SIDE-1 リラ 後
黒い箱の少女ライラック・イレヴンは、教官に命ぜられるがままにクラスメイトを殺した。教官はそれを蟲毒のリラと呼び、さらなる技術をたたき込もうと過酷な教練を少女に課した。
少女には教官に逆らう力が必要だった。苦楽を共にした仲間を奪った男に、復讐を遂げる力を。時間は、そう長く取ることはできない。一年もは、長すぎるだろう。
どうせ最後の瞬間まで、教官に師事するんだ。爪を隠す以前に、隠すほどの爪を手に入れなければならない。少女はそれまでの倍以上の鍛錬をこなした。時間があればとにかく自らの腕を磨いた。一挙手一投足に隙をなくし、気配を殺し、寸分の狂いもなく武器を動かす。言ってしまえばこれだけだが、究極はそれしかない。そのために、心を乱されなくしようとした。このとき、十一の少女はにせものの笑顔を覚えたのだ。
ライラックの一件はまだ露見してはいないが、教官ならば皆が知っていた。もちろん度を超えた行為であるため処分を検討していたが、それができない理由があった。
その頃はクラスも変容を見せていた。一昨年からあるウィステリア、及び今年からあるローズは、機動兵器を専門として訓練を重ねている。
アイリスは陸軍特務機関への入隊を数ヶ月後に控えており、最後の調整に入っていた。
少女がある場所に足を踏み入れたのは、あの日から二ヶ月後のことだった。
そこは生徒用に開放された、少女が黒い箱の本質だと信じていた地獄とは全く違う場所だった。中ではひとりの少年が小ぶりなサクソフォンを吹いていた。少女には管楽の心得はなかったが、瞬間的にへただと思った。
「お前は、誰だ。知らねえ奴だな」
「私、私はライラックよ」
ライラック。小柄な少年はそう反復すると、先ほどよりさらに目つきを鋭くした。
「そういうんじゃねえんだ。お前の名前を聞いてるんだよ」
「ごめんなさい。名前はないの」
そういうと少年の目が穏やかになり、口元に寂しげな笑みが浮かんだ。
「そうか、俺と一緒だな」
ここに来たんだ、お前もなんかやれよ。そういって少年が指差した先には、様々な楽器が光沢を放っていた。奥まった地下の部屋なのに、どれもよく手入れされているようだ。少女はキーボードを手に取った。そしてゆっくり確かめるように鍵を押すと、ひとつの曲を弾いた。流れるような指の運び、柔らかに奏でられる旋律は、とてもここに入る以前に学んだとは思えない技量だった。
「テイクミー・トゥザヴォウイッジ、レナの曲だな」
「家にディスクがあったの。死んだお父さんが好きだった曲らしい。聞いてたら覚えちゃった」
そう言いながら、少女は手を止めない。なぜだかその音で、捨てていった何かを取り戻せる気がしたのだ。
弾き終わった少女は数秒の沈黙ののち、少年に笑顔を見せた。
「ねえあなた、番号は?」
「ウィステリア・エイティーンだ」
ふうん。少女はひとつ思案顔を作ると、一気に顔を近づけた。
「な、なんだよ」
「うん。ウィシーね。今日からあなたのこと、そう呼ぶわ」
「何をいきなり」
「ねえウィシー。また来てもいい?」
「ああ、いつでも来い。次は他の奴らもいるかもな」
済んだ目と真っ白い歯で少年は笑う。間違いなく、彼も過酷な世界を生きている。それなのにどうして、そんな顔ができるのか。少女にはそれがわからなかった。
「ありがとう。次はもっと上手くなってね」
そう言って娯楽室を後にする。少女は、二度と来ないだろうと思った。ここにはライラックになかったもの全てがある。自分の中に取り込まれたクラスの皆の遺志が、不要物として掃き出されてしまいそうだった。それではだめだ。それは自分自身の業であると、少女は信じていた。
ライラックの施設は新たなクラスに明け渡されたため、少女は共同演習場を使うことが多くなった。他のクラスの子どもの目に触れる機会もここが初めてだろう。ライラックというクラスがいかに閉鎖的であったがよくわかった。
