SIDE-2 死化粧 前 

 広さ約五十万平方キロメートル、キロムのベローナ島ほどの面積を持つジグール湖。その巨大な湖の北の湖畔、ジグロ共和国にルドルフ・ディートリヒは生まれた。ジグロは湖により周辺の砂漠地方よりも住みやすく、人口も比較的多い。

 彼はこの地方の多くの子供と同じように、将来はフットボール選手になりたいと思っていた。三歳の頃から仲間とボールを蹴り、時々帰郷してくるプロ選手にサインを求めた。不定期で帰りが遅くなることもある両親を、彼は泥だらけの笑顔で迎えた。

 彼はどこにでもいる、普通の男の子だった。少なくとも、彼自身はそう信じていた。

「おい、ルディ。遊ぼうぜ」

 窓辺から声が聞こえる。食器を洗っていた少年は、母の方をちらと向く。

「行ってきな。ママとパパはこのあと出かけるから、夕飯を作っておくよ」

「うん、わかった。行ってくるよ。パパも、行ってきます」

「おう、行ってこい」

 父の声と母のキスを動力に、少年は外へ駆け出した。

 両親が仕事に行く時間は決まっておらず、その内容を尋ねても決して言わなかった。だからなぜこんなに不規則な生活をしているのか、少年にはわからなかった。

 だが、彼は遊び盛りである。そんな疑問など、目の前の事件に比べたら小さなことだった。この町はリーガ・ジグールでプレイする選手を多く輩出しているが、彼らの帰郷ではこれほどの騒ぎにはならないだろう。

「おいルディ、あれって」

「うん、リーブスのマルコだ」

「行くぞ、サイン貰わないと」

 少年は友人とともに全速力で駆け寄る。リーブス・シティは今シーズンもキロムリーグ一部で活躍するトップクラブだ。そしてマルコはそのクラブの正ゴールキーパー、花形の選手だった。

「みんな元気だな。頑張って俺みたいになれよ」

「キロムってどんなとこなの?」

「ああ、いいところだぜ。フットボールがうまけりゃ誰だって俺を見てくれる。こんなジグール生まれの、都会っ子でもな」

 マルコの冗談に、子供たちは皆笑っていた。その多くは、心よりのものだろう。

「僕もいつかなれるかな」

「なれるとも。君がフットボールを続ける限り、夢はどこにもいかないさ」

「今年こそグレイフォレストに勝ってね」

「もちろんだ。奴らのシュートなんざ全部止めてやる」

「あとで一緒にやろうよ」

「おう、ボールはいっぱいあるぜ!」

 彼は質問ぜめにあいながらもひとつひとつ答えて、サインを求められれば快く応じた。ミニゲームをした時など、本当に楽しそうに歯を煌めかせていた。

 オフシーズンとは言えスポンサーのこともあり、許された時間はそう多くないはずだ。家族と会う時間しか、本当は許されていないかもしれない。それでも子供たちと触れ合うのは、他ならぬ幼き日の彼がそう願ったからだろう。それに、反対を押し切っての帰郷でもある。

 両親が出て行くのは、決まって銃声が聞こえた時。怪我をして帰ってくる時もある。たとえ聞かされずとも、気づくだろう。両親が命を賭して戦っていることを。

 一度、深夜に帰ってきたことがある。少年は寝たふりをして、話を聞いていた。幼い彼にはわからない言葉ばかりだったが、一部は覚えている。

 砂漠の連中、ドミニコ内戦にまで介入するのか。もう奴らと戦うのはたくさんよ。あいつら、特にマクシムは私たちの仲間をもう何人も殺した。反政府軍に取り入るライルも、絶対許せないわ。

 それは確かに両親の声だったが、見たことのないほどに怒りが込められていた。少年は幼いながらも、両親が死地に立っていることを実感していた。

 それでもなお、平和は訪れそうにない。数ヶ月もすると、より口径の大きな小銃弾が飛びかうようになった。爆発音も少年の住む街まで届いた。日が経つにつれ情勢は激化する一方であり、もはやフットボール選手が帰国するなどという状況ではない。両親が家を空けることも多くなった。

