第3話 c:
「もっと本気、出してくださいよ」
初めて言葉を交わした時、才谷さんはそう言って僕に話しかけてきた。本気を出せとは随分な話だ。これまであまり接点がなかったのに、才谷さんは僕の本気を知っているとでもいうのだろうか。
才谷さんは僕のいる部署に最近移ってきた、美人と形容するにはあどけなさの残る、可愛らしいと言った方がぴたりとくる感じの女性だった。
「いやいや、僕はいつだって全力全開の大マジだよ。あ、本気と書いてマジというやつね」
「違います。本気じゃないです。ぜんぜんマジじゃないです」
周りの同僚たちが、無言で視線を交わす気配を感じる。この空気は知っている。馴染みのあるものだ。その場のカルチャーを理解していない新参者や、よそ者がタブーに触れた時の警戒と嘲笑の入り混じった空気だ。
なんのことはない、タブーは僕だ。僕は以前と同じではなかった。いままでと同じようにしているつもりでも、元にはもう戻れなかった。そして、そんなことは誰もが知るところであって、あらためて僕に指摘してやるようなことでもなかった。だから、才谷さんの言動は奇異に映ったのだろう。
「んー、才谷さんに迷惑をかけたようなら謝るよ。何かやらかしたかな?」
僕が才谷さんの大きな眼をぐいっと覗き込むと、そこには動揺の色が浮かぶ。つい衝動的に口にしてしまった、といったところだろうか。自分も許せないが、他人も許せない。正義感あふれる潔癖性の完璧主義者。さぞや、この世は生きづらいことだろう。
「い、いえ。ただ、その……もったいない、ですから……」
才谷さんは視線を逸らすと、拗ねた子供のように少しだけ唇を尖らせた。どうやら才谷さんは以前の僕をどこかで見知っていたようだと、この反応で僕は感じ取る。
思えば、才谷さんはこの頃から器用なタイプではなかった。世間には、如才なく賢しく振る舞うことを誠実ではないと見る向きもあるが、なかなかどうして、圧倒的にそっちの方が生きやすいのは確かだ。つまり、端的に言うと、才谷さんは損をしていた。そうでなければ、才谷さんがああなった理由の説明がつかないし、僕も、どう理解すればいいのかがわからない。
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