それはつまり、ウィシーとも会うということだ。クラスが違うとはいえ共同生活していることに変わりはないため、多ければ一日に二度見ることもある。彼はいつもひとりで歩いていた。クラスメイトとそりが合わないのだろうか。
ウィステリアは「巨人」と呼ばれる人型機動兵器を扱っている。操縦難度は高く、いくら無謀な教練を行う黒い箱でも実機に乗るのは三年時からだ。それまでに精巧なシミュレータで何度も何度も調整を行う。教練の質は高いようで、三年終了までは死者がほとんど出ない。だがそこから戦闘技術を学び始めると、年二、三人のペースで減っていく。戦場に出たら一切の弱さが許されないことを思うと、致し方ないのだろう。
ある日ウィシーは、少女の姿を見ると立ち止まった。
「なあライラック、今日は来れるか」
それは意外な申し出だった。驚きを隠せない少女は、貼り付けた笑顔のまま口にした。
「ええ、行かせてもらうわ。夕飯の後でいいかしら」
「ああ。待ってるぜ」
そう言って去っていくウィシーの小柄な背中は、なぜか実際より大きく見えた。
その夜、少女は多くの他クラスの子どもと出会った。今日は聴衆もいるから、ミニステージでも開かれているのだろう。その中でもひときわ目を引いていたのは、美しい歌声を持つ小さな女の子だった。また彼女は美貌の持ち主でもあり、遠くからでもそれが見えた。
「綺麗ね」
「そうだろ。お前と同じ、諜報クラスだ。あと、俺は信じねえが、変な噂もあるらしい」
「噂?」
「連中が言うにはな、彼女の歌声は魔性なんだってさ。それに魅了されたやつは死んじまうらしい」
ウィシーは呆れたようにそう口にした。そんな与太話はもとより、彼女の歌声はほんとうに綺麗だった。
ウィシーが声をあげる。彼はある程度ここをまとめる役割もしているようだった。
「なあ、合わせようぜ。今日は新入りもいるんだ」
背中を叩かれた少女は驚いたように前に出ると、視線が自らに集中するのを感じた。そしてひとりの少女が歩み寄ってきた。
「あら、女の子は珍しいわね。私はアイリス・セブン。ボーカルをやっています。あなたは何ができるの?」
「私はライラック。キーボードなら人並み、ってところね。よろしく」
少女が見渡してみても、自分を拒もうとする目をしている人がいない。ここは黒い箱とは違う場所なのだ。少女はそう認識せざるを得なかった。
「人もいるんだし、早く始めようよ。曲は何にする?」
「私は別になんでもいい。適当に合わせるわ」
そこからノンストップで演奏を続けた。アイリスの喉は思いの外強靭で、十数曲通しで歌っても疲れの色を見せなかった。ウィシーも前回より格段に上達している。偉そうなことを言っておいて正解だったようだ。
だが、そのようなことは些事でしかなかった。自分は、ここに来たかったのだ。そう思わせるだけの力が、この決して広くはない娯楽室にはあった。失われたライラックで少女が必死につくろうとしたものがここにはあったのだ。後ろ向きにしかなれない少女にとって、それは自らの無力さの証明でしかない。ここで楽しむためには、まず自分の中ですべきことをしなければならなかった。
あの夜からずっと、少女は鍛錬を続けている。まだ、だめだ。自分だけが救われていいはずがない。トゥエルヴやフォウ、他のクラスメイトたちに示しをつけるためにも、教官を殺す力をつけなければ。
娯楽室には、張り詰めすぎた糸を緩めるために行くことにした。ウィシーもそれを察しているのか、定期的に誘ってくる。彼は少女がどんな存在であるのか、察しが付いているのだろう。秘匿された諜報クラスの謎は、しばしば話題にされる。その上ライラックは完全に隔離された環境で育てられたためクラスの存在自体を知らない子供もいるほどだ。だが少女は快く受け容れられた、それが嬉しかったのだ。ウィステリアは比較的新しいクラスで、演奏するメンバーの中でも一番年下だろう。彼は不器用ながら、人をよく見ていたのだ。