 ある日少年は、そのことを両親に聞いてみることにした。ここまでくると、もはや隠し通せないことはわかっていただろう。ふたりは話すことにした。つまりは、このようなことであった。

 ジグール傭兵は本来であれば、対岸の火事を消すためにその都度湖畔地方の国から雇われている。だがついに紛争の波は、故郷にまで広がった。だから先月ごろから傭兵たちは、彼らの多くが属するジグロ共和国の国軍を助ける形で戦っているのだ。

 反乱軍側には、特にジェラール地方で大きな力を持つ砂漠の傭兵団がついた。ジグール傭兵たちにすれば、これが悲劇の始まりだった。

 ライルを中心とする砂漠の実働部隊は高い技量を持ち、ごく小さな勢力だった反乱軍を国軍と互角にまで引き上げていた。であればこそ、本来であれば鎮圧するだけのはずだったこの内戦で多くの死者が出ているのだ。

 つまりはこういった事態になっているのだが、少年にとってはある疑問が強く残った。

「ふたりも、死んじゃうの?」

 あるいは両親が恐れていたのは、この疑問を投げかけられることだったのかもしれない。母は子をぎゅっと抱きしめ、願うように耳元で口にした。

「死なないよ。パパもママも、この家に帰って来るために必死で戦っているんだから」

「ほんとに?」

「ああ、約束する。お前が立派な男になるまで、死んだりはしない」

「約束だよ」

 少年は安堵の笑顔を作る。だがその頬はこわばっており、不安を気取られないよう努めていた。

 両親はその表情をみて、顔を見合わせ頷く。不安は親とて同じなのだろう。子の頬に刻まれた嘘に気づくことはなかった。

 少年が真実を知った頃、示し合わせたように戦況も悪化していた。今や反乱軍は飛ぶ鳥を落とす勢いであり、首都付近では昼夜を問わず激戦が繰り広げられている。

 だから少年の両親は、いつも死地を泳いでいた。帰ってくるたびに包帯ばかりが増え、その痛々しさにやりきれなくなる。なぜ父は、なぜ母はこうも傷つかねばならぬのか。

 ある時、数日間帰って来られないと伝えられた。もはや少年には、その衝動を抑えることができなくなっていた。

 ジグロの首都にほど近い都市ナグ。この街に少年が来たのは初めてだった。街路を覆う砂埃は湖岸から吹く風で舞い上がり、硝煙と血で黒く染まっていた。

 目と口をかき回す異物感に鉄の匂い。最初に少年を襲ったのは戦場の空気だった。遠くから地鳴りが聞こえる。今やこのジグロでも、巨人は運用され始めている。十メートルを超えるくろがねの巨人は、小銃など物ともせず進軍していた。

 戦うためだけに構築された土の壁に隠れながら、今もどこかで戦っている両親を探す。

 道の奥ばかりを見ており、近くのものに対する注意が逸れていた。少年は人影にぶつかった。男はとっさに銃口を向けたが、ぶつかった相手が子供だとわかるとため息をついた。

「こんなところで何の用だ」

「あの、パパとママに会いたくて」

「ああん? ガキはよそで遊んでな。ここはお前みたいなのがいていい場所じゃねえんだ」

 帰れ。背の高い男にそう手を振られ、少年は引き下がりかけた。だがなぜここに来たのか思い出した時、勇気が湧いた。両足を踏みしめ、大きく息を吸う。

「僕の両親は、ここで戦っているんです」

 男は気圧され、一歩下がった。そして髭を生やした下顎を軽く撫で、少年を見下ろす。

「てめえの親は反乱軍か、それとも正規軍か」

「いえ、ジグール傭兵団です」

「じゃあ俺と同じだ。連れてってやる、少し下がってろ」

そう言うと男は壁から身を乗り出し、手榴弾を投げ込む。爆音の後、砂に巻かれた路地を束の間の静寂が包んだ。

「行くぞ」

 男は少年の手を掴むと、壁の隙間を抜けて駆け出した。

 とは言え、戦場の只中である。あちらこちらに、男と服装の違う兵士が構えている。少年を奇異の目で見ている彼らも、いずれその銃口を向けるだろう。危険なのは傭兵の男が一番よくわかっていた。

