第26話 z:
その時、僕は完全に油断をしていた。ドアスコープを覗くと、見知った顔の宅配業者の青年だったので、僕は躊躇なくドアを開けた。すると、足元を掠めるように小さな風が巻き起こり、黒い影が勢いよく飛び出していった。
――ジルたった。
彼が玄関から出て行こうとしたことなど、いままで一度もなかった。訪問者があると、彼はどこかへ隠れてしまい、顔を見せることすらなかったのだ。こんな風に彼が出ていってしまうことを、僕はまったく想像していなかった。
ジルは振り返ることもなく、その大きな体躯を揺すりながら階段を駆け下りていった。後には、僕と宅配業者の青年が呆然と残されただけだった。
僕は一瞬、事態をうまく呑み込めなかったが、次の瞬間には、脚が勝手に動いていた。
階段を飛び降りるようにして下までやってくると、僕は辺りを見回しながら必死になって彼の名を呼んだ。しかし、ジルの姿はもうどこにもなかった。
僕が走って一旦部屋まで戻ってくると、玄関前で宅配業者の青年が、困惑した表情に安堵の色を滲ませた。勝手な話だが、僕はそれを見て少しだけ苛立ちを覚えた。
荷物を受け取り、着替えを済ませて財布とケータイと部屋の鍵を持つと、僕は再びジルを探しに出た。植え込みや、放置された段ボール箱なんかを確かめながら、探す範囲を広げていった。
しかし、長いこと外に出ていなかったであろう彼が行きそうな場所など、僕にはまったく見当もつかなかった。
僕の中で焦りと不安が渦巻き、最悪を想像をさせる。僕はこれでジルまで失うことになったら、本当に何も残らなくなってしまう。
こうなってみて初めて、僕はジルの存在が自分の一部であったことに気が付いた。失ってから初めて気付く。もう何度この同じプロセスを繰り返したのだろう。
僕は心の中で自分の愚かさを呪い、口汚く己を罵りながら、ジルを探して歩いた。
そして、ジルのことを考えると、自然と彼女のことが想い起こされた。
僕の人生の様々な場面に、彼女とジルは存在していた。彼女の笑う声、笑う顔。ジルの後ろ姿、ごはんをねだる鳴き声。レコードにあわせて踊り狂う彼女。おとなしく爪を切られるジル。予防接種にジルを連れていく彼女。連れていかれるジル。
いろんな記憶が僕をすり抜けていく。そう、僕はたぶん、罰を受けたがっている。罰を受けたことにして、許されようとしている。傷付き、悲しむことで、僕はそれを免罪符にしようとしている。言い訳にしようとしている。前を向かない、自分と向き合わない、その理由にしようとしている。自分に言い訳ができてしまえば、他人にどう思われてもよくなる。麻痺してくる。日々が色を失っていく。でも、そのことに僕は気付かない。いや、気付けなくなる。傲慢になり、被害妄想に苛まれ、現実から目を逸らすようになる。都合のいいことだけを見て、その他のことはすべて遮断してしまう。あれが原因なのだと短絡的に結論づける。だから仕方がないのだと納得しようとする。僕は悪くないのだと思い込もうとする。
そんなことは、もう終わらせてほしい。
僕は懇願する。
泣いて訴える。
僕の頭の中で言葉やイメージや音楽が入り乱れて、いま目に見えているはずの現実が歪む。
すれ違う人が僕を奇異の目で見てくる。憐れみの目で見てくる。その目に浮かぶ不安と怖れの色は、僕を断罪してくれるのだろうか。いや、そんな人は極一部だ。関心を払われるだけマシだ。多くの人の視界には僕は映っていない。僕はあの日から透明で、誰の目にも映ってなんかいないのだ。僕を必要としてくれたのはジルだけで……いや、それは失礼な思い上がりだ。無かったことにしてはいけない。僕が重ねた罪なのだから。僕はいつから自分が正気だと思っていたのだろう。
街中を歩き回って棒のようになった脚を引きずりながら、僕は力なく階段を登る。踊り場には燃え尽きるような夕陽が黒く深い影を落とし、夜のはじまりを知らせていた。
僕が階段を登りきると、廊下の暗がりから唐突に声をかけられた。
「おかえりなさい」
才谷さんだった。いつかと同じ様にしゃがみこんで膝を抱えながら、僕を見つめていた。
「なんだかボロボロですね」
そう言って才谷さんは嬉しそうに微笑む。僕の視線はそんな才谷さんに釘付けになり、言葉を返せなかった。
「感動のご対面ですよ」
どうしてか、僕はいまにも泣きそうになる。才谷さんの顔を見て、僕の胸に湧き上がってきたものは、静穏と愉悦が綯い交ぜになった感情だった。まだ才谷さんがいてくれる。なんと僕は単純で安っぽい人間なのだろう。あまりに都合のよい自分に幻滅しながらも、安堵の情は確実に広がっていた。すると、僕は才谷さんの右手が、膝の上で小刻みに動いていることに気が付いた。何かをゆっくりと摩っている、いや、撫でている。
僕は慌てて才谷さんに近づくと、覗き込んで確かめた。
――そこにはジルがいた。
才谷さんの膝の上で、当たり前のように丸くなりながら、ジルは面倒くさそうに目だけを僕に向けてきた。
「さ、才谷さん……ジルをどこで?」
僕は興奮で上ずる声をどうにかコントロールしながら才谷さんに尋ねた。
「やっぱりジルさんなんですね。この子はここにいましたよ。わたしより先に」
才谷さんの細い指がジルの顎を撫でると、ジルは喉の奥を低く鳴らした。才谷さんが満足げに目を細める。
すると、僕は自分の視界が滲みはじめていることに気が付いた。慌てて顔を逸らして目元を拭う。
「泣いているんですか」
その声はとても優しく、僕の内側に響いて熔けていった。
「そうみたいだ」
深まる夕闇の中で、才谷さんの声とジルの喉を鳴らす音だけが、くっきりと浮かび上がる。
「いままで我慢していたんですね」
そこで僕はまた、自分勝手に許されたいと願う。
「そうなのかもしれない」
でも、そんなこと、いまさら口にはできない。
「オトコの人も泣いていいと思いますよ」
視線を上げると、才谷さんの大きな瞳が僕を見つめていた。胸に込み上げてくる感情があったけれども、それが何なのか思い出せなかった。過去に知っていたはずのものなのに、いまの僕には扱い方がわからなくなっていた。
それはあまりにも遠くて、僕が諦めてしまったもの。
もう失いたくなくて、目を逸らしていたもの。
「……才谷さん」
無意識に伸ばした僕の手が、才谷さんの手に触れそうになったその瞬間、指先にざらりとした感触があった。視線を落としてみると、ジルが僕の指を舐めていた。
今度は失う前に――
また視界が滲みそうな気配がしてきて、僕は顔を上げた。
その視線の先では、最後の夕陽の残滓が、藍色をした夜の空に熔けてなくなろうとしていた。
藍色に熔ける 藍澤ユキ @a_yuki
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