あるとき、ウィシー、アイリスを含んだメンバーで屋上へ向かったことがある。屋上は毎年自殺者を出す。警備はしているが、抜け穴も多く子供でもすり抜けることが可能だ。ここでバイールステップに浮かぶ星を見ると、黒い箱の柵の外には苦しみがないかのような錯覚を覚える。
ここでは何も言わず、ただ自らを見つめることが多かった。
「ねえライラック。ちょっといいかしら」
この日そう囁いたのはアイリスだった。彼女は淑やかでニヒルな風を出しているが、内には強い感情を秘めているだろう。それにこの美貌、諜報クラスであること。少女はあの噂があながち間違いではないのではと思い始めていた。
「なに?」
「あなた、もっと笑った方がいいわ。つらいこともあるでしょうけど、それに押し潰されてはだめだもの。笑うだけで少しでも辛さを忘れられるなら、それも兵士の技術よ」
外であればこの年で白痴同然でも許されるだろう。だが黒い箱では違う。今すぐに大人になることが求められた。だから率先して強くあろうとしてきた。だからだろう。自らの弱さに耐えられない自分がいることを知っていたのだ。
だが、だからといって表に出したりはしない。心が乱れた状態では本質を見誤る。だから目の前にいる美麗な少女にゲールズ川の魔女を見いだした事実を、よく考えなければならなかった。
「そうね、最近笑えてないかも。ありがとね」
「いいのよ。同じ諜報クラス同士、協力しましょう」
少女にはその瞳に濁りがあるようには見えなかった。たとえアイリスに二面性があるのならば、それは少女と同じように苦難が生み出したものだろう。であれば、信じてみよう。そう考えることにしたのだ。
ウィシーはひとりで外を見ている。南の方には敵国の国境があり、巨人クラスはそこの連隊に配属される。修了したからといって自由などはなく、むしろ地獄というのはこの南方戦線のことであるとも言えた。彼が何を見ているのか、このまま生きていけばわかるのか。少なくとも、このときの少女は知りたいと思った。
それからはアイリス、ウィシーと三人で行動することが増えた。バンドはもうひとりいたが、彼は諜報クラスに疑念を抱いているのだろう。少し距離を置いているのがわかった。
アイリスはどこで身につけたのかというほど物腰柔らかで、女が惚れ惚れするような所作を身につけていた。そして同時に、奥に踏み入らせない凄みも含んでいる。少女はそれが、自分に足りないことだとわかった。だからできる限り彼女のことを知ろうとした。
そうして何度も集まり、共鳴し、感情を共にした。普通の子供がしていること、すべきことがやっとできている。それは喜ぶべきことだった。
ある一点を除けば充実した日々、それも三月でひとつの区切りを迎える。アイリスクラスの修了。これにより黒い箱から兵士として子供たちが送り出されるのだ。少女はこの日も、教官の下で苛烈な訓練を受けていた。ひととおりのメニューをこなし、教官に指摘された点を修正しながらクールダウンを行う。その中で教官は、あることを口にした。
「明日修了式が行われることは知っているな」
「アイリス、ですね。それがなにか」
教官はこちらを向かず、流れるように言った。
「命ずる。修了式にて、クラス全員及び教官を抹殺せよ。アイリスの芽を、摘みとるのだ」
「それは、なぜ」
「なぜって、必要だからだよ。俺やお前にじゃない。リラにとって」
「わかりません」
わからなくていいんだよ。教官は顔を近づけて笑みを浮かべる。
「お前の回答は従うか、俺を殺すか、それだけだ」
少女には、まだ確信が持てなかった。だから自身を殺すことを決めた。それは彼女の短い人生ですでに三度目であった。
諜報クラスの修了式は極秘裏に行われる。内容はまちまちだが、修了試験としてクラス全員に刺客が送り込まれることもる。これは公国陸軍の諜報部隊から兵士を招いて行われるもので、本来であれば基準を満たしているか見るのみで本気を出すことはない。それでも毎回数人の死者が出る厳しい試験ではあった。
だが今回に限り、教官は諜報部隊に根回しを行いそれをライラックにさせることにしたのだという。少女は指定されたポイントと名簿を確認し、作業を開始することにした。
