしか覆面車は高速を下り、ビル街の一角で停車した。

「彩那はここで降りてください」

「はい」

 管原は運転席から身体を捻って、黒のハンドバッグを差し出した。

「これをどうぞ。くれぐれもお気をつけて」

「ありがとうございます」

 彩那が外に出ると、車はそのまま立ち去った。

「フィオ、これからどうすれば?」

「目の前の横断歩道を渡ってください。急いで。まもなく赤に変わります」

 道路の真ん中まで来ると、歩行者信号が点滅を始めた。

 フィオナの状況判断は驚くほど正確である。彩那は周りを見回した。しかし誰かに見守られている様子はない。

「フィオは今、どこにいるの?」

「警視庁の通信指令室です」

「ふうん」

「彩那、眼鏡がズレてます。正しく掛け直して」

「はい」

 どうして眼鏡がずり下がっていることが分かったのだろうか。その疑問に答えるように、フィオナの声が続いた。

「その眼鏡は、左右のテンプル(つる)にカメラが付いていて、その合成画像がこちらに送信されています。それによって彩那の視界を共有できている訳です」

「へえ、そうだったの」

「レンズに触らない」

 慌てて指を引っ込めた。

「そこを左に曲がってください。五十メートル先に銀行があります」

「はい」

 いよいよ現場が近づいてくるようだ。彩那は緊張し始めた。

「いいですか。あなたは犯人を誘い出すためのおとりです。あくまで一般人を装ってください。周りに馴染むように、自然に歩いて」

 なるほど、そういうことか。父親が演劇部に入るよう勧めたのはこのためだったのだ。ようやく謎が解けた。

「まずは銀行内の自動預払機の前に一分程立ってください。それから店を出て通りを進みます」

「はい」

 彩那は言われた通りに動いた。

 銀行を曲がると車の騒音は嘘のように消えた。途端に人の往来も少なくなる。確かにこの界隈は女性のバッグをひったくるには申し分ないように思える。

「次の交差点まで百メートル。ハンドバッグを右肩に掛けたまま、道路の左側を一定の速度で歩いてください」

「わざとバッグを取りやすくするのね?」

「その通りです」

 言われた通り、ゆっくりと歩を進めた。道路は直線なので、遙か遠くまで見通せる。前方には人影はない。

「彩那、さっきから歩き方がぎこちないです」

「ごめんなさい。何だか緊張しちゃって」

「大丈夫、落ち着いてください」

 通りは妙に静まりかえっている。何も起きる気配はない。

「交差点の少し手前、左側に停車している車が見えますか?」

「はい」

「覆面パトカーです。中で菅原刑事が待機しています」

「龍哉も一緒ですか?」

「いいえ、龍哉はあなたの三十メートル後方です」

「えっ?」

 思わず振り返った。眼鏡を掛けた背の高い男子の姿があった。

「不自然な動きをしない」

「すみません」

「龍哉を後方に配置しているのは、犯人がバッグを奪った後に方向転換して逃げた時の用心です」

「なるほど」

 ようやく交差点に辿りついた。ここまでミニバイクとは一度も遭遇しなかった。彩那は全身の神経を研ぎ澄ませていただけに、拍子抜けした気分だった。しかし考えてみれば、これは当然の結果かもしれない。犯人がそれほど高確率で現れる筈はないからだ。

「それでは、もう一度大通りに出て、さっきの銀行まで戻ります。ここは車道と歩道が分かれていますから、襲われる心配はありません。ですから、少し気を抜いて、リラックスしても結構です」

「はい」

 彩那は同じ行程を何度も繰り返した。端から見れば、それは何かの儀式のように見えただろう。

 たまにミニバイクの乾いたエンジン音が背後から迫ってきて、その都度身構えたが、ハンドバッグには何の興味も示さず通過するだけだった。

 いつしか夕刻を迎えていた。大きなビルが夕陽を遮り、暗い影を落としていた。風が吹き抜けると少々寒く感じる。こんなことを続けていて、果たして何の意味があるのだろうか。虚しさがこみ上げてきた。

