5
一週間後、江島はアトリエの中で一人クロッキー帳に木炭を走らせていた。
クロッキー帳には、背が高くこざっぱりとした男性が立ち、あるいは座り、様々な姿態で描かれていた。しかしながら、どの男性にも顔がなかった。
がたり、教室のドアが音を立てた。江島は思わず肩がすくみ、入口へと顔を振り向けた。そこにはもちろん誰もいなかった。
自分から言い渡しておきながら、泉が来たような気がしてしまった。
一週間前、レッスンを休むと言ったあと、ろくに会話を交わさずに泉は江島家を辞した。完全に怒らせてしまった、と江島は悔やんだ。あんなにひどい態度をとっておきながら、泉が訪れる錯覚に陥るのは、きっと泉の人柄に甘えてしまっているのだろう。そのくせ、すぐ行動に移さずアトリエにとどまって、こうして彼女が「来てくれる」ことに期待してしまっているのもまた、完全に甘えから来るものだった。
考えが頭の中で堂々巡りになっていることに気がつき、江島は強く頭を振った。まずは目の前の絵に集中しなければ。展覧会こそ最優先課題だ。制作はすなわち自分の生活だ。
木炭を持ち直した時、ひときわ大きくドアが音を立てた。
幻影には惑わされないぞ。喝を入れるため両手で思い切り頬を叩いた。
「ひゃっ…」己以外の声が聞こえ、驚いて江島は振り返った。
怯えたように、胸の前で両手を握りしめた澤藤が立っていた。
「澤藤さん」
江島の声はアトリエの空間に反響し、声を発した江島自身が驚いてしまうほどだった。
「澤藤さん…きょ、今日はモデル、頼んでないですよね?」
声ができるだけ響かぬよう、驚きと焦りが相手に伝わらぬよう、慎重に口にした。
「あっありません、けども、その…」
その先に何を言うか江島は待たず、先んじて言葉を発した。
「泉に何か言われてきたのであれば、心配はいらないのでお引き取りください。彼女には悪いけど、自分の仕事に時間を割きたかったので。」
それを聞いた澤藤は、胸の前にしていた手を下に下ろしこちらを見た。泉と一緒にいる時に見せる怯えた様子は鳴りを潜め、彼女の前にいたのは落ち着いた一人の男だった。
「いえ、今日お邪魔したのは僕の意思です。泉さんは今回なんの関係もありません。」
彼の様子に一瞬唖然とした江島を見て、彼は少したじろいだようだったが、目を一回強くつぶり、また開くと話し続けた。
「いや、なんの関係もないと言うのは語弊がありました。彼女からレッスンが休みになったのを聞いて、僕が、無理矢理理由を聞いたんです」
いや、違う。江島の中で否定の声が上がった。彼女は私が澤藤に想いを寄せていると誤解している。そんな彼女の考えを聞いて来たのであれば、それは私の本意とは違う。
しかし、その声は口から出なかった。
澤藤は立ち尽くしている彼女の傍を通り、イーゼルの前の椅子に座った。
「僕は正直、絵を描くことは下手くそで、江島さんのお仕事でどうのこうの言うことはできません。なので、こんな奴の言うことは多分戯言だと思います。ただ、絵の題材に選んでいただいた身として、」そこまで言って彼は口をつぐんだ。そして、まっすぐな視線を江島に向けた。「…もっと見てください。見て、描いてください。僕を、題材として使い倒してください。」
江島はその視線を受け止めきれなかった。気弱な少年のようだと心の中で揶揄していた澤藤は、私が思っていたよりも、ずっと、ずっと大人だった。自負していた観察眼は、ただの未熟なまがい物だった。江島は、下を向いた。自然と、木炭で汚れた自分の手が目に入った。
汚れた手。画家の手。江島はこの手と、両の目をもって、画家として生きていこうと決めたのだった。目だけが己を画家たらしめているのではなく、この手もあってこそだ。あったからこそ、泉や彼は画家としての江島に期待してくれている。いやむしろ、画家としてのアイデンティティに挑戦してくれている。ならば。
江島は、顔を上げた。
「わかりました。では、お願いします。」
クロッキー帳を閉じ、画板に画用紙を固定してイーゼルに立てかけた。
まっさらな画面をみて、少し落ち着いた。澤藤の方に向き直った。
「澤藤さん、明日は有給をとってこられたんですか?」
「え、徹夜ですか」
おどおどとした口調で聞く。またいつもの澤藤に戻った。
「冗談です」
「澤藤さんて、泉のこと好きですよね」
「えっ」
「動かないでください」
「すみません」
「答えてください」
「え…、あ、は、…はい」
「実は、割と最初の方から気づいてました。泉って、かわいいし、すごくいい子なんですけど、そういうのに鈍いんですよ。」
描きながら話していると、雑念が薄れ、不思議と言葉が口から出てきた。
「あ、ああ…」
「だから、好きなのであればはっきり言った方がいいと思います。というか言ってください。澤藤さんが言わないから、今こうして泉と気まずくなっちゃったんですよ」
「え…それは、何故」
そこまで言って、江島は実際の経緯をいうのが少し恥ずかしくなってしまった。
「そこは…ちょっと、今は言いませんけど、でも澤藤さんの所為であることは確かです。とにかく、勇気出して彼女に言ってください」
言っているうちに、江島はまるで自分に言い聞かせているような気持ちになっていた。
勇気出して。
勇気出して、彼女に謝ろう。
少し照れくさくなり、しかし澤藤にそれと悟られたくなくて、江島は口の端を少し曲げた。
その日、江島と澤藤は一晩を共に過ごした。
と言うのはやや誇張した表現で、実際は「うっかり」有給をとりわすれた澤藤の終電を考慮して、日付が変わる前にデッサンを切り上げた。相変わらず澤藤の顔は特徴を掴むことが困難だったが、数週間前のスランプの時よりもずっと満足のいくデッサンが描け、いくつかはこのまま本作品の下絵にしたいを思えるほどの出来になった、と江島は満足げだった。
「遅くまで付き合わせてしまってすみませんでした。さぞお疲れでしょう」
「い、いえ、かたせさんのお力になれたので、これくらいは何ともないです」
「ん?かたせさん?」
江島は首をかしげた。澤藤はしまったという風に口を押さえた。すると、みるみるうちに彼の顔が真っ赤になった。
「そそそそそのこれは、あ、あの、つい、あの、うっかり」
大慌てで取り繕う澤藤に、江島はにっこりと微笑んで声をかけた。
「大丈夫ですよ。下の名前で呼んで頂いても」
こう付け加えることを忘れなかった。
「ただし、泉を下の名前で呼べるようになってからでお願いします」
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