なんのことはない。訓練された兵士を殺すことなんか、黒い箱を出ればいくらでもする作業だ。だから少女は気兼ねなくこの命令に従うことができると思った。
だがひとつまたひとつとアイリスの芽を摘み取っていく度に、少女は自身の内側に黒いものが積み重なっていくのを感じた。同年代の敵ではない子供を一方的に殺す作業は、予想以上につらかったのだ。
なんで? どうして殺すの? 六年も耐えたのに。嫌だ。殺さないで。
そんな言葉が聞きたくないから、少女は不意打ちと即死を心がけた。もし仮に修了試験であれば、認めることで見逃すことが可能だ。だが、殺せと言われている。これはリラによる殺戮だった。
丸一日かけ、少女は十二人殺した。結果、ひとりだけが残った。これからその元へ向かう。場所はわかっていた。試験の場合、全員の食事に発信機を仕込むことになっている。だが少数ではあるが気付くものもいる。そういった優秀な子供は隠れてやり過ごすか、あるいは待ち伏せることも多い。
そしてセブンの位置情報は、少女の手元にはない。だが死を覚悟したであろう彼女が目指す場所は、ひとつしか考えられなかった。
「よくここがわかったわね。試験官さん」
屋上の扉を開けた先には、優美な一輪のアイリスがあった。それが手をこちらに向けると、その長い髪は妖しく光っているように見えた。
「あなた、全部知っているんでしょ」
「蠱毒のリラ。みんな殺したのね」
「アイリス。まさかこんなことになるなんて」
「いいの。さあ、武器を取って。腕くらべをしましょう?」
そういって柔らかな微笑を浮かべるアイリスを、少女は撃った。銃口を離れた三発がアイリスを射抜くことはなく、アイリスは最小限の動作で回避と攻撃を仕掛けた。撃つまでの時間は、不気味なほど短かった。
相打ちとなってもおかしくない距離まで肉薄する。ナイフ戦に移行しても、その華奢な体からは想像も付かないほど鋭く重い一撃を繰り出してくる。そして彼女には間合いというものがない。ほぼ密着したような体勢から攻撃を仕掛けてくるのだ。そうすれば、いやでも傷は負う。どこが斬られても、どこが動かなくなっても、変わらぬ微笑で殺意を向ける。その姿に少女はただならぬ恐怖を覚えた。
「ねえ、もっと近くに来て。私の命を感じて」
「あなた、死ぬのは怖くないの」
「ええ。私は自分だけでどこまでできるか知りたかっただけだから。命なんか惜しくないわ」
「強いわね。私も貴方みたいになれたら」
「それなら、その手で私を殺しなさい。あなたが何度もそうしてきたように」
口付けでもするかのように、顔を近づけ囁いてくる。少女は気取られぬよう銃を抜き、その心臓に狙いを定めた。
「それなら、私の方が早いわ」
銃弾がぶつかり火花が散る。フルメタルジャケットの弾は互いのエネルギーを打ち消し、ぐちゃぐちゃに潰れていた。
弾はあと数発まで減っていた。だがどちらも出し惜しみなどしない。今動かす体はすでに結果でしかなく、思考は数秒先にあった。
だからこそ、ここで同時に残弾がひとつになる。最後の一発を放つために一歩下がる瞬間。ここで全てが決まることは、すでにわかっていた。
リラは気配を操り先を読むことで生き抜いてきた。だからそれに関して同等の技量を持ち、さらに超人的な早撃ちまでするアイリスに対して有効な手段を持たないのだ。
だがここで死ぬわけにはいかない。少女は全霊をかけて引き金を引いた。
螺旋を描いて進むその弾は目標へ向かって突き進み、やや少女に近い点ですれ違った。そして少女は弾が壁に跳ね返る音を聞いた。自分の命が途切れる音は、聞かなかった。
「あと一歩、届かなかったわ」
「なんで。あなたが外す距離じゃないのに」
「なんででしょうね」
胸の下を赤く染めたアイリスの声はいつものように透き通っていたが、消え入りそうなほど力がなかった。肺を貫かれていた。
「ねえリラ。少しだけ、ひとりにさせて」
星を見ていたいの。そう言うアイリスを、少女はひとりにさせてあげたかった。