 先程からフィオナの指示も途絶えていた。まさか暇をもてあまして、一人休憩でもしているのではないだろうか。

 孤独を感じて、我慢できずに後ろを振り返った。龍哉は相変わらず同じ距離を保ちながら歩いている。

「彩那、後ろを見ないで」

 フィオナの声が蘇った。彼女はしっかり監視を続けているのだ。捜査班全員が協力していることが実感できた。

 何度目かの戻り道で、緊張はすっかり解けていた。

「どうしてこんな目に遭わなきゃいけないのかしら? 全てはあのバカ親父のせいね」

 そんな軽口をたたいた。

「彩那、このやり取りは捜査員全員が聞いていることをお忘れなく」

「あっ、今のなしね、なし」

「音声は全て記録されていますので、それはできません」

 それを聞いて冷や汗が出てきた。

「時間も遅くなってきましたので、もう一回だけやって最後にします」

 この時ばかりはフィオナが天使に思えた。思わず小踊りしたくなるのをぐっと堪えた。ひょっとすると、このまま徹夜まで続けられるのではないかという気がしていたのだ。

 すっかり闇に包まれた道路の左右には、家の明かりが灯り始めていた。これで最後だと自分に言い聞かせて、重い身体に鞭を入れた。

 すると後方からミニバイクのエンジン音が聞こえてきた。一応身構えたが、いつまでも来るべき物はやって来ない。それは歩く速度よりも遅いからである。

 状況を確認すべく、振り返った。

 丸いライトをふらふらと揺らしながら、確かにバイクは向かってくる。

「後ろを向かない」

「はい」

 龍哉も、普通ではないバイクの動きに警戒しているようだった。

 エンジンの音が大きくなってきた。

 今、道路上に人影はない。犯人が狙いを定めているとすれば、それは彩那でしかない。最大の緊張が走る。

 果たして襲ってくるだろうか? 全身の神経を集中させた。

 バッグを奪われた瞬間、ミニバイクの後方にタックルを食らわせたらどうだろうか。速度の遅いバイクはいとも簡単に倒れるだろう。そうすれば、犯人逮捕の可能性は高まる。こんな虚しい仕事ともおさらばできるではないか。

