例年よりも短かすぎる梅雨が過ぎ、夏が訪れた。近くの海岸には急拵えの海の家が軒を連ね、平日休日を問わず観光客が訪れる。しかしながら、大通りから外れた江島の住まいは、いたって静かで、平常通りだった。

 泉の絵は、拙いながらも着々と進んでいた。デッサンの時にはやや頼りなさを感じていた彼女の画力だったが、色彩感覚は非常に優れており、線画に色が乗ると、彼女の絵の頼りなさは、むしろ繊細さと優美さを備えかがやいた。

 対照的に、江島の絵は遅々として進まなかった。彼の印象は、さながら握りこむとさらさら崩れる海の砂のようだった。あの日の夜、一瞬だが掴みかけたものは、日を経るごとに薄れ、手応えを失っていった。その後何度か澤藤にモデルを依頼したが、そう度々呼びつけても悪いと思い、現在は書きためたデッサンに色を乗せてみては落胆することを繰り返していた。

 泉は、江島の苦悩を、単純な恋心に由来しているものと決めつけているように見えた。その無垢な傲慢さは、江島を苛立たせた。元はと言えば、澤藤の想いを叶えてやろうという自分の傲慢さが引き起こしたことであり、状況をコントロールできず嵌まり込んでいる己の至らなさだ。それは痛いくらいにわかっているはずなのに、知らぬ顔で微笑む泉を見ると、どうしても心の端がちりちりと逆立ってしまう。

「…せちゃん、かたせちゃん」

 顔を上げると、平常通りのほほんとした泉の顔があった。平常通りのレッスン中、いつの間にか俯いてしまっていたようだ。

「何」

 思わず言葉に棘を含んでしまう。

「どうしたの? お腹痛いの?」

「そんなんじゃないけど、何?」

 泉の所為ではないのに、という後ろめたさがささくれを深くする。

「うん…、かたせちゃん、なんだか落ち込んでるような気がして…」

「別に。そんなわけじゃないから。口動かすんなら手動かせば?」

 言ってからしまった、と思った。今の発言、めっちゃ感じ悪い。泉も、口を結び俯いてしまった。

「…ごめん。」

「もしかして、澤藤さんとなんかあったの?」

 八つ当たりして、と言いかけた江島の言葉を、泉が遮った。

「え、いや…」

「だって、かたせちゃん、澤藤さんのデッサン始めてから、眉間にしわ寄せて、ずっとなんか考えているようで、まるで…」

「違うの。出展まで時間がないから焦ってイライラしてて。だから、ごめん。…ちょっと来週さ、準備したいから、レッスンお休みにしてもいい?」

 何が「違うの」だ。それでは彼女の考えを肯定したことになるではないか。しかしそれを訂正しようと口を開くことができなかった。無理に開けば心のどこかで堰き止めている感情が溢れ出してしまいそうだったからだ。

 泉は何かを話そうと一瞬唇を震わせ、しかし何も喋らなかった。

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