五分ほどが経った。屋上に入るドアの後ろに控えていた少女は、様子を見に行くことにした。傷の度合いから見るに、死んでいてもおかしくはない。自我の強い彼女のこと、看取られるのが嫌だったのだろうか。答えはすぐにわかった。
彼女の姿が、見当たらないのである。屋上に隠し通路などはないはずだ。あっても教官が目をつけていないわけはなく、収容生が抜け出すなどもってのほかだろう。だから少女はアイリスが自殺したのだと思った。手すりまでは手が届く距離であったため、そう思えば納得がいく。
もう夜もすっかり更け、少女は最後の作業をしなければならなかった。教官を、この手にかける。
誰もいなくなった屋上に教官は現れた。
「リラの悪魔。お前はなぜ、アイリスの芽を摘む。なぜ私から全てを奪う」
「私が、弱いからです。アイリスの教官殿。あなたから教え子を奪い、これからあなたの命をも奪うこと、許してほしいとは思いません」
「そうさ許しはしない。だが、今更どうしようもないよ。ああ、愛しき我が子よ。私が命を賭して奴を殺していれば、このようなことには。アイリス。私に似ず、賢い子だった。リラの呪いさえなければ、おまえは最高の兵士だったというのに」
「アイリスなら、きっといつか咲くと思います。夜陰に紛れながらも、確かな鮮やかさをもって」
そんな気休めの言葉より、してあげられる手向けがあった。
「私を殺すか。もはや何もなくなったこの私を」
「私は私自身を三回殺した。今更、何を殺したところでどうということはない」
「強いな、呪われし蠱毒のリラよ。まるで彼を見ているようだ」
「彼?」
「いや、いい。君はすべきことをするんだ」
リラのためじゃない、君自身のために。少女は狙いを誤らぬよう、終わりにすることにした。
「さようなら。教官殿」
アイリスは朽ちた。一輪のリラのために。
そうしてひとつの学期が終わる。ライラックの修了まであと二年となった。これが終われば軍に配属されるのだろう。そのような先のことはまだ考えられない。少女には今しかなかったのだ。
ある日ウィシーらと演奏していると、ひとりの少年が入ってきた。彼はローズ・ワン。ローズ・クラスは優秀な子供だけが入ることのできるエリートクラスであり、伝統もある。彼は居丈高で、とても臆病だった。初めて入ってきたときも、肩を張っているのに恐る恐るドアを開けていた。楽器はというと、トランペットができた。さすがはエリートを自称するだけあって、ウィシーなどよりもよほどうまかった。
彼は自分からは来なかった。いつも少女が誘うのだ。はじめ数回は、そんな時間はないと断っていた。ローズは互いに競争させることで強くする。ローズに弱者は不要であり、だからこそ強い自尊心を持たせるのだ。
何度も娯楽室での時間を重ねながらも、彼の心は容易に開かない。少女はまず、名前を聞こうとした。身のこなしや所作は折り目正しく、名前があると確信したのだ。
「ねえ、あなたの名前を教えて」
「何度も言ってる。僕はローズ・ワン。それが僕の全てだ」
「もう、そうじゃないって。あなたの名前、言ってごらん」
半ば強引だったが、それでも何度もしていくうちに真意に気づいたのだろう。
「フレデリック・エリウッド。没落したメイソン伯の長男だ」
「不思議ね、戦争もないのにあなたみたいな子が入ってくるんだから」
「奴らはメイソン伯爵の長男は見てくれたけど、僕のことは何も見てくれなかったから」
彼女にとっても、それは初めて聞く回答ではなかった。愛を得られないならば、せめて自分の力を試したい。そういった子供は一定の数いたが、挫折するものも多かった。身寄りもなく生きるためにここにきたものより、意志の力が弱かったのだ。
だが、彼の目には鮮やかな色があった。強くなる、少女はそう思った。
「フレディちゃん。そう呼んでもいいかしら」
「構わないが」
「じゃ、フレディちゃん。よろしくね」
