SIDE-2 死化粧 中
彼がジグロ国際空港で初めて聞いたのは、砲火だった。青年は急いでタクシーを呼ぶと、まっすぐに走らせる。六年ぶりに旧友の顔を見るのも、ボールを使って子供たちと触れあうのも、何もかも後回しだ。実家は無事か。
見慣れた道を全速力で飛ばすと、そこには在りし日の我が家があった。勢いよくドアを開けた彼は、そこにかつてより老けたふたりの姿を見た。どうやら、今出発するところだったらしい。
「ただいま」
ふたりは一瞬、目の前の出来事が分からなかった。身長はもはや四十センチ以上のび、ひと目ではこの精悍な男が誰か判別できなかったのだ。
「ルディ、いったいどうしたんだ」
「パパ、ごめん。戻って来た」
俺も戦わせてくれないか。再会の後、初めて口をついた言葉はそれだった。
「戦うって、クラブはどうしたの」
「辞めてきた。俺にとって、ここの方が大事だから」
突然の来訪者に驚いたが、その言葉にケビンは満足した。父として、あるいは男として、彼はひとりのルドルフを認めたのだ。であれば、任せることにした。
「わかった、お前も来い」
ケビンはそう言って部屋に戻る。ルディの分の装備は、既に用意してあるのだ。数分で荷物を詰め込み、ルディは戦地へと向かった。
今回もナグが主戦場だった。以前と違うのは、遠く敵陣に見える巨人の数だ。連中は本気でここを獲りに来ているらしい。ディートリヒ一家は新たにできていた野戦陣地へと向かう。巨人の整備所も兼ねており、こちらも迎え撃つ用意はできていた。陣地に入る。
「すまない、遅くなった」
「隊長、お待ちしていた。して、この男は?」
それを聞くとケビンはルディの背中を押す。ナタリーはその頬に淡く微笑を作った。
「ルドルフ・ディートリヒ。私たちの、新たな仲間よ」
その一言で、兵士たちは沸き立った。八年前の勇気ある少年のことは、隊長夫妻の陰で語り草となっていたのだ。だが多くのジグロの民にとって、その名は別の意味を持っている。
「それって、リーブス・シティのルディってこと?」
「サインもらわなきゃ」
混乱する人の前に立ち、ルディは低くなりすぎた声をあげる。
「フットボールはやめました。これからは、両親のために戦います」
「当分は後方支援に回ってもらうわ。だけどみんな、鍛えてあげてね。いずれは̪死化粧を継ぐこととなる」
ルディと同年代の兵士も少なくなかった。みな家族のために戦っているのだろう。であれば、自分も命を賭さねばならない。ルディはずっとくすぶらせていた決意を固めることにした。
ルディが任されたのは、傷病兵の手当と兵站だった。スポーツ医学の知識は積極的に集めるようにしていたため、疲労などの怪我には適切な対処ができた。選手としての活動のほかにこれだけのことをしていれば遊ぶ暇がないのも当然だろう。また徒手格闘は円熟の域に達しており、空き番の兵士を軽くひねっていた。
しかし、今回の戦況はよくない。隊長夫妻が守るポイントでは一切の侵攻を許していないが、スチールアベニュー守備隊は劣勢を強いられていた。特に重篤な怪我を負っている兵士は、ほぼ皆そこから来ているのだ。
死者も、出た。運び込まれた男の表情は苦痛に歪み、内臓に達した銃弾により苦悶の死を遂げたと思われる。夜になり敵が去っていくと、遺体の回収作業に追われた。
「ルディ、ありがとう。人が足りてなかったから助かった」
「ママ、俺にできることなら何でも言ってくれ」
低い声でそんなことを言うのがおかしいのか、兵士たちから笑い声が漏れる。一人称は僕から俺になったが、どうもそこは変えるつもりがないようだ。
ルディが最初にすべき仕事は決まっていた。死化粧だ。夜戦も増えており、死者に対してふたりがかかりきりになれないこともあった。
それを聞いたルディは、無言で頷く。何をするにしても、死化粧は教わると思っていたからだ。
ケビンは部下に今一度指示を出し、散開していく。母子も会議室を離れ、勇敢な戦士たちの眠る安置所へと向かった。
「私の技術を、伝えるわ。心の準備はいい」
「大丈夫だよ、ママ」
