第19話 s:

 歯切れがいいけれども単気筒とは違う、ツイン独特の排気音を響かせながら、一台のバイクが下までやって来た。

 そこの信号を曲がってくる音が聴こえていたので、僕は部屋を出て廊下から首を伸ばしてエントランスを見下ろしていた。

 ポップでカラフルなジェットのメットが僕を見上げてくる。僕が片手を上げてみせると、彼女はアクセルを捻り一度空吹かしをしてからエンジンを止めた。

 69年製の僕らよりも年上の彼女のバイクには、そんな古式ゆかしい儀式が必要だった。

 CB350エクスポート。サーディンブルーとホワイトのツートンカラーをしたそのホンダは、彼女の大のお気に入りだった。

 僕が下まで降りていくと、彼女は黒いメットを放るようにして渡してきた。

「さぁ、行こうか」

「どこへだい?」

 時刻は深夜二時。

「海だよね、やっぱ」

「海ですか。やっぱり」

 そう言うと、彼女はタンク下のメインキーを捻り、キックレバーを引き出して脚を掛ける。こきこきとレバーを踏み込み上死点を探ると、一気に脚を踏み下ろしてアクセルを開けた。威勢の良いエキゾーストノートが響き、CBのエンジンが再び目を覚ます。その鼓動はまるで、生あるエネルギーを内に秘めているかのようだった。

「なんでセルを使わないんだい?」

「そりゃ、君。ロマンというやつだよ」

「そんなものかね」

「そんなものだよ。バイクは非合理的な乗り物だからね。ロマンがなければやってられないよ」

「ロマンねぇ」

「キックは付いてないし、インジェクションでエンジンはすぐにかかるし、ロマンがないから最近のバイクは売れないんだよ」

「そうやってメーカーにラブレターを書くといい」

「残念だけど、いまのメーカーにはあまりに酷だよ。わたしの愛は重過ぎるし、古臭いんだ」

「重い愛は敬遠される。古臭いのはどうなんだろうね。わからないな」

「ほらほら、乗って」

 彼女に言われるままにフラットなシートの後ろに座ると、CBの静かな鼓動が下肢から直接伝わってきた。その静かさはどこか暴力的な狂気を孕んでいて、いまにも爆発しそうなエネルギーに満ちていた。

「いい?」

 彼女の問いに肩を叩いて答える。すると、彼女はクラッチレバーを握り、シフトペダルをローへと蹴り込む。そして、アクセルをゆっくりと開けてクラッチを繋いでいく。後輪に動力が伝わりはじめると、車体は滑らかに走り出した。意外にも繊細な彼女のクラッチワークにより、不快な振動は皆無だった。ゆっくりと無人の車道へ進み出る。

 しかし、次の瞬間、そんな繊細さは霧消した。

 彼女は力強くアクセルを捻ると、一気に回転を上げて、素早くシフトアップしていく。タコメーターの針がリニアに一万回転まで回り、エンジンは唸りを上げ、二本のマフラーからはずぶとい排気音が放たれる。燻っていたエネルギーはすべて解き放たれて、暴力的な加速と激しい振動が身体を丸ごと包み込む。彼女のCBは轍で歪んだ夜の246を滑るように走り抜けていく。僕はリアのサスペンションが沈み込むたびに、彼女の腰に回した腕とグローブバーを握る右手に力を入れた。

 朝陽が顔を出しはじめた頃、僕らは砂浜に腰を下ろしていた。彼女がボルヴィックのペットボトルを傾けている横で、僕はメンソールの煙草に火をつけた。人間は刺激にはすぐ慣れてしまうもので、僕もこの頃にはメンソールにすっかり慣れてしまい、爽快感を得ることは最早できなくなっていた。そう。どんな刺激だって、もっとスゴイのが欲しくなる。

 太平洋を望む砂浜にはまだ誰もおらず、少し沖の方には、ストイックなサーファーたちのウェットスーツ姿がちらほら見える。

「あの人たち早起きだね。まだ暗いうちからやってるとは頭が下がるよ。僕にはとても真似できそうにない」

「面倒くさがりの君は、世の大半のことを真似しそうにないけどね」

 そう言うと、彼女は口に含んだ水をぴゅっと飛ばしてみせた。水は砂に落ちると、瞬く間に染み込んでいった。

「つまらない人間だねぇ、僕は」

 肺に送り込んだ紫煙をゆっくり吐き出していく。

「いいんじゃない。人生に意味なんてないんだから」

「君らしからぬ発言に思えるね、それは」

 僕はちらりと彼女へ視線を向ける。でも、長い前髪に隠されて、彼女の表情は窺い知れなかった。

「へぇ、じゃあ違うの?」

 平坦なトーンで彼女が返してくる。

「いや、ひとつの真理だとは思うよ。でも、君のモノではないような気がするってだけ」

 すると彼女は堪えきれないといった様子で吹き出しはじめた。

「ふっ、ふふふっ、あっはははっ」

「そんなにおかしなことを言ったかな」

「そりゃ、おかしいよ。人間は多面的で常に矛盾している存在なのに、君ときたら、まるでわたしが一義的で矛盾など起こさないみたいに言うからさ」

「そんなことは言ってないけどね」

「いやいや、わたしらしいっていう定義はさ、どんなわたしだって存在し得た可能性を、一瞬ですべて排除してしまう呪いみたいなもんだよ」

「今日から僕も呪術師だ」

「らしさ、なんてモノはないんだよ」

「そうかもしれない」

「わかればよろしい。君もわたしのことを、簡単に理解したつもりにはならないことだよ。いまこの瞬間のわたしは、もう存在しないのだから。そして、一瞬先のわたしが、いまのわたしと同じとは限らないのだからね」

「哲学的な雰囲気はでてるね」

「詭弁を弄して煙に巻こうという算段かもよ」

「詭弁を弄されてお腹が空いたよ」

「んじゃ、しらす丼でも物色しますか」

 そう言って彼女はすたっと立ち上がると、デニムについた砂をはたき落としながら、僕を見下ろしてにんまりとした。

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