第2話 b:

 彼女とは、文化人類学の授業が一緒だったのがはじまりだった。いや、正確を期すならば、文化人類学の授業に出るために教室へと向かう途中の廊下で、彼女に脚をかけられたことがはじまりだった。

「いやぁ、ごめんごめん」

 彼女は転んだ僕を引き起こそうと右手を差し出してきた。

「危ないな……なんだって君はこんなことをするのさ?」

 若干の苛立ちと呆れの入り混じったため息を吐き出すと、僕はリノリウムの床に打った膝を摩りながら彼女を見上げた。

「わたしが出した脚に引っかかって転ぶ人を待っていたんだよ」

 自慢でもするかのように、彼女は堂々と胸を張った。そのあまりに悪びれない態度が、逆に僕の興味を惹いた。

「そいつは、あまり趣味がいいとは言えないね。で、こうして待ち人が現れたけど、君はどうするんだい?」

 彼女の右手を取って立ち上がると、僕は衣服の乱れを整えた。彼女の顔をちらりと伺う。

「君はパクチーは好きかい? 君は」

 すると、彼女は僕の口真似をしながら、ケタケタと笑い出した。

「パクチー?」

「そう、パクチー。シャンツァイ、香草、なんでもいいんだけど、わたしの出した脚に引っかかって転んだ君と、ゴハンにでも行こうかと思ってね」

 だいぶ後になってから彼女に聴いた話によると、あれは最初から僕に狙いを定めてやったことらしい。辻斬りのように、誰彼構わず脚を引っ掛けていたわけではなかった。

 でも、無差別にそうしていたと言われても、僕はその話を信じただろうし、むしろ、そうであってほしかったとすら思う。

 彼女には、そんなことを思わせるエキセントリックなところが、いや、好意的に表現するならば、アバンギャルドとでも言い表そうか、とにかく、そういうところが彼女にはあった。

 このヘンテコな遭遇に勝手に縁を感じた僕は、彼女と一緒にパクチーを食べに行くことにした。

 勿論そこには彼女の容姿に惹かれたという、俗で単純な理由も多分にあったことは否めない。僕は健全な肉体と、少しばかりシニカルな精神を持った只の若者だったのだ。即物的であったとしても、誰にそれを責めることができよう。なにせ、彼女はとても素敵な見た目をしていたのだから。

 歩くだけでも周囲の視線を集め、すれ違う人は皆振り返る。公共の場にひとたび出れば、好奇心剥き出しの不躾な視線を投げかけられる。幸か不幸かの判断は僕にはできかねるが、彼女はそういう種類の、一般的に言ってみれば、恵まれた容姿の持ち主だった。

 それに、僕は子供の頃にパクチーを食べて以来、あの香りを苦手としていた。タイへ仕事で行った父親から、タイという国は飛行機を降りた瞬間からパクチーの匂いが充満しているのだという話しを聴いて、そのイメージに背筋を震わせたものだ。彼女に誘われたのでなければ、僕はパクチーなど食べに行ったりはしなかっただろう。

 そして僕は、誘われるまま彼女に連れられて、タイ、インドネシア、ベトナム、ネパールその他諸々が混じりあって収拾つかなくなったような、混沌としたアジア料理の店へと行った。その店の佇まいの怪しさは相当なもので、僕は自分一人だったら絶対に行くことはないだろうと断言ができた。

「揚げバナナをサービス中!」

 かろうじて入り口だと判別できる外の扉に、そんな手書きのチラシが貼り付けられていた。そのバナナとおぼしき線の波打ったイラストと、器用に反転をしている辿々しい「を」の字が、なぜだか妙に僕の眼を引いた。

 そんな怪しさ満点の店へ彼女は自然な感じで入っていくと、外国人の店員や料理人たちと親しげに挨拶を交わしはじめる。顔なじみのようだ。彼女は慣れた調子で注文をしながら、僕に食べたいものを尋ねてきたが、勝手のわからない僕は彼女に任せることにした。

 そして、僕らはたらふくパクチーを食べた。その日、彼女と食べたパクチーは思いのほか悪くなかった。いままで臭気だと感じていた香りにも不思議と抵抗がなく、むしろ、パクチーが料理をいかに引き立てているかをしっかりと感じることができた。味覚は経験によって作られると言うので、僕も大人になったということなのだろう。

 そんな話しを、パクチー山盛りの牛肉のフォーを啜りながら彼女にしたところ、蒸し鶏のパクチーサラダを口いっぱいに頬張りながら彼女が言った。

「味覚を司る味蕾という器官があるんだけど、そいつが加齢によって鈍感になるから、不味いものも食べられるようになるという説もあるんだよね」

 そして、ニヤリと不敵に笑うと、彼女はビンタンビールの注がれた氷入りのグラスを、ぷっくらと艶めく唇にゆっくりと近寄せた。

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