「ママはよしなさい。みんな笑ってたわよ」
「ママ以外に、呼び方なんてないよ。隊長の方がいい?」
「もう、好きにしなさい」
呼ぶことが嬉しい、そう言いたいのだろう。ナタリーにしてみても、呼ばれることは嬉しかった。であれば、いいのではないか。もとより気恥ずかしさなどを感じている場合ではないのだ。
そして、一人の男の前に立った。彼は下半身を失う即死だった。むせかえるような死臭に目を背けたが、すぐに向き直した。
「化粧と言っても、すること自体は難しくないわ。手順に沿ってやるだけ。大事なのは気持ちよ」
そう言いながら、苦悶にゆがんだ表情を手でほぐしていく。筋肉が硬直してなかなか動かないが、次第に穏やかな色を見せ始めた。ナタリーは化粧品箱から赤い液体を取り出すと、頬を中心に塗っていった。青白かった肌が、まるで命を持つかのように赤みを帯びる。そして粉末で色を調整し、笑顔を作り出した。
「すごい」
その手つきは鮮やかで、遺体は見違えるほど明るい表情になった。
「まだこれからよ。死後の幸福を祈るの」
そう言ってナタリーは遺体の胸に手を置いたのち、手のひらを合わせ指を絡ませる。彼女が数秒の間目を閉じると、遺体が少し笑ったような気がした。この時ルディは、死化粧の意味を知った。
「俺に、できるかな」
「できるわ。あの人と私の子だもの。じゃあ次は、一緒にやってみましょ」
次の遺体は知らない人だった。それゆえに、緊張した。粗相があってはならない。ナタリーに手取り足取り教えられながら、筋肉をほぐし、頬を赤く染め、笑顔を作る。そして、祈る。決まり文句はない。ナタリーの言葉を用いるならば、心で祈るのだろう。
数人このように化粧を施したのち、ルディだけで行う。ルディはこれが、初仕事だった。まだおぼつかない手つきだが、それでも形にはなった。その証拠だろうか。死者を包んでいた何かが、ふと自分の中に入って行くような感覚を覚えた。
「あなたの遺志も継いで、国を守っていきます。どうか安らかに」
そう呟きながら、ルディは祈りを捧げた。故人にゆかりはないが、故郷を守るために戦ったのだ。感謝と、哀悼の意を伝えなければならない。
「ありがとう。これで故人が報われるなんて大それたことは言えないけど、少しでも生きて戦う人の支えになれる。死化粧は、ジグールで戦うすべてのために存在するの」
遺体の数は十人を超えるが、流れ作業になってはいけない。ひとりひとり、まっすぐに気持ちを込めなければならない。そういった積み重ねが、ジグール傭兵の強さにつながることをナタリーは知っていた。
「この人って」
「ロニーくん。覚えてるでしょ」
ルディは口を押えた。彼は年の離れた年長の知り合いで、一緒にフットボールで遊んだこともある。両親はなく、幼いころから稼ぎに出ていた。そんな見知った顔が、今やこのようなことになっている。
だが不思議と、感慨はなかった。目の前に広がる死があまりにも大きすぎて、麻痺しているのだろう。
丁寧に化粧をし、記憶の中にある表情を見出したとき、後ろに一つの気配を感じた。それは年下の男の子だった。
「君は」
「僕はエイドリアン。お兄ちゃんを、お願いね」
それは悲痛な願いだった。彼は兄と共に戦ってきたのだろう。そして、ただ一人の家族を失った。彼の顔を見て、ルディは今一度自らのすべきことを知った。死に化粧は、生者のためにある。
そうしてすべての死化粧を終えたルディは、立ち上がりナタリーの方を向く。その瞬間に感じたのは、抱きしめたナタリーの熱だった。
「おかえり、ルディ。会いたかった」
「ママ、小さくなったね」
「あなたが大きくなったのよ。向こうではどうだった?」
「少しは、頑張れたよ。お金も稼いだよ、持ち合わせで百万ベインある。傭兵団としては足りないけど、パパとママが楽に暮らせる分はある」
「ありがとね。大事に使うわ。みんなのこと考えると、贅沢はできないものね」
ルディは決して口にしないが、この金で兵器を買ってほしくはなかった。百万ベインあれば格安の巨人が二機買える。安物と言えど巨人がいれば守り通せる場所は多い。だからジグロや雇い主からの予算がおりづらい戦いが多い傭兵団においては、貴重な資金になってしまう。