 細い道は発見されにくいが、爆発がこもるため非常に危険だった。風が強くすぐに目が痛くなるほか、あちこちに物が転がっている。少年は気が急くあまり燃料缶でつまづいて転んだ。

「鈍臭えな、怪我はねえか」

「ごめんなさい。大丈夫です」

「ちょっと見せろ、怪我してんじゃねえか。気をつけろよ。この辺りは割れた瓶や金属片が多い上に、傷から発症する病気もある。少し休むぞ」

 男はため息をひとつ吐くと、道の脇にいる少年を隠すように立った。そのまま周囲を警戒し、無線機を取り出した。

「こちらアンドレ。ガキをひとり預かってる。拠点までのルートを指定してくれ」

――こちらグスタフ。アンドレ、わかった。巨人で守っている港はまだ落ち着いているから、そこ経由なら大丈夫だ。

「オーケイ、グスタフ」

 まさか、少年は無線越しの音割れした声が妙に引っかかった。男はこちらを振り向くと、歯の隙間から漏れだすようにため息をついた。

「全く、こんなガキをほっぽってドンパチかましてんのは何て名前のやつなんだ?」

 少年はむっとしたが、毅然として答えた。

「ケビンと、ナタリー。僕の両親の名前です」

 これに驚いたのは男の方だった。

「お前、団長の子なのか。団長は今一番厳しい場所にいる。行くぞ、時間がない」

 少年の足の傷に素早く包帯を巻くと、男は走り始める。少年は必死でその背中についていった。

 男は走りながら、時々後ろを振り返り少年の強い眼差しを受ける。

「こちらアンドレ。団長とナタリーさんを野営地に呼んでほしい」

――どういった用だ。

 お前、名前は。男の問い対して、少年ははっきりと答えた。

「ルディ」

 男は頷き、声を張り上げる。

「ルディが来てる、そう伝えてくれ」

――状況はわかった。だがあのふたり抜きでは、スチールアベニューを奪られるぞ。

「いくらなんでも相手が悪い。どのみち一旦立て直す必要はあるぜ」

 ――ああ、そうかもな。よし。隊長らを呼び戻す。お前も気をつけて来い。

「オーケイ」

 男は再び少年の手を引く。顔を近づけ、少年の頭に手を乗せた。

「いいかよく聞け。ここから交戦地帯に入る。余計なものは見るな、足元だけ気をつけろ」

「わかった」

 少年は夢中で走った。手の震えは増している。自分のしたことが怖くなってきたのだ。自分のせいで、戦況に悪い影響が出ているかもしれない。彼は命の危険よりも、両親のことが心配だった。

 グスタフが指定した通り、港は傭兵団の兵士が制圧しており比較的安全といえる。少年はここで初めて巨人というものを見た。一瞬呆気にとられ、足を止めた。

「おい、どうした」

「あ、あれ」

「巨人か。全く、こんなもの、人が本気で平和を望むなら生まれてこないはずなんだが」

 アンドレは苦い顔で吐き捨てた。戦うためだけの巨人はこちらを一瞥し、警戒に戻った。

 一応対巨人野砲などに気をつける必要があったが、砂漠の野砲は当たらないことで有名だった。アンドレはここで少年をグスタフに引き渡すと、持ち場に戻っていく。どうやら戦局は抜き差しならない状況らしい。野営地で指揮を取っていたグスタフも、そろそろ出なければいけないところまで来ていた。

「ルディ、だったね。両親にはすぐ来るように言っておいたよ。聞くところによると、最近まで内戦のことをなにも伝えていなかったそうじゃないか」

「パパとママは今も戦ってるんでしょ?」

「ああそうだ。ほんとはもっと休ませてやりたいんだが、敵さんがどうも許してくれないんだ」

 着いた、ここが僕たちの拠点だ。指で示された場所は、町の庁舎より少しばかり小さい建物だった。野戦病院なども兼ねており、重症者は家に帰らずここで入院している。他に適当な場所がないため、攻め落とされるわけにはいかない。ここは最も重要な拠点だった。

