藍色に熔ける

藍澤ユキ

第1話 a:

 彼女がこの部屋に戻ってくることは、もう、なかった。

 部屋には、クローゼットいっぱいの彼女の衣装と、一人には大きくて二人には小さい彼女のセミダブルのベッド。色とりどりの無数の雑貨。ギターをはじめとした楽器類に、レコードプレイヤーと大量のアナログ盤。そして、彼女の黒猫が残された。

 彼の名前はジル。

 僕は彼を「ジルさん」と呼んでいた。呼び捨てにできるほど、我々の関係は親しいものではなかったからだ。

 彼は普段、僕が部屋にいる時は少し離れたところで寝そべり、僕には興味がなさそうにそっぽを向いていた。彼が僕を認識するのは、ごはんの時間がやってきた時だけだった。

「ニャオン」と短く喉の奥で唸ると、お皿の前へと座り、長くしなやかな尻尾を左右へゆっくりと揺らす。それは彼流の催促であり、欠かすことのできない儀式だった。彼女にも同じように催促していたことを僕はよく覚えている。

 彼女が選んでいたキャットフードと同じ物を、僕は常に切らさないように気をつけていたので、ジルがその件で機嫌を損ねることはなかった。

 でも、夕方近くになると、彼はある種のタスクでも起動したかのように、いつも玄関へ行って切なげな声で鳴きはじめた。そして、その後はきまって機嫌が悪くなるのだった。彼が何を呼びかけているのかはわからなかったが、誰に向けて鳴いているのかは僕にもよくわかった。その悲愴感漂う鳴き声は、僕の身体の何処か奥深く、自分でも知覚できないような場所でちりちりと静かに音を立てた。

 そんな彼に対して、僕はなんと言葉をかければよかったのだろう。いまでも、時折、そんなことを思う。

 平日。僕が家を出る時間は早かった。太陽がまだ光を持たない静寂な時間。僕はヘッドフォンから薄っぺらい音を溢しながら職場へと向かう。仕事をしている間は心を殺して機械になれるので、僕は何も考えなかったし、寂しくもなかった。そこでは、感情などというものは非効率的で非生産的なモノとしか扱われないので、僕は心置きなく人間を辞めることができた。そして、夜遅くなると磨耗した身体を引きずって僕は帰宅をする。冷たい玄関の扉を力なく開けると、ソロソロと音もなく廊下を歩いてジルが出迎えに来てくれる。

「ただいま、ジルさん」

 僕がため息を洩らすように声をかけると、「ニャオン」と面倒くさそうに一声発して、彼はまた、お気に入りの洗濯カゴの中へと戻っていった。たぶん、帰ってきたのが僕であるとわかっていながらも、彼は一縷の希望を捨てられなかったのだろう。彼女かもしれないと。

 僕たちは同じ悲しみを抱きながらも、痛みを分かち合ったりはしなかった。一人で抱えて、一人で涙するのが僕たちのやり方で、僕らは家族でも友人でもなく、単なる同居人だった。

 その部屋には、僕の物はそう多くはなかった。ほとんどが彼女の物で、彼女の趣味だった。だから、彼女が残していったセミダブルのベッドで、僕は以前と同様に寝起きを続けていたし、特に手放す理由もなかった。

 その一人には広いベッドに横たわると、僕はとても気分が落ち着いた。僕にとっては睡眠だけが唯一の心の平安だった。このまま明日が来なければいいと何度願ったことかわからない。

 そんな僕の足元にジルは時々やって来た。そして、丸くなってベッドの隅で寝息を立てはじめる。でも、彼が僕に寄り添い、その温もりを分け与えてくれることはなかった。彼は僕よりも孤独に順応していたのだと思う。だから、僕からも彼に近づいたりはしなかった。いつも少し離れた場所で、僕たちは空間を共にするだけだった。

 一人と一匹の共同生活。

 様々なものを失っても、僕はダラダラと毎日を重ね、表面上はこれまでと同様に過ごしていた。そんな生活の中で、人間はどんな時でも空腹になるのだということを僕は知った。

 腹が減ると、たいがい僕は自分で料理をした。キッチンには彼女が残していった調理器具がたくさんあって、どんな料理であろうと作るには困らなかった。でも、それらの器具のほとんどは使われずに眠ったままだった。

