第21話 u:
目が醒めると、そこは病室だった。白く明るくて清潔だけれども、どこか陰気な雰囲気が滲む。周囲を漂う消毒液の臭いと、さらにその奥に微かに混じる熟れ過ぎた果実のような腐臭。取り繕った作り物の空気が部屋中に充満しているようだった。
頭がぼんやりとしながらも、僕は背中の違和感に気がついた。引っ張られるような、引き攣るような感覚。でも、それが何なのか、僕には知る方法がなかった。眼を開けてしばらくじっとしていると、看護士の一人が気づいてくれた。
「後で警察の方がいらっしゃるそうです」
担当医だと名乗った男は、僕の状況と見込みについて説明すると最後にそう言った。
「警察?」
僕が不思議そうに尋ね返すと、担当医は意外そうに眉根を少し寄せた。
「ええ。被害に遭われた時のお話を伺いたいそうです」
そうしてやって来た警察の担当から事情を聴かされて、僕は初めて自分の置かれている状況を把握した。どうやら僕は誰かに刺されて病院に担ぎ込まれたらしい。なかなかに非日常的な話だったので、僕が他人事のように通り魔か何かなのかと口にすると、「誰かとトラブルになっていたなどの心当たりはないということですね」と、妙に前のめり気味に食いつかれた。心当たりもなにも、僕には刺された時の状況ですら、理解ができていなかった。
あの時、僕はこれまでに経験したことのない激しい痛みに襲われて、反射的に右手を背中へと回した。そこは火がついたかのように熱く、不快な粘り気に覆われていた。そして次の瞬間、唐突に膝から力が消えるように抜けると、僕は前方へと崩れていった。
記憶があるのはそこまでだった。僕には刺されたという認識すらなかったのだ。当然、犯人など見ているはずもなかった。僕の口から有力な証言を引き出せなかったからなのか、警察の担当は目に見えて落胆していた。
夕方近くになってリンちゃんが見舞いに来てくれた。どうやらリンちゃんが刺された僕を最初に見つけたらしく、病室に入ってきた時の喜びようは大変なものがあった。
「死んじゃうのかと思ってパニくったよ。もう、こういうの止めてよね」
眼を潤ませながら声を震わせるリンちゃんの姿は、なんとも言えず胸にこみ上げてくるものがあった。ひとしきり喜びの弁を述べると、次にリンちゃんは我慢していたかのように口早に尋ねてきた。
「ねぇ、ジルさんは大丈夫なの? ごはんどうしてるの?」
僕が担ぎ込まれてからまだ一日なので、とりあえず大丈夫だとは思うが、当分は帰れそうにない。
「こめん。頼めるかな、彼のことを」
リンちゃんをあの部屋へ入れることには抵抗があったが、背に腹は変えられない。ジルを飢えさせるわけにはいかなかった。僕は部屋の鍵を渡しながら、一応、リンちゃんに予め伝えておくことにした。
「部屋に入ったら、きっと驚くと思うけど、僕にはそれにうまく答えられる用意がない。気にしないでほしいとしか言いようがないんだ」
やはりうまく説明できそうにない。未だに彼女の気配と生活しているなんて説明が、果たして正しいのかもわからない。それをリンちゃんに言ったところで、それはリンちゃんにとって納得感のあるものなのか。いや、そんな訳はないだろう。
「う、うん……ジルさんは任せて。やっとご対面だね。で、えっと……なに、変な趣味でもあるの?」
訝しげにリンちゃんが僕の眼を覗き込んでくる。
「それは行けばわかるんだけど、それがどういうことなのかは……君を失望させるだろう」
いままで黙っていても平気だったくせに、露呈するとなったらこの様だ。誠実さとは、やっぱり人にとって重要な素養らしい。
「うぅん……よくわからないけど、とにかく行ってみるね」
鍵を受け取るとリンちゃんは、少しだけ困惑した色を浮かべながら微笑んだ。
次の日。また夕方にリンちゃんはやってきた。
「ジルさん、聴いてたよりも大きくて、びっくりしちゃった。ウチのシルビアちゃんの倍ぐらいありそうだったよ」
瞳の揺らぎとその声音から、リンちゃんが必要以上に明るく振舞っていることがわかる。最近の僕は、そんなことにばかり敏感になっている気がする。鈍感を装いながら自分を守ることも楽なやり方ではない。いくら傷から血が流れても、その傷の存在を認めることはできないのだから。
「ノルウェーフォレストジャンキャットっていう大型で温厚な種類の血を引いてるんだよ、彼は」
さぁ、あの部屋を見てどう思った。君は。
「すごい人懐っこくて可愛かった。もうめちゃめちゃ仲良しだよ、わたしたちは」