 いよいよバイクが迫ってきた。

 彩那の視界の先に、道路を照らす白い光が確認できた。もうすぐだ。

 バイクが真横に並んだ。しかし何も起きない。そのまま過ぎ去っていく。ひったくり犯ではなかったのだ。

 彩那はほっとするやら、がっかりするやら複雑な気持ちだった。

 そのまま行方を追っていると、数十メートル先で急制動が掛かった。運転者はバランスを崩して振り落とされそうになった。

「馬鹿やろう!」

 同時に大声が響き渡った。

 それを合図に駆け出した。

「彩那、止まりなさい!」

 フィオナの声。しかし緊急事態である。現場に一番近い者が駆けつけるのは当然だと思われた。

 バイクに追いつくと、無灯火の自転車がこちらを向いて倒れていた。ハンドルを握っているのは、腰の曲がったお年寄りの女性だった。

 彼女は身体を震わせて、何度も頭を下げている。

 しかしバイクに跨がった中年男の怒りは収まらない。悪態をつき続けた。

「ちょっと、いい加減にしなさいよ」

 男の前に立ちはだかった。

「彩那、待ちなさい」

 フィオナの声が割って入る。

「おばあちゃんも謝っているんだから、もういいでしょう」

「何だ、お前は?」

 男の口から不快な臭いがした。

「あなた、お酒飲んでるでしょ」

「うるさい。お前には関係ないだろうが」

 男は慌ててエンジンを始動させた。ハンドルを大きく切ると、彩那の身体を避けていった。

「待ちなさいよ」

 バイクの速度が上がった。

「フィオ、捕まえて。飲酒運転よ」

 覆面パトカーから管原刑事が飛び出して、バイクの進路を塞いだ。それは身を挺した決死の覚悟に見えた。

「危ない!」

 彩那は思わず叫んだが、バイクは直前で急停車して、衝突は避けられた。

 それを見届けてから、お年寄りの方へ舞い戻った。龍哉も走って近づいてくる。

「おばあちゃん、大丈夫? 怪我はない?」

「ああ、大丈夫ですよ」

「おばあちゃんも、無灯火で自転車に乗るのは危ないわ」

「すまないねえ。途中で電球が切れてしまったのでね」

 話の途中で、フィオナの声が戻った。

「6時47分。酒気帯び運転者を確保。この後、交通反則切符の処理をします。最寄りの派出所から警官が到着するまで、菅原はその場で待機」

「了解」

「彩那と龍哉、聞こえますか?」

 フィオナが呼び掛けてきた。

「はい」

 二人は声を重ねた。

「おばあさんは無事ですか?」

「大丈夫です」

 彩那が応えた。

「彩那も怪我はありませんか?」

「はい、何ともありません」

「分かりました。二人は自転車のライトを修理してもらいなさい。大通りに出て、東に百五十メートル行くと自転車店があります。こちらから連絡しておきます」

 それには龍哉が応えた。

「フィオナ、ライトの取り替えなら僕にもできます。自宅に予備がありますから」

「分かりました。では、おばあさんを安全に自宅まで送ってください。龍哉は明日、改めて修理に行ってください」

「了解」


「おばあちゃん、それじゃあ、明日の夕方また来ますね」

 彩那はそう言うと手を振った。

 門を出ると、覆面パトカーが横付けしていた。

 二人の兄妹は乗り込んだ。

「お疲れさまです」

 菅原が前席から声を掛けてくれた。

「本当に疲れたわ」

 彩那はシートに身を沈めると、正直な感想を漏らした。

「三人ともお疲れさま。管原刑事、二人を自宅まで送ってください」

 フィオナの声からも緊張は消えていた。

「了解」

「ところで、彩那」

 途端に厳しい声に変わった。

「はい?」

「命令違反です」

「何が?」

「先程、現場でミニバイクを追いかけましたね? そんな命令は出していません」

「だけど、フィオ。目の前で事件が起きたんだもの、駆けつけるのは当たり前だと思うけど」

「理由はどうあれ、命令違反です」

「ちえっ」

「何か、言いましたか?」

「いえ、何でもないです」

「では、今日の彩那の成績を発表します」

「成績?」

「そうです。出動する度に、私が採点することになっています」

「はあ」

「持ち点は百点で、規定違反があれば、その分を減点します」

「成績をもらって、どうなるのですか?」

「上司に報告します」

「上司って、お父さん?」

 何だか嫌な予感がする。

「課長はもちろん、警視総監、警察庁長官、さらに国家公安委員会、内閣などに提出する資料となります」

「ええっ? そんなお偉いさんに報告するの?」

「はい。それにお手当にも影響します」

「ん? お手当って、これ給料もらえる話だったの?」

「正確にはお給料ではなく、捜査協力費です」

「早い話が、バイト代ですよね。時給いくらなんですか、これ?」

「だから、バイト代って言わない」

 フィオナは一呼吸おいてから、

「命令違反二回でマイナス五十点。上司に対する暴言一回でマイナス十点。よって今回の得点は四十点となります」

「低っ!」

「本当はもう少し言いたいこともあるのですが、今日は初出勤ということで、この位にしておきます」

「ちょっと待ってよ、フィオ。暴言なんて言った?」

「何とか親父、と言いましたよ。これは課長を冒涜したことになります」

「あちゃー」

「でも、彩那に怪我がなかったのは本当によかったです」

 フィオナはそう締めくくった。

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