 中に入ると、そこには地獄が待っていた。腹を打たれた兵士は激痛にあえぎ、ある兵士は壊死した腕を肩から切り落としていた。だがすぐに、悲鳴を上げているうちは幸福であると気づく。部屋の奥には、おそらく死体が入っているであろう麻袋が並べられていた。それは少年にとって、初めて出会う死だった。

「ショックだったかな。これが君の両親が働いている場所さ。そろそろ来るはずだから、待っていてくれ。僕は行かなければならない」

 そう言って去っていく男と入れ替わりで、少年はひとつの声を聞いた。

「ルディ、いるのか」

 喧騒の中、それは考えうる限り最も心地よい声だった。文字通り飛び込んできた父は少年を抱き寄せると、頭を小さくぶった。

「痛」

「どうして何も言わずに来たんだ。怪我でもしたらどうする」

「ごめんなさい」

 父は叱ろうとしたが、憤りより安堵と喜びの方が勝った。報告のあった場所は国境に近く、無事であることは奇跡に近い。

「しかし、よくこんな場所に来れたもんだ」

「知りたかったんだ。パパ達がなにをしてるのか」

「そうか、お前もそんな歳になったのだな。そのつもりはなかったんだが、仕方ない。見ていけよ」

 そう言って父は母の方を指差す。母はつい先ほど事切れた兵士の横に座った。木箱の中から取り出したのは、小さな筆のようなものだ。それに白い粉を付け、兵士の青白い肌に塗り始めた。

「何をしてるの?」

「死化粧よ」

死化粧。少年はその意味が分からぬまま、おうむ返しにそれを口にした。

「そう。残されたものは、苦しみ死んでいった仲間がせめて穏やかに笑っていてほしいと思ってる。死化粧は彼らが笑っているようにお化粧をするの。それが嘘であっても。そして自分も、そうであればこそ死を受け入れられる。ジグールの兵士は皆そう思っているわ」

「死なないのが、一番だよ」

「ルディ、あなたの言う通りよ。でもね。今の私たちには、命をかけて守らなければいけないものがあるの。みんなが平和に暮らせる国にもどしたい。そのために戦うの」

聡明な少年には、その意味がわかった。だが、だからこそ少年には納得ができなかった。

「平和のために、なんでママが死ななきゃいけないの。嫌だよ」

 母は手を止め、少年の頭を撫でた。化粧の付いた粉っぽい手に、少年はいつもより大きな優しさを感じた。

「いつかあなたが大人になれば、きっとわかるはず」

 ひと通り化粧を終えると、両親は祈りを捧げたのち戦場へと戻って行く。少年は戦闘が収まるまで待っているよう言われたため、宿舎で救護兵の手伝いをすることにした。

「ルディ君だったね。両親にはお世話になっているよ。あのふたりは、ジグールにとってなくてはならない存在だ」

 聞くところによると、両親がこの傭兵団に入った時にある男から教わったそうだ。その男、アルブレヒトは巫師であり、死者の魂を慰めるための化粧を生業としていたという。

「今のジグール傭兵が強く戦えるのは、死化粧があるからなんだ。理由だけでは戦えない。その死に意味がなければ。死化粧はむしろ、生ける者のためにある」

 今の少年には、それがわからなかった。あるいは、わかることを拒んだのかもしれない。それは、父と母が紛争で死なねばならないことを意味していたからだ。

 結局三日後まで戦闘は続いた。ジグロ側の奮戦により、ジェラール砂漠から来た傭兵たちを撤退に追い込んだのだ。彼らを頼っていた反乱軍は総崩れとなり、内戦は終わった。

 逆に言えば、それだけ砂漠の傭兵が大きな勢力であるということでもある。ここで寝泊まりしていれば敵の悪名は嫌でも聞くこととなる。蠍オリバ、殺人狂マクシム、後ろ目のライル。オリバは手柄に聡い男で、こちらを切り崩し戦果を立てられる場所に常に存在する。マクシムは、十人以上のジグール傭兵を殺した。彼は獣の嗅覚で敵に狙いを定め、攻撃をかわしながら突撃する。仕留めた後にも隙は残さないという。ライルは、前線指揮が主な役割だった。その視野は広く、ジグールは幾度となく作戦負けを喫している。

