第3話 龍哉の怪我
その夜、彩那は寝つけなかった。
時刻はすでに午前一時を回っている。しかしまだ龍哉が帰ってこないのだ。確かに出掛けるとは聞いていたが、あまりにも遅いではないか。
父親はしばらく帰らない日々が続いている。母親も夜勤でいない。
今、家の中には彩那一人きりなのであった。家族全員がこの世からいなくなった、そんな感覚にとらわれる。
母親との死別が頭をよぎって、自然と涙が湧いた。
あれは小学生の時だった。数日間家を空けていた母は死んだのだと、突然父に聞かされた。幼いながらも、遺体を見るまでは信じられなかった。
母の死因について詳しくは知らない。いや、当時は確かに聞いたのかもしれないが、どうにも思い出すことができないのだ。彼女の死を受け入れられず、その頃の記憶を無意識に葬り去ろうとしているからなのかもしれない。
母が死んでも、父はいつも通り仕事に出掛けた。それが子どもの目には異常に映った。それどころか、父はあの日以来、一切母の話をしなくなった。
それは彩那にとって、孤独との戦いの始まりだった。いつしか母の死は、実は警察の仕事が関係しているのではないかと思うようになった。そのうち徐々に父を恨むようになった。
程なくして梨穂子という女性が家に来るようになった。彼女は父と同じ職場の同僚で、掃除や洗濯、そして食事まで作ってくれた。
特に思春期を迎えた彩那のことを気遣ってくれた。女子が直面する身体の悩みに関してアドバイスをしてくれた。今思えば、男でしかもほとんど家にいない父親では、ないがしろにされた部分であろう。この点に関しては梨穂子には大いに感謝している。
数年が経ち、父は彼女と再婚することになった。彩那は嬉しい反面、新しい母親を迎えることに多少の抵抗もあった。本当の母親を忘却の彼方へ追いやってしまう自分が怖かったのである。
龍哉のことはかなり前から知っていた。梨穂子がたまに連れてくることがあったからである。年齢が同じと聞かされていたが、どこか孤独で、声を掛けにくい雰囲気に包まれている少年だった。
彼は警察官だった父親を亡くし、一時は自暴自棄になっていたようである。中学に上がると、手のつけられないほどの不良になったと聞いている。梨穂子は息子が事件を起こす度、学校へ呼ばれたり、警察の厄介になったりしていたらしい。
母親を亡くした彩那には、彼の気持ちが少なからず理解できる気がした。しかし具体的にどう接すればよいか分からず、遠くで見守るしかなかった。
そんな龍哉も母親が再婚してからは、人が変わったように大人しくなった。最初は新しい父親とことごとく衝突していた。時には身体を張った大喧嘩に発展することもあった。しかしそのうち龍哉から憎悪が消えていったようだった。父親の言うことを聞くようになり、勉強もするようになった。そして彩那と同じ高校に合格した。
玄関のドアを開錠する音が、暗闇の中で異常なほど大きく聞こえた。
彩那は涙を拭うと、ベッドから跳ね起きて、キッチンへと向かった。
そこには龍哉の姿があった。昼に見た制服姿のままである。足取りは重く、よく見ると右腕には包帯が巻かれていた。
「どうしたの? 大丈夫?」
思わず駆け寄った。
龍哉は何も言わなかった。
誰かと喧嘩でもしたのだろうか。昔の不良時代を思い起こさせた。もし彼が昔に戻るようなことがあれば、それは彩那のせいではないかという気がした。
しばらくすると、包帯がみるみるうちに赤く染まり始めた。
「血が出てるじゃない!」
「構うな」
龍哉は怒った声を上げた。
「ふん。何よ、せっかく心配してあげたのに」
彩那は黙って救急箱を取り出した。彼の前に新しい包帯を置いた。よく見ると、腕だけではない。左の頬にかすり傷があった。ナイフでやられた傷のようだった。
「今までどこに行ってたのよ。何か悪いことでもしてたわけ?」
「お前には関係ない」
「ああ、そうですか。どうぞご勝手に。でもね、私たちの両親は警察官だということをお忘れなく。あなたが何をしようと興味はないけれど、親の顔に泥を塗ることだけは許さないから」
それだけ言うと、さっさと背を向けた。
「もう寝るわ。おやすみ」
「おい、夕飯残ってないか?」
数歩進んだところで、そんな言葉が投げ掛けられた。
「えっ? まさか食べてないの?」
「まあな」
「あなたが要らないって言うから何も用意してないけど、これから作ってあげるわよ」
「済まない」
「いいわよ、今夜は私が当番なんだから」
鍋に水を満たすとコンロに掛けた。
「パスタしかないわよ」
「ああ」
敢えて龍哉の方は向かなかった。ただ鍋が沸騰するのをじっと見つめていた。しかしこれでは間が持たない。演劇部の先輩の話でもしようと思った。
「あのね」
「あのさ」
二人の声が重なった。
「何? そちらからどうぞ」
彩那が譲った。
「お前、演劇部に入ったのか?」
その言葉に驚いた。龍哉が彩那のやることに興味を持つとは考えてもみなかったからである。
「まあね」
「それなら、俺も紹介してくれ。入部したい」
「演劇部に?」
「ああ、何か問題でも?」
「いえ、そういうわけじゃないけど」
一体どういうつもりだろうか。まさか父親から勧められたとでもいうのだろうか。それにしても龍哉に演劇は似合わない。
もっとも、これが事実なら、神城先輩たちは狂喜乱舞するに違いない。彩那はつい笑みをもらした。
「何か変か?」
「別に。でも、あなたが演劇部に入ったら、きっと、みんなびっくりするんじゃないかと思って」
「どうして?」
「それは内緒。明日の放課後、一緒に部室に行きましょ」
彩那は軽やかな手つきでパスタを投入した。
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