Ten Years Ago

名浦 真那志

 

 財布を探る手が止まった。

 背中がひやりと寒くなる。

 もしかしたら、数え間違えているのかも。 財布を覗き込む、奥も精一杯広げて、まるで縫い目に硬貨が縫い込まれているかのように。

 でも、やっぱり。

「10円、足りない…です、すみません」

 思い切ってレジのおじさんに告げると、おじさんは八の字眉毛をさらに八の字にして、

「無いんだったらしょうがないねえ。レジにおいといてあげるから、家から取って来な?」と言った。 僕は頷いた。涙が出そうになって、何か言わなきゃと思ったけど何も言えなかった。

 頭のどこかで「 何でも無いことで泣くんだから」と母さんの声がする。本当に、僕も何でだか全然分からないけど、何か言わなきゃって思うと、声が震えて、涙が出そうになる。 そのままレジに背を向けて、自動ドアに向かって歩いた。

 自転車置き場へと歩きながら、にじみ出てきた涙を拭こうとした。 辺りに人がいないことを確認しようと、頭をあげた時「ねえ、海ってどっち?」 と話しかけられた。


 海のそばで生まれ、育った僕にとって「海は南に行けばある」ということが常識だった。本当は南にあるだけじゃないってことは、本を読んでいるうちに覚えたけど、でも海はいつも身近で、当たり前にあるものだった。

 だから改めてそれを聞かれるとは思わなくて、ちょっとびっくりしてしまった。

 「海?すぐそこだよ?」 思わず口にしてしまった答えに、話しかけてきたお姉さんはちょっと困ったような顔をして、

 「ごめんね、私ここ初めてなの」と言った。

 あそっか、観光客の人なのか、と思ったけど、観光客って江之島とか、八幡宮の方とかに行くんじゃないのかと思ってると、お姉さんは「連れてってくれたら、お礼するよ」と笑顔で言った。

 あれ、これって「不審者」じゃない?こないだの道徳の時間でやった気がする。道を聞く振りをして、車とかに押し込んで連れてっちゃう人。でも、道徳の劇で出てたのは黒いフードを被って眼鏡をかけたおじさんだった。

 このお姉さんは眼鏡かけててちょっと怪しいけど、そういう「不審者」なのかな。でも、「お礼」が何なのかちょっと気になる。

 「お礼…んー」考えながら周りを見る。車とかは無さそうだし、住宅地だから声を出せば誰か来てくれるだろう。

 「いいよ」 とりあえず、海まで案内すればいいんだよね。


 「そういえば君、学校は?」お姉さんが聞いてきた。

 「もう夏休みだよ。」 本当は海の日だけど、そのおかげで夏休みが一日増える。祝日っていいなって思う。

 「今日はお出かけしてたの?」

 「いや…」 するとさっき買えなかった本の表紙が頭に浮かんだ。このお姉さんを海まで送って、家に帰って、また戻ってくるまで本屋は開いているかな。 ちょうど本屋の横に来たので、閉店の時間を確認しようと横を向いた。すると、ガラスの向こうにその本のポスターが目に入った。

 「本、買いに来た。けど、お金が足りなかった。」

 「いくら?」 聞かれて、はっとした。なんで僕はお金が足りなかったなんていってしまったんだろう?まるで、このお姉さんに買ってもらおうとしてるみたいじゃないか。僕は決まりが悪くなってしまった。でも聞かれたからには答えなくちゃいけないと思ったので、僕は答えた。 「…10円」

  するとお姉さんは自動ドアを開けて中に入っていってしまった。僕も慌てて後についていく。

 おじさんが僕の顔を見て、「お、10円持って来た?」と聞いた。 僕が返事をする前にお姉さんが「すいません、それください。」と言った。

 え?え? 僕はちょっとパニックになった。まだ会って間もない人に物を買ってもらうなんて今までなかったし、おばあちゃんとかに買ってもらうときでさえお母さんに遠慮しなさいって言われる。だからこれは何となくいけないことなんじゃないかって直感的に思った。

 「まって、だめです」

 「え、なんで?」

 「買ってもらうなんて、えっと、悪いです」

 「いいじゃん、道案内のお礼」

 「でも、僕、10円とりに返るって」

 「いいよいいよ」

  僕とお姉さんのやりとりを見ながらおじさんは何故か納得したような笑顔で頷いた。違うよおじさん!おじさんに訴えようとしたときに、後ろの壁に掛かった時計が目に入った。夏で日が長くなったけど、門限はきまってるし、案内しないとお姉さんは海に行けないままかもしれない。

 「ね、10円だけでも」 お姉さんの押しに負けた。僕は「すいません」と言ってお金を出した。


 「ありがとう…ございます」 書店を出ると僕はお姉さんにお礼を言った。

 「気にしないでいいの。そんなことより早く海に連れてってよ」 と言われた。僕が思ってたほどお姉さんは困ってなさそうだった。 僕は少し気分が軽くなった。

 「こっち」 住宅街を抜け、海岸線へ出た。


  「海だ!」お姉さんが声を上げた。「早く行こう!ね、どこから渡れる?」

 「向こうの歩道橋だよ」 横断歩道がちょっと遠かったので、僕は歩道橋を指差した。

 「あれ?え、すごーいなんか海の町っぽい歩道橋!おしゃれ!行こう行こう!」と言うなり走り出した。 僕は海まで連れてったらそこでさよならって感じかと思ってたけど、言う前に走っていっちゃった。