 そのような話は、決して気持ちの良いものではない。そして敵が去った後の遺体整理の中で、少年はアンドレの姿を見た。手榴弾の爆発に巻き込まれたのだろう。手を引いてくれた力強い手は肘からなくなっており、豪胆に笑った頬は固く閉じられていた。少年はこの時初めて、死化粧の意味を知った。化粧などで死者の苦しみが和らぐことはない。ただ忘れぬために、血が通った生前のような赤い頬と唇を作るのだ。

 その後数日をかけ、葬儀や復興などの作業が終わった。父は隣に立ち尽くす少年の顔を見ず、ひと言だけ口にした。

「終わった、帰ろう」

 少年は発するべき言葉を持たなかった。そこには死があり、そして生があった。愛する両親の、真に誇れる姿があった。だが少年は何を思っただろうか。三人は我が家へと帰っていった。

 少年が両親に憧れ傭兵を志すのに、そう長い時間はかからなかった。両親が最初に感じた異変は、友人からのフットボールの誘いを断るようになったことだ。少年は両親が働きに出る時間をついに把握した。だから出かける瞬間を逃さぬように家に留まったのだ。

「ルディ、お前は家にいろ」

「今日は、どれくらい危険なの?」

「俺たちなら問題ないが、お前では死ぬかもしれん。お前は大人しいから、傭兵には向かない」

 そう言われても、少年には引き下がれなかった。

「僕も行く」

「だめだ」

 いつになく冷たい父の声を聞いても、まだ少年は強気だった。だが父もまた、行かせるわけにはいかなかった。

 いいかルディ。頭に手を乗せ、同じ高さで父は子と向かい合う。

「いずれお前の力が、必要になるかもしれない。そうならないように、俺たちが戦う。だから今は、危険な場所には行くな」

 少年は何も言えなかった。アンドレが死んだのも、元はといえば自分が来たからなのだろう。自分には力が足りないのだ。

 奥歯を噛み締め、告げられた言葉を飲み込む。自分には何ができるか、考えなければならなかった。

 まず彼が考えたのは、体力をつけることだ。その時が来た時に、戦場を走り続けられる必要がある。そのため、断っていたフットボールに積極的に参加した。加えて、より上手くなろうと努めるようにもなった。周りを見る力や器用さをも得ようとしたのだ。

 脚も鍛え続けた。ごく短時間の休息で、最大のパフォーマンスが連続して発揮できるようにミニゲームを繰り返す。走行距離とスプリントを両立させるため、体が動かなくなるまで走った。皆フットボールが大好きだったから、少年に付いていく者も多かった。

 そしてその努力は、実りを得ることとなった。地元クラブのジュニアユースに属した彼は、十二歳にしてジグロで一番の才能と呼ばれるまでになった。両親は忙しかったが、周囲の人の支援の甲斐あって多くの試合に出場した。ジグール首位のエル・ドランを含む多くのクラブからスカウトが来て、プロへの道も視野に入った。当初、少年は固辞していた。それが目的ではなかったからだ。

 それは三月、地面を焼くような乾季の日差しの中だった。あのリーブスから、年棒四万ベインという破格の条件でオファーを受けたのだ。これは当時十一歳だったマルコですら受けられなかった待遇だ。

 ジグールの家庭の平均的な年収は五千ベインほどにとどまり、その上両親の収入は不安定だ。リーガ・ジグールのクラブの主力選手でも多くて五万ベイン程度だろう。だからこれには少年も流石に悩んだ。

 だがやはり、自分で決められることではなかった。

「パパ、ママ。僕、プロ選手になるつもりはない」

「そうなの? マルコのいるチームでしょ」

「うん、でも僕はお金が欲しいわけじゃないよ。フットボールも、体を鍛えたかっただけだし」

「かと言って、お前はまだ戦場にはやれない。だからどうだ。せっかくの機会なんだから、やってみればいいじゃないか。いろいろな経験ができるぞ」

「そうよ、ルディ。こっちのことは私たちに任せて、楽しんできなさいな」

 両親の反応は、予想通りだった。まだ自分の体は小さく、視野も十分広いとは言えない。いつか両親に代わってジグロを守るため、できる限り多くの経験をしてみよう。この時の少年は、そう思うことで両親と離れる決断をした。

