「すみません、お仕事お忙しいのに」

「いえ、江島さんの頼みとあれば…!」

 数日後、江島と澤藤はイーゼルを挟んで向かい合っていた。

 江島さん、じゃなくて玉川さん、なんじゃないの。そう江島は思っていた。泉はあの会話を交わしたすぐ翌日の夕方、「澤藤さんに頼んだらオッケーだって!あとはお二人で調整してね」というメールを送ってきた。メールにはご丁寧に澤藤のメールアドレスまで載っていた。一応メアドは交換している仲なのね。と江島は画面を見つめて思った。もしかしたらこのために始めてしたのかもしれないけれど。

 江島は澤藤にメールを送った。わりあいすぐに返事は返ってきた。絵文字などが全くないシンプルな文面を読んで、江島はふと泉のレッスン日以外に会うことはできるのだろうかと思った。同じ日にしてしまったら泉をちゃんと見れなくなってしまうし、どうせなら彼女がいない時に彼の本音を聞いてみたかったからだった。江島は火曜日、泉のレッスンの前日を指定してみることにした。返事はOKだった。


 江島は、イーゼル越しに澤藤を見つめた。

 特徴の薄い、つるりとした顔。

 彼は無意識に彼女の画家としての自信を揺らがせた。

 元々、単に友人の同僚としてしか見ていなかったからに違いない。江島は彼を見つめる目に力を込めた。今度は画家として彼を見、画面上に写し取って見せようじゃないか。

 と、意気込んだその時、

「あっ、あのう…」

 緊張感のない声に、江島は肩透かしを食らったようになった。

「何でしょう」

 澤藤が鼻の頭を掻いた。

「すごく、見るんですね」

 予想もしなかった言葉に、江島は呆気にとられた。

「え…当たり前じゃないですか。絵、描くんですから」

「すみません、何ぶん初めてなもので」

 澤藤はすぐに恐縮する。敬語といい、自己肯定感のすごく低い人なのだろうか。少し興味がわいた。

「澤藤さんって、おいくつなんですか」

「え、僕ですか…」

 彼の返答に、江島は少し驚いた。泉が「澤藤くん」と呼んでいたので、年下だと勝手に思っていたが、むしろ年上だった。そもそも、特徴がなさすぎて見た目が年齢相応かどうかもよくわかっていなかった。

「あの、敬語使わなくていいですよ。私の方が下なんですし」

「いや、でもこれはなんというか、癖というか…」

 澤藤は口ごもり、眼鏡を外して額の汗をぬぐった。

 江島はそんな彼の姿が面白くて口元を押さえたが、その時一つの考えがひらめいた。

「あ!それだ!そのまま!」手のひらを開いて彼の方へ突き出した。

「え…?」

 眼鏡をかけ直そうとした澤藤は江島の方を見て動きを止めた。交錯する視線。

「どうせだったら、眼鏡取ってみません?」

 彼女なりの挑戦だった。己の観察眼を試すのであれば、より困難な道を選ぶべし。

 澤藤は一瞬視線を落とした。

「…お嫌ですか」

「いえ、」

 そう言った彼の顔は、しかしながら輝いていた。

「僕、近眼がひどくて眼鏡が手放せないもんですから、もはや体の一部と化しているようなもんです。生徒たちにも眼鏡が本体って言われてるくらいで。」

 彼は一旦言葉を切って、少し微笑んだ。

「鏡を見るにも眼鏡がないと見られないから、ここ数十年自分のイメージは眼鏡をかけているんです。だから、僕も眼鏡をかけていない僕の顔を見てみたいです」

 ふとした思いつきだったが、意外といい提案だったのかもしれない。彼にとっても、そして江島自身にとっても。江島は得心して頷いた。

「じゃあ、眼鏡はずして、横のテーブルにおいてください。」

 澤藤は頷くと眼鏡をはずしてテーブルに置こうとしたが、おりたたんだ弦の端がテーブルの面に引っかかり、眼鏡は彼の手を離れてテーブルから落ちてしまった。しまった、と言いながら彼は立ち上がったが、本当に目が悪いらしく、少しよろよろして覚束なかったので、江島はすぐに立ち上がり、かがんで眼鏡を拾い上げた。そのまま上体を起こすと、丁度澤藤が伸ばしていた両手の間に収まった。

 ほんの束の間、二人は至近距離でお互いに見つめあった。

「あ…」

「もっ、申し訳ありません!」

 一瞬ののち、澤藤は通常のぼんやりした雰囲気とはかけ離れた瞬発力で後ろに飛び退き、勢い余って壁に持たせ掛けていたイーゼルに蹴つまずいた。大音量。江島は強く目をつぶった。

「大丈夫ですか!?」

 すぐに目を開いた江島は彼に駆け寄り、手を引いて助けおこした。

「は、はい…ですが、備品にダメージを与えてしまったし、それに」

「いや、イーゼルは古いものなんで大丈夫ですが、澤藤さんこそ怪我とかしませんでしたか」

「や、大丈夫です。すみません、絵、描かなきゃいけないのに、こんなことでお手間とらせてしまって…」

「気にしないでください、時間はまだまだありますから」

 江島はそう言って澤藤を席へ促し、再びイーゼルの前に座った。鉛筆を手に取り、澤藤が席に着くのを待たずにカンバスに走らせた。一瞬間近で見た彼の目が、意外ときれいな形をしていたので、忘れないうちに描きつけておこうと思ったからだ。

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