すっかり夜も更け、宿舎には作業を終えて眠りについた兵士も多い。ナタリーはルディに手招きすると、ある場所へと向かった。
そこにはケビンがいた。
「パパ、どうしたの」
「ルディ。戦況はお前の思うより悪い。一か月後、このまま好転しなければ巨人を出して攻勢に出ようと思う」
それでな。ケビンが続けて発した言葉は、ルディに取って驚くべきものだった。
「お前が巨人を動かしてくれ」
「え、無理だよ。乗ったことないよ」
「できるさ。今のところ兵士は足りてるから、戦闘のない日はシミュレータで練習してくれ。一か月もあれば大丈夫だろう」
「それって、俺ひとりで攻撃に出るってこと」
「そうだ。戦場の主役は巨人に変わりつつある。巨人による突撃から町を守るには巨人で迎え撃つしかない。恥ずかしながら、四十近い身では新しく巨人に乗るのはほぼ無理だろう」
ケビンが十八歳のルディに伝えた期待は、つまりそこだった。あるいは、その意図に気がつくだろうか。そうならないために、父は言葉を選んだ。
ともあれ、試しに動かしてみる。動きはある程度固定されていて、歩くことや照準を合わせて撃つことなどは慣れていなくともできる。一方で、一からプログラムすることもできるようだ。ひと通り動きに慣れたら、演習システムを用いて仮想敵と戦う。これは時間がかかるな。ルディは気を引き締めた。
シミュレータの外では、ケビンとナタリーが見守っている。
「教えたか、死化粧の意味を」
「まだよ。いずれ時が来るわ。その時は、この身で伝えなきゃね」
「ああ、砂漠の勢力はもう抑えられないところまで来ている。マクシムとライルだけは、何としても殺さねばならん」
ナタリーは頷く。傭兵たちの筆頭は、悲痛な決意を固めようとしていた。その時、ルディに託すものは多いだろう。それについて、ふたりは考えておかねばならなかった。
結局ルディがシミュレータから出てきたのは四時間以上たってからだった。上達は早く、演習の一般兵レベルならば造作もなくクリアできるようになった。だが敵の操縦技術は高いという。実体剣を用いた格闘をするためには、より細部にわたって動きをプログラムしなければならないだろう。ルディは巨人という兵器の難しさを痛感していた。
彼は宿舎に戻ろうとしたが、思い立ってシミュレータに戻った。プログラムの方法などもデータでおいてあったため、実機に乗る前にどうにかしておくことにした。まだ朝までは、時間がある。飛行機で寝ているため、明日一日くらい体は動いでくれるだろう。であれば、問題なかった。
そうして二週間ほどは、昼は交戦し夜はシミュレータを動かすことを繰り返した。プログラムもだいぶ洗練されはじめ、そろそろ実機での作戦に参加することが視野に入った。情勢が悪化したのは、初めて巨人を目にしてからちょうど一か月たった時だった。
砂漠の傭兵は隣国のジェラール共和国につき、こちらに仕掛けていた。ジグール湖畔を取ることは資源の面でも非常に意義のあることで、ジェラールは以前より領有権を主張している。実働部隊を率いるライルはそれを利用し、着々と勢力を拡大していた。
「隊長、もう持ちません。至急増援を――」
通信は途絶える。前線はもう支えきれないところまで来ているようだ。
「第四から第九中隊を前線へ。俺が率いる。奴らの狙いはここだけだろう。ならばこちらから打って出るぞ」
「パパ、俺はどうすればいい」
「ああ、お前にしかできない仕事がある。敵巨人部隊を一手に引きつけてくれ」
「わかった。やってみる」
「場所はデータで送る。俺は用意ができ次第、隊をまとめて向かう」
ルディ、頼んだぞ。父の放ったその言葉には、どこかやるせない決意が見え隠れしていた。
格納庫に走ったルディは、そこで待つ巨人を見た。それは新品同然で、正規軍と同等の性能を誇るだろう。
「どうしてこれを」
「団長は、お前に傭兵をまとめてほしいと思っている。これはお前が、ここで強く育つために必要なものだ」