 キロム一部リーグのシーズンは春真っ盛りの一月から始まる。それとずらすためか、ジュニアのシーズンは秋からとなっている。リーブスは育成に最も力を入れており、移籍に頼ることは少ない。そのためグレイフォレストが時に外人部隊と揶揄されるのに対し、リーブスは献身的なプレイと結束力を持ち味としていた。

 育成選手は過酷な夏キャンプに参加し、出場機会を得るべく調整する。夏キャンプ前半は赤道直下の国で行われ、過酷な環境で過ごすこととなる。何年も歳上の選手たちが暑さで苦しむ中を、少年は涼しい顔で走り込んでいた。後半は高地トレーニングが主となり、湖畔の低所で育ったルディは一転して苦痛にあえいだ。だがそれでも、いい機会とばかりに徹底して体を鍛えることにした。

 結局このシーズンはジュニアリーグでプレイした。平均十四歳のチームの中でも、彼は目立った方だと言っていい。キロム語は公用語とほぼ共通しているため、チームメイトの言うことはわかる。だがやはり、慣れない場所に戸惑うことも多く打ち解けられずにいた。最終節で優勝を逃したチームと悔しさを分かち合うこともできず、少年は鬱屈としていた。

 何もすることのない日、ひとりジュニアの練習場に立ち寄る少年に声をかける男がいた。キロムリーグでプレイするジグロ生まれの選手は十人を超えるが、それでもジグロの子供たちあこがれは彼に対する者がほとんどだった。

「ルディ、俺も一緒にやっていいか」

「は、はい」

 喜びよりも、驚きの方が勝っただろう。何しろ、同じクラブといえど雲の上の存在だったマルコが目の前にいるのだ。トレーニングウェアに着替え、まずはスタジアムの内周を走った。だが、何故だろう。今はシーズン中のはずだった。

「最近、よく頑張ってるじゃねえか」

「ありがとうございます」

 少年は褒められた喜びよりも、先程からの疑問を晴らすことを思っていた。聞いてしまえ。再びあたりを覆う沈黙の中、少年は勇気を振り絞った。

「なぜこんな場所に」

「昔は俺もここで練習したものさ。ここならひとりで憂さ晴らしできるかと思ってな」

 少年はきまりが悪そうに肩をすぼめる。それを見たマルコは慌てて手を振った。

「いや、そういうんじゃねえんだ」

 気まずい空気が流れていた。ルディは体が少し温まったのを確認して、足運びのトレーニングに入った。無論、マルコも。

 このメニューをどれだけ追い込めるかで、足回りの性能が変わると言っていい。ルディは体が成熟しておらず当たりがまだ弱いため、躱す技術をつける必要があった。

 マルコが口を開いたのは、ひと通り脚をいじめ終わりボールを取り出そうとしたときだった。

「ルディがいるなら、ちょうど良かった。話を聞いてくれねえか」

 少年はそれを意外とは思わない。誰の目から見ても、シーズン中のマルコの動きは明らかに精彩を欠いていた。防御率は数年ぶりに一点台となり、ペナルティでの失点は倍以上となっている。

 だが、続けられる言葉は彼の表情を凍りつかせた。

「内戦でお袋が死んだ」

「え、それってジグロの」

「そうだ。聞いたら野砲の流れ弾に当たったらしい。守備隊が押し切られたそうだ」

 畜生。マルコは震える声で叫んだ。日も傾き、空はみるみる黒い雲に覆われた。ドームであるリーフスタジアムとは違い、この練習場では肌に夏のぬるい雨が当たる。

「俺、これからどうすりゃいいんだよ。お袋のために稼いできた金も、家族を呼び寄せる予定だったキロムの家も、もう何の意味も持たねえ」

 なあ、ルディ。肩に手を置いたマルコは、吐き出すように名前を呼んだ。

「お前のとこの両親って傭兵なんだろ。なあ、どうしてくれんだよ。守れたんじゃねえのかよ」

 少年の肩を揺さぶりながら、マルコは涙を流していた。だから少年はそれに返す言葉を持たなかった。それは、自分のせいかもしれなかったからだ。両親は自分が来たことにより一時的に戦場を離れた。もしその間に敵が進んだ位置が、ひいてはマルコの家族のところまでたどり着くきっかけとなったとしたら。少年は口を閉ざすより他になかった。