少女はそう言ってハグをした。ここにいる子供が何を欲しているのかは、だいたいわかるつもりでいた。多くは承認。存在を認めてほしいのだ。フレディが高い技量を持つことは調べてわかっていたし、本人を見てもわかった。彼のような子が正しく成長するために必要不可欠なことを、教官がすることはない。
だからせめて、目の前にきてくれた子に生きてほしい。地獄を生きた少女がそう願うのはごく自然なことだった。
そこからは、三人を中心として集まることが多くなった。毎度の教練は命がけで、足が動かなくなるほど疲労が溜まることもい。そんな体と心を癒すのは時間では決してない。娯楽室での時間は肩に乗った荷物を氷解させたのだ。
ウィシーは荒っぽくフレディを引っ張り、少女はそれについて行く。少女が引っ張ることもあったが、その時はウィシーはわざと不満げについてきていた。そんな顔をしているのは最初だけで、すぐに穏やかな顔になる。
娯楽室で演奏したり夜な夜な屋上に忍び込んだりするくらいだったが、少女はそれだけのことを幸福だと思った。そしてそれが長くは続かないことくらいはよくわかっていたのだ。
ライラックの一件は、陸軍諜報科の奥で着実に浸透し始めていた。教官にはおそらく然るべき処分が下されるだろう。少女が教官に呼び出されたのは、そういった水面下の喧騒の中のことであった。
「なあリラよ。どんな気分だ」
「私は、あなたが憎い。私から全てを奪ったあなたが憎い」
「憎いだろうな。では、殺すか?」
殺す。そう答える前に、銃口が目の前に座る男を捉えていた。銃声は二発、発射後の隙を減らすにはこれが限界であった。
自分で磨き続けた。アイリスの技術も手にした。もう彼の人形ではない。だからこそ、やっと手が届くような気がした。
「なあリラよ、この程度か?」
教官は瞬時に距離を詰める。それに合わせて斬りかかるも、素手で流された。
「もっと、もっと踏み込むのだ。俺の命は遥か遠くにあると思え」
鍔迫り合いをしては体格差が重くのしかかる。左に回りすれ違いながら、敵の攻撃を受ける。その応酬の果てに、少女は勝機を見出さねばならない。
「そこなら」
「ほら、もう少しだ」
まだ届かない。もっと寄せなければ。足の踏み込み、腕の振り、重心移動。その全てを前に向けなければ、懐の深い受けに阻まれる。
「怒れ、憎め、それこそがお前の、蠱毒のリラの力だ」
少女は言われるがまま、目の前の男に怒り、憎しみの感情をぶつける。あくまで思考は冷静に、機を伺いながら。
そうして、この日何度目かの渾身の一撃を叩き込もうと肉薄した。体の動きと殺意とが、初めて一体化し教官に狙いを定める。あれほど裏の裏まで読んでいたのに、何も考えていない自分がいる。あれほど殺したかったのに、何も思っていない自分がいる。ただ少女はナイフを持つ自分の手の行方を追った。
瞬間。教官から発していた窒息しそうなほどの殺気が、消えた。
「咲いたな」
そのナイフは腹を抉り、内臓にまで達した。おそらく回復の見込みはない。少女は勝ったのだ。教官はあくまで微笑を崩さず、椅子に腰を下ろした。
「なあリラよ、聞いてくれるか」
「聞いてあげるわ」
そういうといつもの品のない笑みが消え、人が変わったように穏やかな色が浮かんだ。
俺は蠱毒のリラだった。黒い箱で俺の教官だった男は、大陸東部の小国の生まれだという。そこはライラックの花の綺麗な国で、蠱毒のリラとはそこのある部族で伝統的に行われる儀式だそうだ。そこは昔から大国に傭兵を派遣しており、暗殺に長けた強い兵士が必要だった。一輪挿しのライラックの花は、その象徴だったのだ。
そしてどういうわけか、ある若い蠱毒のリラはこの国の軍に渡った。それが俺の教官だった。俺は言われるがまま、クラスメイトを殺した。一緒に苦難を乗り越えた友を。好きだった女の子を。それから俺は数々の任務をこの軍でこなした。帝国から、エドワード家の支配に戻った後も、ずっと。俺は自分を殺し、数えきれないほどの敵を殺した。返り血の狂気に身を任せたのだ。できるなら教官を殺して逆らいたかった。だが怖かったし、何より弱かった。俺は人間ではないのだから、蠱毒のリラなのだから。そう言い聞かせ、その手を紅く染めてきた。