整備の男は、ルディと目を合わせようとしなかった。不審に思ったルディは呼びかける。
「マルクスさん、どうしたんですか」
その問いに答えはない。見る他の守備隊の兵士も、緊張感とは別のところで表情を硬くしていた。
心にしこりを残したまま、巨人を起動する。システムが目を覚ますと、そこに戦場が映し出された。今も仲間は、針の穴を通すような戦線を構築している。であれば、自分もすべきことをせねばならない。
敵機は四機、ジェラール正規軍の機体だが中身は傭兵だろう。決して侮れる相手ではなかった。ナグにほど近いここは巨人の侵攻を許しやすく、鬼門と言える。位置情報を確認し、まずは狙いを定めた。
甘いコースに数発撃つも、避けられた。どうやら敵は同等以上の実力を備えているようだ。
ここに来てルディは、ひとつの手ごたえを得た。狙える。サイトの先に見る景色は明瞭で、外さぬという自信を得るに十分だった。
引き金を引く。太い螺旋の弾丸が、目標に対しまっすぐに吸い込まれていく。乾いた街には、結果だけがあった。巨人は動力を撃ち抜かれ、爆散する。付近十メートルに広がる爆風は、否が応でも彼に死を意識させた。
――ミック、おい、返事を知ろ。おい。
――ジグロ野郎め、絶対に許さねえ。
畜生。悲痛な叫びは、共用回線から聞こえてくる敵の声だった。俺は人を殺したのか。漠然と、それだけを理解した。もう、後には引けない。
敵の巨人が剣を抜く。その動きは滑らかで、おそらく独自の調整をしているのだろう。ルディは息をのんだ。
動力装置を狙って三発撃つ。いくら剣が扱えても、射撃の前には無力だろう。ルディは次の敵に狙いを定めるため、ついた膝を起こしい位置を治そうとした。
――お前、見慣れねえ手つきだが、年はいくつだ。
女の声だった。それも幼い、十歳未満でもおかしくないほどだった。
「十六だが」
――ふうん、気の毒に。あたいはバーンズってんだ。冥途の土産に、取っときな。
煙から開けた視界いっぱいに、敵が映る。そのまま横薙ぎに剣戟が来る。ルディは後方に回避を試みるも、敵の方が一歩上回った。剣戟は胸を浅くえぐり、無理な姿勢となったルディは倒された。バーンズと名乗った敵は、そのままルディの前に立つ。その背後には、すでに敵が集まっていた。
――避けられたご褒美だ、名前も聞いてやる。
ルディはとっさに起きようとしたが、プログラム通りではすぐ跳ね飛ばされてしまう。
――無駄だ、おとなしく答えるんだな。
「ルドルフ・ディートリヒだ」
振るわれた剣は、止まった。バーンズはルディに、立つよう促した。
――ディートリヒ、てことはそっちの団長の息子か。覚えたぜ。そんじゃ見とけよ。砂漠と湖畔、どっちの
その瞬間、街路から爆音が轟く。そこは父ケビンがいる場所だ。銃声は以前よりさらに苛烈となり、そこは死線と化していた。
「どういう意味だ」
――あそこには砂漠の強え奴がそろってる。マクシム兄、クレズ兄、そしてアレックス兄。そっちの団長も、年貢の納め時ってやつさ。
剣の腹でかち上げられる。ルディはよろけながらも立ち上がり、剣を取った。
――無駄話をしちまったな。さあ戻ろうぜ、あたいらの戦場に。
「パパは、誰にも負けない」
それを聞いて、別の敵から笑い声が漏れる。バーンズを押しのけ、嘲るように手振りをした。
――パパだってよ。ちょうどいい、お前も同じところに送ってやるよ。
その剣が振るわれるとき、ルディは自然に体が動いていた。動力部めがけ二発。剣はすでに虚空に向かっており、命に吸い込まれていくその弾を受けることができない。ルディは発射の反動を生かして後退しバーンズに向き合った。閃光。爆音はまだ来ない。
「誰が来ようと、ここから巨人で撃ち落とせばいい」
――ちっ、もう猶予はやらねえ。ミック兄の仇だ、死ねよ。
剣戟を受けるのは剣でなければならないというのに、ルディにはそれをする技量がない。だがそれでも、飛び跳ねて避けることはしなかった。それをすれば、また死者が出る。ルディは、マルコのことを思い出していた。もう、悲しむ人を増やすわけにはいかない。自分の命は、そのために使われるべきだ。