 帰り道も教えなきゃいけなさそうだし、ついていくしかないな。 僕はそう思ってついていくことにした。

 お姉さんはボードウォークに立ってたので、僕は後ろのベンチに座った。胸の前に持っていた本の紙袋を見ると、とたんに読みたくなってきてしまった。

  ちょっとだけ、と思いながらシールを破って本を取り出す。表紙を開いてページをめくる。タイトルと、目次。白いページがあって、物語の最初。と、あっというまに僕は読書モードに切り替わってしまった。 主人公、主人公の生活、住んでいる町、この主人公は僕みたいに海のある町に住んでいる、海、潮の香り…あっ。 僕は顔を上げた。お姉さんは波打ち際でちょっとつまらなそうに波を蹴っている。 「いっつもそう。本読み始めたら何もしない。お母さんの声も聞こえないんでしょ?」昨日も言われた。食器当番を忘れて母さんに怒られた。泣きながらごはんが乾いてこびりついたお茶碗を洗った。洗っても洗ってもごはんのかけらは取れなくて、ぐりぐりと指を痛めつけた。まただ。僕は本を閉じて紙袋に入れると、お姉さんの方へ走っていった。

 「水から上がったら、砂を足にまぶすと、早く乾くよ」 そう言うとお姉さんはこちらを向いた。

 「もう読み終わったの?」

 「ううん。お姉さん1人にさせちゃったのに気づかなくて、あとで読むことにした。いつも母さんに怒られるんだ。本ばかり読まないで、やることやりなさいって。」今度はしっかりやってよ。食器を洗い終わった時の母さんの声を思い出した。

  お姉さんは微笑んで「大丈夫、ありがとう。」と言ってくれた。手に何か握ってたので、「何か拾ったの」と聞いた。 「うん、貝殻とか」お姉さんは自慢げに言って手を広げた。でも手に握られていたのはこないだの地引き網で取れたやつの殻ばっかりだった。 「これは魚屋にもあるよ」と教えてあげた。こないだ遊びに来た大阪のはとこも同じようなものばっかり集めてたから、僕はその時ビーチグラスをおすすめした。 そうだ、ビーチグラスはきれいだからお姉さんもよろこぶかもしれない。僕はそう思ってしゃがんで1つ拾い、お姉さんの手に乗せた。

 「あ、これ綺麗ね。何これ?」やっぱりね。

 「ビーチグラス。瓶の欠片が波で削れてこうなるんだよ」 お姉さんはビーチグラスを日にかざして見て、「きれい…」ってつぶやいていた。

 お姉さんはしばらくビーチグラスを見たりしていたけど、そのうち満足したように戻ってきたので、駅まで送ってあげた。

 「ありがとう。お礼するどころかお土産までもらっちゃった」 年上のお姉さんにお礼を言われてしまった。しかも、ビーチグラスがお土産なんて。 「ビーチグラスは拾いもんだから」 ちょっとほっぺたが赤いような気がしてきて焦ったので、「あと、次くる電車は急行だから、途中で降りなくても新宿まで行くよ」とごまかした。 お姉さんは気づかなかったようで頷いた。「わかった、じゃあ気をつけて帰るんだよ」と言って改札を通った。振り返ったので手を振って、それから背を向けて自転車置き場へ歩いていった。 家に帰ったら、続きを読もう。そう思った所で、あることを思い出した。

「お姉さん、不審者じゃなかった」


 バイト先の社員・吉川の机に、見慣れたものが置いてあったので、直は思わず「あ、ビーチグラス」と口にした。

 その声に吉川が顔を上げた。 「なおちゃん知ってるの、ビーチグラス」

 吉川はいつも直のことを変なあだ名で呼ぶ。しかし一々突っ込むわけにはいかず、聞かなかったふりをして答えた。

 「まあ、子供の頃近くの海で拾ってましたから。最近海行ったんですか?」確か、吉川は都内で生まれ育ったと言っていたし、色白眼鏡でいかにも文化系ですと言わんばかりの吉川と海の組み合わせはなんだかおかしかった。

 「いや、結構前だけど…」と言いながら吉川は視線を宙にさまよわせた。直がその瞳の動きを追っているうち、何となく波打ち際を歩く吉川のイメージが脳裏にはっきりと思い描かれた。なぜそのイメージが浮かんだのかはよく分からなかったが、イメージの中の吉川と海の組み合わせはしっくり来ていた。そんな光景、見たことあっただろうか、直は記憶をたぐろうとしたが、 「あんまし覚えてないや!」という声でそれを中断した。

 「さっ、なおちゃん下行って準備しよっか!」そう言って吉川は勢いをつけてデスクから立つと歩き出した。 「だからその呼び名どうにかしてくれませんかね…」やはり何度も呼ばれるとちょっと恥ずかしい。そう思ったが、直は気をとりなおして後を追いかけた。

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