そうして俺はライラックの教官になった。黒い箱の子供なんざ使い捨てだ。だが使い捨てでも、長く使えるやつは重用されるもんだ。俺がそれだった。そうして俺の時と同じ二十人の子を受け持った。俺は、あれほど憎んでいた教官と同じことをしたんだ。皮肉だろう。だが、これが真理なのだと思う。
最初俺はトゥエルヴに目をかけていたんだ。自分の力を隠す才能は、俺にもなかったものだからだ。だが最後に残ったのはお前だった。言ったと思う。期待はずれだと。
ひと呼吸置かれる。教官の目に、隠し通してきた苦悶が浮かび上がった。
「だがな、俺が間違いだった」
「間違い、とは」
「お前が一番強かったよ。お前、アイリスを逃したろ」
少女はふたつの点で驚いた。彼女が本当に逃亡に成功したこと。彼女は発信器を飲まなかったというのに、この男はなぜ知っているのか。
「なぜって顔をしているな。わかるんだよ。お前とアイリスは交流があっただろう。それなのにあの次の日、トゥエルヴを殺したときの顔をしていなかったからだ。すぐわかったよ。お前は俺に縛られずに行動したんだなって」
間違いない、お前が蠱毒のリラだ。そう言ってもう一度微笑を浮かべる。少女にはそう言われても、何もわからなかった。
「私はリラの呪いになど従わない。だからあなたを殺して逆らってみせた」
「それでいい。お前は優しいから、強い兵士になる」
「私は、私のやり方でいく」
なあリラよ。かすれた声で教官は口にする。
「俺を殺す気分はどうだ?」
「最低よ。もっと清々しいと思ってた」
「それでいい。それで……」
直前まで確かな力を持っていた体が崩れ落ちる。それは少女にとって、ひとつの終わりだった。
だが同時に。始まりでもあっただろう。拘束を解かれたということは、自由になったということだ。だが今はもう、自分の身が危ない。四十人いた諜報クラスがリラひとりになっては、人材登用の面でも大きな問題があろう。リラは正真正銘の悪魔だった。
その夜、少女はひとりの少年とともに屋上にいた。脱走者が出たという噂は教官の中でも広まり、締め付けは相当に厳しくなっている。だが育ちすぎた少女にとっては、ないも同然であった。
「いきなり呼び出して、どうしたんだよ」
少女は話した。リラのこと、アイリスのことを。思えば他人に話したのは初めてだった。
少年は寝ているような表情で聞いていたが、言葉が切れると口を開いた。
「俺の巨人、使えよ。お前なら使えるだろ」
「いいの? でも私、あなたの友人を」
「アイリスが死ぬわけねえ。それはお前もわかってるはずだ」
少女は少年を必要な存在だと思い始めていた。だから、このようなことを口にした。
「ねえウィシー。一緒に来ない?」
沈黙があった。少年も、何が必要なのかを考えていた。
「俺はまだだな。学びきれていないことが多すぎる。もう少し、待ってくれ」
「手引きしたこと、私を知ってること、ばれたら大変よ」
「お前がなんとかしてくれるんだろ?」
そう不器用に笑ってみせる少年に、柔らかな笑顔で応えた。
「ええ、なんとかしてあげる」
行き先のあてはなかった。だが大陸中央部のジェラール共和国周辺にある紛争地帯ならば、傭兵としての居場所があるだろう。それは教官の資料の中にあったものだ。
少女はアイリスが残した経路に向かう。警備システムが異常を報告することはない。人がいれば眠ってもらえばいい。何も問題はないはずだった。だから少女は少年に背を向けた。
「じゃあウィシー、また会おうね」
待った。そう言って少年は、少女をきつく抱きしめる。膂力は強い方ではないが、少女は軽い痛みを覚えた。
「ウィシー?」
「必ず行くから、待ってろ」
そう言って目を閉じ背を向ける少年の肩は、震えていた。
ウィステリア・エイティーンを除き、彼女の行方を知るものはいなかっただろう。