回答は、得られた。振るわれる剣を、直接狙えばよいのだ。銃弾の運動量はそのまま剣に対して作用する。距離が近ければ腕ごと揺さぶることも可能だろう。
二合受け流すと、敵の仕掛けも滞る。
不意に、ルディの内側を黒いものが通過するのを感じた。その正体は定かではないが、何か取り返しがつかないことが起きていることだけは理解できた。
「また、この感覚」
――ありがてえ、そのままよそ見しててくれよな。
目の前にはすでに巨人がある。もう回避の猶予はない。であれば心を落ち着かせ、自分が生き残るための力を尽くすしかない。銃をその手首に沿わせ、静かに一発放った。心に走った影は虚しさとともに、その敵を見る目を助けてくれた。
バーンズは激情に任せ剣を振るう。幼い少女には一切の容赦も油断もない。その切っ先をいなす手首、粗い攻めを許さない動力部と、ふたつの狙いのどちらもを欠かしてはならなかった。
爆音のたびに、フェイスカメラを向けてしまう。あの通りは、たしかあの人が。兵の配置は目を通してあるため、誰に危険が及んでいるかはわかってしまうのだ。だが、目の前の少女はそれに怒りを募らせていた。
――人が死ぬのが、そんなに珍しいか。自分は殺しておいて。
ルディは言い返せなかった。
――ミック兄はたしかに下手くそだったけど、みんなのために進んで巨人に乗ってくれてた。みんな兄の作るスープパスタが好きだった。わかるか、半端な気持ちで戦う奴なんか、いちゃいけないんだ。あたいはまだ子供だけど、お前なんかに負けない。
再び開かれた戦端は、激烈なものとなった。急ごしらえで粗削りだが、この戦法で行くしかなかった。まだリロードはオートに頼っており、一秒以上かかる。弾がなくなるまでに、ひとまずは相手の体を開かせなければならなかった。思考に黒いノイズがかかるのを必死で振り払いながら、あくまで冷静に一発一発引き金を引いていった。バーンズは誰に教わったか、おそらく独自のプログラムで動かしている。動きに隙がなく、こじ開けるしかなかった。
バーンズは何も言わない。通信の先からは、舌打ちや粗い息遣いだけが伝わってくる。彼女の強い怒りを、ルディは感じ取っていた。
「こちらルディ、シャドウアベニュー、大丈夫ですか」
――こっちは問題ないが、それよりソルトストリートがまずい。団長が、もう持たない。
パパが。抱いていた危惧が当たっていたことを知ったルディは、もう一度呼吸を整える。体の中にある黒い奔流に身を預けるように、すっと前方を見つめた。
「バーンズ嬢。すまないが、今日は帰っていただく」
――なんだそれ、パパとか言ってるやつが気取ってもかっこつかないぜ。それにあたいは――。
フェイスカメラを撃ち抜く。ここなら爆発の危険はなく、不意打ちには最適の場所だった。
「あたいは、何ですって?」
――な、何しやがる。くそ、前が見えねえ。退くしかねえのか。あ、ミナ。通信? なんだ。
え。その表情が凍り付いたのが、通信越しでも感じられた。
――マクシム兄が、敵の指揮官と相打ち。嘘だろ。あたい、まだ兄に何も教わってないのに。
狼狽するバーンズをよそに、ルディは北へ駆けた。ソルトストリートは古来より交易で栄えた大通りだが、今は放火にまみれている。そのただなかに、いるのだろう。彼の父でありジグール傭兵団の団長、白兵戦の名手であり不死身の異名を持つ男、ケビン・ディートリヒ。ルディは走らねばならなかった。拠点に戻り、巨人を乗り捨てる。
「ハイドさん、これ預けます。僕はパパのところに」
「待てルディ、お前が行ってももう」
聞く耳は持てない。思念が渦巻く街路に、ルディはもはや心を奪われていた。
鼻を突く鉄の匂いは空薬莢か、それとも血か。ルディの頬を撫でたのは、まさに瘴気と呼べるような異様な空気だった。
斃れ伏した山のような男のなかに、ほかならぬ人はいた。凄絶な戦闘を物語るように、あるいは何かを隠すかのように、父の顔は赤に染まっていた。立っているのはルディと、目の前にいる男だけだ。
「パパ」