 言葉もなく、基礎練習が続いた。大粒の雨は、不条理に喘ぐ男の涙を洗い落とす。少年も、その痛みを強く感じていた。いずれ故郷に帰るまでに、強い男にならなければならない。重い無言の中、ふたりはただボールに映した自分と向き合っていた。

 クールダウンに入り、ようやくマルコが口を開いた。

「取り乱して悪かった。彼らはジグロのために戦ってるんだもんな。ルディ、すまん」

 マルコは、怒りの行き場がどこにもないことを知っていた。だからこそ、心はすでに決めていたのだろう。

 彼の引退を知ったのは、選手寮のテレビによってだった。もとよりテレビを見る習慣はなかったが、ここに来てからはジグロのニュースがやっていないか逐一確認をしていた。理由は、フットボールがつまらなくなったから。これは結論を導いた結果であり、理由ではない。本当の理由を、彼は誰にも話さなかった。

 少年は帰国しようと思った。だが、マルコに止められた。お前はまだ、できるはずだ。その言葉の意味を、少年ははっきりとはわからなかった。

 この頃から少年は、知り合いのつてを頼り軍隊格闘術を学ぶようになった。はやる気持ちを抑え切れなかったのだ。無論試合の合間であり、あまり多くの時間は割けない。だがここでも彼は急速な上達を見せ、数ヶ月で退役軍人とも互角に渡り合えるようになった。交友関係も増え、広く白兵戦の技術を学べる機会を得た。ジグール傭兵の息子と聞くと、退役軍人も力を貸してくれたのだ。

 今を必死に生きていれば、時間はすぐに過ぎていくものだ。十六歳になった少年は既にチームの司令塔となり、二度のジュニアリーグ優勝も経験していた。アンダー十八の国際大会に出場したときには、ジグロ代表のキャプテンとして八傑にまで導いた。

 この年、オフシーズンに一部リーグの試合にベンチ入りすることとなった。ポジションは左ウイング。中盤の落とせない試合で、そのキック力とスプリントの速さを買われての起用だった。身長も百八十に達し、屈強な守備陣に当たり負けることも減ってきた。ルディは後半二十分から途中出場したこの試合で、なんと決勝ゴールを決めたのだ。歓声の中にあって少年は、自らの幼年期が終わり始めていることに気が付いていた。

 キロム一部、世界最高峰のフットボールの舞台で、ジグロ生まれの青年ディートリヒは躍動した。マルコがいない以上、堅守にものを言わせカウンターを仕掛ける以前のスタイルはもう使えない。青年はその足回りと嗅覚を生かして、控えのフォワードとして機能した。だが、チームは低迷した。十年にもわたって全試合フル出場してきたマルコを失ったことは、あまりに大きな痛手だったのだ。補強したゴールキーパーも、チームに馴染めているとは言えなかった。

 首脳陣は打開策を探した。大型補強よりも生え抜きで戦いたいというチームの方針の中で、白羽の矢が当たったのは青年だった。前線で押さえ、短いパスで崩していく攻めの形。十六歳の司令塔を核とした戦術は、試験的に実践されることとなった。

 はじめ、勝ち星に恵まれなかった。確かに青年の守備技術は高くボールは奪えるのだが、肝心のパスが途切れるのだ。こうなるといくらジュニア優勝の立役者とは言え、サポーターの目は厳しい。ホームにも関わらず、鳴り止まないブーイングの中でのゲームもあった。青年はあと一歩通用しない自分に、次第に苛立ちを募らせた。

 ある冬の日、青年はひとりでホームタウンであるリーブスの街に繰り出した。年俸は五百万ベインを越え、息抜きをする余裕もある。リーブスは歓楽街として知られており、客引きの声が絶えることはない。青年は気付かれぬようジグロのつばの広い帽子を被った。