そして彼もまた、二年後に姿を消した。白い機体を駆り、演習で全機体を損傷させ脱走したのだ。黒い箱の歴史の中で、脱走者を出した例は数える程もなかった。それがごく短期間に二人、実際には三人も出るというのは一体どういうことであろう。それもクラス二つを教官ごと消し去って。このことは黒い箱の最大の汚点として秘匿され、リラの事件は一部の人間のみしか知られなくなった。黒い箱のリラは、ひとつの終わりを迎えたのだ。
だから次の舞台は、五年後のジェラール砂漠から始まる。
天から降り地に反射する日差しを遮るため、青年は大きな布を纏っていた。傭兵稼業のかたわら、行商のような軽い仕事を受けることもある。少年はこの紛争地帯でずっと、ひとつの影を追いかけていた。それは過酷な環境の中でも、鮮やかに自分を持ち続けた少女。ただ三年砂漠を歩き回っても、彼女の姿は見えない。どんな名前でいるのかも知らず、顔も変わっているかもしれず、手がかりは何もなかった。
時にはバーなどを転々とし、楽器を演奏したりもした。重くのしかかったものを払うために、少年には必要なものだった。この日も彼は五つも上の同僚と、一夜の楽しみを探して街を歩いていた。
「なあグレイ。ここの女もあらかた見たが、大したことはなかったな」
「お前はそんなことしか頭にないのか、オリバ」
「そういえば、風の噂によるとジグロ境の近くにあるバーにいい女がいるらしい。何でも砂漠の歌姫だとか」
「へえ、面白そうだな。今度行ってみるか」
「これから行こうぜ」
「いや、俺は用があるから。じゃあな」
そう言って別れると、少年はひとりでその場所へと向かった。ささやかな心当たりがあったからだ。そしてそれが本当ならば、誰も連れて行く気はなかった。
そこはひとつのバーだった。話によると、ここにレナ・ブルージュを名乗る少女がいるということだ。それは音楽を嗜むものなら誰もが聞いたことのある名だった。別に騙っているわけではない、何かの理由があって名乗る名がないのだろう。そんな人間はこの町にはいくらでもいた。
ドアを開けると耳に入っていく音は、力強いのにどこか優しく、ひどく懐かしい歌声だった。青年は話に聞いていた人物であるため、声をかけた。
「レナ・ブルージュ」
彼女は呼びかけに目を閉じて応えた。
「あらお客さん? それとも、一緒にやる?」
「後者だ」
そう言って少年は小ぶりなサクソフォンを取り出す。レナはマイクのついたキーボードに手を置いた。
「曲の指定は?」
「テイクミー、トゥザヴォウイッジ」
レナは少し目を丸くしたが、悟ったように頷いた。そして軽く合図をすると柔らかに指を動かし始める。この日は多くの聴衆がいたが、その瞬間からは、地上にいるのはふたりだけであった。
私をどこまでも旅に連れて行って。海の真ん中で鳥たちと遊びたいの。この星の裏側に日が昇って沈むのを見たいの。
どういうことかって? 言わせないでよ。
一緒にいてねってこと。
抱きしめてほしいってこと。
私の中が歌でいっぱいになるまで歌わせて。あなたは私が憧れ、恋い焦がれた人。
もうわかるでしょ? 変わらないでいてってこと。
愛してるってこと。
レナはその歌詞ひとつひとつ、少年の目を見て確かめ合うように口にした。少年は不器用ながらもそれに応えるように目配せをした。思えば歌声として彼女の声を聞くのは初めてだった。
夢のような時間ののち、観客の拍手の外でふたりは見つめあった。
「おかえり、ウィシー」
「レナ……でいいのか?」
「そう呼んでちょうだい。他の名前は捨てたわ」
「そうか。じゃあ、よろしく。レナ」
少年はなにかを確かめるように、きゅっと抱きしめた。
「ああ、あの時と同じだ」
「ほんと、ずるい人」
レナは少し目尻を押さえたのち、口付けをする。そのまま見つめあって頷くと、キーボードに手をかけた。
人であふれた狭い木造のバーに、もう五分だけふたりの音が響いた。
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