「死化粧、確かに前例のない強敵だった。こちらも惜しい駒を失ったよ。だが、これでジグールも終わりだ。なあ、ディートリヒの倅よ」
「お前が殺したのか」
傲岸な笑みのほかに答えはない。その頬には、穴が開いていた。銃弾でえぐられたのだろう。僕は小銃を構え、背を向けるその男に狙いを定める。引き金には、既に力が込められていた。
足元の発煙手榴弾は、男の姿を完全に隠した。乱射するも、手ごたえはない。しかしルディの右頬には、ひとつの切り傷が刻まれた。それは敵の挑発だろうか。だとしても、今のルディには踏み出すだけの力がなかった。踏み出すこと自体に恐れはなかっただろう。彼が恐れたのは、自分が死んで母をひとりにすることだった。敵は強い。復讐を果たすのは、自分なのだ。そう固く誓った。
敵が去ってゆく。ジグロは、勝利をおさめたのだ。だが鬨の声は上がらない。頭目を、失ったからだ。すすり泣く子供と、膝をつく大人たちのうめきがただ街路に響くばかりだった。ルディは、すべきことをせねばならなかった。本来は父もするはずだった、そしてルディにとって最も苦しい作業を。
並べられた夥しい遺体を、ルディは茫然と見ていた。ケビンの厳命により、傭兵たちは住民を守ることを最優先とした。でなければ死なずに済んだ兵士も多いだろう。それは傭兵としてではなく、ジグロの民としての戦いだった。彼らは紛れもなく、勇敢なジグロの戦士だった。
であれば、自分にできることはひとつしかない。ルディは腰につけた箱から道具を取り出した。その深紅の筆は、積み上げられた死に喜んでいるようでもあった。
ひとりひとり声をかけ、表情を作っていく。彼らの笑みが偽りのままなのか、本当のものになるのかは、自分たちの戦いにかかっている。ジグロを守り通すことだけが、非業の魂にかけられるただひとつの慰めなのだ。
そうして、遺体はただひとつ残された。ルディが父に対して筆を取ると、同様に化粧をしていた母がその手を止めた。
「その必要はないわ」
「ママ、なんで」
「パパには、もうしてあるから」
ルディにはその意味が分からない。だが母はあくまでも毅然として背を向ける。見ると父の顔は、塗料の原色で鮮やかに彩られていた。
「さあ、これで終わり。復旧作業とシミュレーション、夜は長いわよ」
僕に明るい色を見せる母の顔は、しかし隠し切れない暗さを含んでいた。
以後、ルディは巨人のほかに白兵戦も修めることになった。砂漠との決戦で歩兵の数が足りないのだ。殺人狂マクシムは遊撃部隊として戦場を荒らしまわった。もとより一対一で彼に勝てる兵士はディートリヒ夫妻を除けばジグロにはいない。だからナタリーを常に自由にして、マクシムをケビンのいる中央に向けさせたのだ。むろんそれは、ライルやオリバと激戦を繰り広げるケビンにさらなる負担を強いることとなる。父はわかっていたのだろう。ここで自分が、死なねばならぬことを。だが、ライルは殺せなかった。最も重要な楔が、残ったままになっているのだ。だから母は、一時も気を休めることができないのだ。
そしてつかの間の平穏を迎え、傭兵たちは各々の生活へと戻っていく。ジグロだけではない。湖畔国家全体に、彼らの住まいはあるのだ。ゆえにここまで甚大な被害となると、また戦地に向かうことを拒む兵士もいるだろう。それに加えて、ケビンの戦死である。組織としては、ジグール傭兵はほとんど崩壊していた。ルディたちも、家に戻ることとなった。
帰ってきたのはふたりだけ。その扉を後ろ手に閉めて、母は膝から崩れ落ちた。それは母の、ジグール傭兵ナタリー・ディートリヒの誰にも見せない弱さだった。
「あなた、あなた」
耐えていたのだろう。愛する人を失うような作戦を取って、ようやくつかの間の勝利を得た。それは必要なことだったのだ。だが当然、ナタリーにとってケビンはただの隊長ではない。ルディには、かける言葉が見つからない。ただその消え入りそうな背中を、強く抱きしめる事しかできなかった。
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