 だというのに、サポーターの目はごまかせなかった。一瞬で見抜かれると、野次やサイン攻めに逢う。青年は後で知ったが、その帽子はマルコがよく被っていたものと同じだったという。彼らはマルコと勘違いして集まってきたのだ。

 男に手を引かれる。一本向こうの通りであればゲイも少なくないが、青年はその顔を見て付いていくことにした。

「大丈夫だったか」

「マルコさん、どうしてここに」

 クラブのロゴがあしらわれた白いチェスターコートを纏った男は、老け込んでいるが確かに面影を残していた。クラブを引退した後、貯金を元手に資産運用で悠々自適に生活しているそうだ。だが、とてもうまくいっていそうには見えない。コートには落としきれなかった汚れや匂いが薄く染みついており、それが刹那主義的なこの街を暗喩しているようでもあった。

 裏道のバーにたどり着く。さすがにここまでは来たことがないため、青年は少し頬を引きつらせた。

「リーブスダービー、見てたぞ。まさかノーフォークの奴らに負ける日が来るとはな」

「ごめんなさい。僕じゃなければ、あの試合は無失点で勝っていました」

「だが、今までにない形だ。何でもはじめは上手くいかんものさ」

 だから気を落とすな。肩を叩き笑うマルコに、青年は苦笑いしかできなかった。

 マルコが手を挙げマスターを呼ぶと、二杯のグラスが出てきた。

「ヴィスクだ、飲め」

 青年が戸惑っているともう一言、飲めと言った。軽く口をつけると異様な匂いが鼻腔を突き、脳を揺らした。だが口に含むにつれ、だんだんと味がわかってきた。匂いに覚えがあることに気がついた。それはたまの休みに両親が飲んでいたものなのだろう。美味しいかも、そう思い横を向くとマルコは既に二杯目を飲み干していた。

「おやじ、今日は俺のおごりだ。このガキにいつものをやってくれ」

「おうよ、旦那」

 出されたそれは、素朴な魚料理だった。ジグロは漁業が盛んであり、ジグ―ル湖の淡水魚は彼らの生活を強く支えている。独特の強い風味と歯ごたえに、マルコは帰る場所のない故郷を懐かしんでいるのだろう。そしてそれは、少年にも必要なことだった。

 そう思うと、こみ上げてくるものがあった。自分は弱いからここに来た。自分が本当に身を置きたいのはどこだろうか。両親は、ジグロが戦場でない以上自分の手を借りることはないと言った。だが、メディアをくまなく見ている青年にはわかっていた。内戦の火種はもう燻っている。ジグロの選手はキロムリーグに相当数いるが、むしろ安全なキロムに残る者も多いだろう。だが青年は違う。帰らねばならぬ時は近い。だから今は、すべきことをする。体を鍛え、金を稼ぎ、ジグロのため少しでも役に立てるような自分を作る。そう決意を固めた。

 すべきことがわかると、動きを鈍らせていた余分な力が抜けていく。彼の復活により、チームはまとまりを見せていった。今までちぐはぐだった攻守が抜群のかみ合いを見せ、得点力も増してきたのだ。このため折り返しで六位まで低迷していた勝ち点は二位に浮上し、首位のグレイフォレストを捉えた。町中が熱狂し、この若すぎる才能を称えた。

 だがこの辺りからだろう。青年の心はそれとは対照的に、少しずつ鈍く冷たくなっていった。

 青年が街で新聞の号外を手にしたのは、そんな矢先の出来事だった。彼は辞表を手渡すとすぐに荷物をまとめた。引退するなら会見が必要と言われたが、それも無視した。クラブへの違約金などは払えばいい、もとより単年契約しか結んでいないのだから。一刻も早く、青年は故郷に帰らねばならなかった。

 渡航許可は難航した。当然であろう、先ほど開戦の報が出たばかりのところに向かうのだから。だが、引き下がらなかった。

 騒ぎはあまりにも大きく、翌朝の朝刊は売れに売れた。だがリーブスの革命児の姿は、もうどこにもなかった。

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