 僕は元来、料理をすることが苦ではなく、どちらかと言えば好きな方だったが、気力を欠いていた僕は、ルーティンのようにパスタだけを茹でることに没頭した。作り方を調べるようなこともなく、想像と閃きでいつも適当に作った。僕にとっては、イメージすることができればパスタは作れたも同然だったし、僕は機械的にそれらをこなすことができた。ペペロンチーノ、カルボナーラ、ペスカトーレ、ボンゴレビアンコ、プッタネスカ、アラビアータ、ジェノベーゼ、ボロネーゼ、その他、イメージから創作された数多のオリジナル。

 とにかくたくさんのパスタを思いつくままに僕は作っていった。具材を変えたり和風にしてみたりなどしながら、僕は来る日も来る日も、毎日パスタばかりを茹でていた。

 寸胴鍋に湯が沸いたら、手早くパスタを投入。本職シェフのように、パスタの束が綺麗に円を描いて鍋の中に広がると、ささやかな達成感も味わえたりする。

 そして、キッチンタイマーをセットして文庫本を開くと、僕は壁にもたれかかり、文章を目で追っていく。時々、思い出したようにソースパンを揺すり、寸胴鍋をゆっくり掻き回すと、タイマーの先回りをして茹で加減を確かめてみる。麺がプツリと前歯で噛み切れたなら、茹で汁をパンチングボウルにあけて、つるりと茹であがったパスタとご対面。

 この瞬間が僕は割と好きだった。

 簡単で安価。自由で旨い。パスタとは一人暮らしの僕の様な人間に、神が与えし至高の料理と言っても過言ではないだろう。

 いや、少しばかり言い過ぎた。

 でも、料理は僕の気持ちを幾分マシなものにしてくれた。少なくとも、ジョークを口にすることができるぐらいには。この点については神に感謝してもいいと思っている。僕の人生のすべてを神に感謝するかどうかは疑問の余地があるところだが。

 空腹が満たされると瞬間的な多幸感を得られることもあった。でもそれは、逆に満たされない部分を際立たせたりもした。

 僕は時々、クローゼットから彼女の残していった服を取り出しては、そこへ顔を埋めたりすることがあった。

 深く、ゆっくりと息を吸い込むと、服に残された香水と彼女の匂いが満ちてきて、輪郭を失いはじめていた僕の記憶は鮮明に蘇る。甘く広がるその芳香は、僕の胸を掻き乱すのと同時に、永遠とも思える心の静寂を与えてくれた。

 そんな時、僕は無自覚に涙することがあった。溢れ落ちる水滴が意味するものが何なのかは、僕にもよくわからなかった。

 でも、それは悲しみとは違う異質の何かだということだけは確かだった。

 ジルが洗濯カゴの底に敷いているのも、彼女が気に入っていたシャツだった。たぶん、ジルも想い出すことがあるのだと思う。

 彼女の匂い。

 それともうひとつ、この件に纏わる後ろめたい痴態を正直に告白するならば、僕は彼女の匂いに浸りながら、自分を慰めることがあった。我ながら変質的だとは思うものの、僕には止めることができなかった。彼女の残像が僕の中に澱のように溜まっていくことを止められないように。

 そんなどうしようもない時、ジルには部屋を出ていってもらうことにしていた。どんなに湧き起こる欲求が衝動的であっても、そこだけは譲れなかった。僕らの間にも不可侵なプライバシーは存在していた。それが人間と黒猫の間のことだとしても。

 そして、自己嫌悪と虚無感に見舞われながら僕は思うのだった。自分は渇いていると。空っぽなのだと。

 百のパスタも溢れる彼女の匂いも、僕を満たしてはくれないし、この渇きを癒してはくれない。

 そう、隙間を埋めてはくれないのだ。たぶん、僕は浸っていたくなったのだと思う。

 自分にも、あり得たかもしれない幸福という幻想に。

 こいつは笑ってもらっても僕は一向に構わない。

 自分が欲しいものを正しく理解している人などいないのだから。

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