リンちゃんは持ってきた花束を花瓶へと移しながら、僕の方を見ようとはしない。
「なにも、訊かないのかい?」
空気の探り合いに堪えきれなくなって、僕は自分から切り出してしまう。
すると、リンちゃんは今日、初めて目を合わせてきた。
「……訊いてもいいの?」
その大きな瞳には、僕を試すような気色が浮かんでいた。
僕は舌で唇を少し湿らせると、ゆっくり口を開いた。
「その権利はあると思うよ」
事前にリンちゃんを締め出しておきながら、今、こうして反応を窺うようなことをしている。明らかに僕の言動は矛盾している。リンちゃんから何を引き出そうと躍起になっているのだろうか、僕は。
しかし、そんなリンちゃんが口にした言葉は意外なものだった。
「じゃあ、訊かない。どうしても喋りたいなら別だけど」
花瓶をサイドテーブルに置きながら、リンちゃんは視線を逸らさずに僕を見つめてくる。そして、ひとつ息を吸い込むと先を続けた。
「わたしに訊く権利があるなら、わたしはそれを行使しない」
「そのこころは、と訊いても?」
「もちろん」
リンちゃんは軽く頷いた。
「話してくれる気があるなら、わたしはそれで十分。問題は内容じゃなくて姿勢だから。わたしの手であなたの傷を拡げたいとは思わない。でも、もし、権利がないって言われてたら、誰が傷ついたとしても絶対に訊き出したけどね」
そう言ってリンちゃんは悪戯っぽく微笑んでみせる。
僕なんかより、リンちゃんはよっぽど大人だった。
数日後、僕を刺した人物が捕まった。
警察は詳しいことを教えてはくれなかったが、話の断片から推測するに、どうやらその人物は未成年らしかった。そして、人の口に戸は立てられないとはよく言ったもので、この人物がリンちゃんの知人であるということは、かなり早い段階で僕の耳にも届いていた。
この件で、リンちゃんは執拗に事情聴取をされたらしい。なんでも、犯人の供述内容と事実の確認に時間を要したということだった。そして、僕も同様に事情を事細かに尋ねられた。しかし、僕の場合、傷害事件の被害者という立場と、条例違反の疑いがある被疑者という、極端に立場が相反する二種類の聴取だった。
それは、鈴置七海という少女について、僕が能動的に知ろうとしてこなかったことへのペナルティだった。
この事件が、僕たちの関係性に少なからず影を落としたのは必然だった。
勝手なことに、僕の方はこの出来事を贖罪や禊のように感じている部分が心のどこかにあった。自分でもずいぶんな話だとは思う。しかし、無意識のうちにそう感じてしまうことを、止めることはできなかった。全てが明るみに晒されて、単純に僕は開き直っていたのだと思う。そして、そんな自分を自分で許す方便を見つけてしまった。きっと、そういうことなのだろう。
反対に、リンちゃんにとっては、自分の知人が起こしたこの事件は、見えない十字架となり、負い目になったようだ。いまのリンちゃんに以前のような余裕はもうない。リンちゃんは年相応の少女でしかなくなっていた。指輪はもう使えない。魔法は解けてしまったのだ。
「お水、飲む?」
見舞いに来たリンちゃんが僕に尋ねてきた。口元には、以前のような柔らかい笑みが浮かんでいる。こうしていると、なにも変わらないような気がしてくる。
「ありがとう。貰えるかな」
リンちゃんが冷水の入ったコップを渡そうと手を伸ばしてくる。
僕はそれを受け取ろうと手を伸ばすが、背中の傷が引き攣って、不意に手元が狂う。コップではなく、リンちゃんの手首を力なく掴んでしまう。
すると、リンちゃんは熱湯に触れたかのようにびくりと身体を跳ねさせて、その白い手を胸元へと反射的に引き寄せた。ベッドの上には冷水が溢れ、床へ落ちたメラミンのコップが軽薄な音を立てた。
「ご、ごめん……びっくりしちゃって……」
自分の反応に動揺しながら、リンちゃんが慌ててタオルで水気を拭いていく。
「大丈夫だよ」
僕は忙しなく動くリンちゃんの白い手を、いつまでも見つめていた。
退院すると、僕からリンちゃんに連絡をする機会は減っていった。そして、これといった出来事も理由もなく、僕らは疎遠になっていき、いつしか連絡をとらなくなった。
終わりに理由がないことは別にめずらしいことではないし、終点がどこだったのかなんて、結局は後付でしかない。流れの中にいる間は見えてはこないものだ。そうした意味で言えば、僕はまだ大きな流れの中にいるのかもしれなかった。
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