SIDE-2 死化粧 後
「ルディさん。エイドが戻りました」
「ご苦労様。どうだった」
「はい。通信で申し上げた通り、砂漠はドミニコやセージリアに戦力を割いています。いずれも内戦を激化させる方向に動いていますが、政府軍も何とか抑えています。まだここに留まってくれるでしょう」
「ありがとう。すまないが、来月からもう一度頼む」
「はい」
敵地から戻った斥候をねぎらい、ルディは一息つく。順を追って進んでいく復興を見つめながら、考えることの多さに閉口していた。
父を失っても、彼に悲しんでいる余裕はない。新たなジグール傭兵のかたちを、作っていかねばならないからだ。ケビンとナタリーではなく、ルディとナタリー。若きルディは既に、格闘技術だけならケビンに引けを取らなかった。加えて必要とあらば巨人を動かすこともできる。ナタリーは何も言わないが、ケビンは子の背中を見て決断したのだろう。実際、ルディは才気あふれる働きぶりでどんな任務でもこなした。ジグロ反政府軍の会合を事前に察知し少ない兵力でそれを壊滅させたほか、砂漠との小競り合いでもオリバに瀕死の重傷を負わせるなど確かな実績を残した。団長はナタリーが継いだ。ケビンの仕事の補佐や相談相手などはもとより彼女の仕事だったため、団員もすぐになじむことができた。悲しむことに別れを告げ、傭兵たちは前に進もうとしていた。
それは乾季も終わりに差し掛かり、湖に厚い雲が浮かぶ日のことだった。ジグロの飾り屋根はこの季節の変わり目に手入れをすることになっている。乾季のひび割れにも大雨にも耐えるためには、補強が不可欠なのだ。
「おーいルディ、こっち手伝ってくれ」
「はい、ジョーンズさん。今行きます」
ルディ達は一軒一軒、検査と補修をして回っていた。元より貧しい国のこと、大雨に耐えられない家も多かった。
「いや、しかし助かるよ。傭兵さんたちが総出で手伝ってくれるなんて」
いえ。ルディは笑みを浮かべ、首を横に振る。
「戦うだけでは人は守れませんから」
ルディは人々とよく話をした。それは母からのものだ。ジグール傭兵は一般に傭兵と呼ばれるものとは本質的に異なる。その在り方は民兵に近く、人々とともにあらねばならない。この時のルディは、よく笑う青年だった。だがもう彼に幼さはない。不条理と向き合い、父との別れを超えたルディは、もはや一人前の男になっていた。
そうして一年の間、ジグロは平和だった。小競り合いもなく、砂漠も影を潜めている。だが傭兵たちは、その平和を一日でも長く続けるために奔走した。内紛の芽は未然に摘み取り、状勢の安定に努める。ナタリーは主に民の心に寄り添い、汚れ仕事はルディが行った。当初、母は逆にしようとしていた。ルディの人気は高く、危険に晒すことを民が許さないだろうと思ったからだ。それに自身も母として、すべきことだと信じていた。
だがルディの固い決意を前にして、誰も口出しできなくなった。もう大国キロムのスター選手などではなく、ひとりのジグロ国民なのだ。ルディはそう生きることを望んでいたし、少なくともこの時は、そう死ぬことを望んでいた。
そしてルディは十九歳の誕生日を迎える。それはジグール湖畔地方では、ひとりの人間として自立する年だ。鮮やかな背広を纏い祝福を浴びながらルディは、それらに何の感慨も抱けない自分を感じていた。
周囲の環境は、ルディが年齢的に庇護される側であった頃と大きな変化はなかった。爆発するための火種を作りたい砂漠に対して、慎重かつ丁寧にその芽を摘んでいく。火が付いた導火線は根元から切り取る。そうした地道な行動によってのみ、ジグロから戦争を遠ざけることができた。ルディは母を想うことで、この終わりのない駆け引きに身を投じた。
そして、ある雨の夜。警報は突然鳴り響いた。西部の都市アイヒに現れた砂漠は、猛然と白兵戦を挑んできた。その気配に、誰も気づかなかったのだ。
知らせはジグロ中を駆け巡り、正規兵と傭兵の区別なく必死で応戦の用意をした。敵の指揮官はライル。それを聞いたとき、ルディとナタリーは全身に力がこもる。父のために、ジグールのために、奴は殺さねばならない。
ようやく再建が進んだ街を容赦なく野砲が壊す。それを見て、傭兵たちの冷えた血は燃え上がった。がれきを利用して地の利を得つつ、少ない兵力で街を守る。ルディとナタリーは散発する戦闘に身を投じ、その都度砂漠の強兵を退けた。だが、目的がわからない。街の破壊が今更彼らに戦略的利益をもたらすことはルディの目から見ても考えにくく、どうも戦いづらさを感じていた。
その時、ナタリーから通信が入る。
――一時後退。敵の出方をうかがう。それからルディ、話があるから拠点まで来て。
「オーケー、ママ」
そう答えながらも、どこか違和感を感じていた。この戦闘の進む場所は、どこなのだろうか。もちろん砂漠の方は、一方が滅びるような戦いを望まない。彼らは勝つために戦っているわけではないからだ。そして、ナタリーはその意図を感じ取ったのだろう。だからいたずらな消耗戦を避けた。
拠点の小さな部屋で、母と子は向き合っていた。
「どうしたの、ママ。こんなところで」
「やっぱり、話すわ。死化粧のもつ力を」
ルディはあっけにとられながら、それを聞いていた。
「死化粧師は人の死を司る。死を彩り生者に勇気を与える。でも、その代償として内側に黒いものを溜めるの。それは死者の無念。強き心の持ち主でなければ、耐えきれず壊れてしまう。でも、それだけじゃないの。それは強い力を持つ」
それは彼らの師であった巫師、アドルフ・アルブレヒトが遺した言葉だった。死を力に変えることで、その命に意味を見出す。兵士にとってそれは、時によりどころともなるだろう。
そしてナタリーは筆を自らの顔に向ける。
「ママ、何してるの」
戸惑うルディに構わず、筆を肌に当てた。刻まれた赤の軌跡は涙のようであり、怒りのようにも見えた。そうして細い線が絡み合いひとつの表情が生み出されたとき、ルディは強い圧を感じ一歩後ずさった。あの日見たものと、同じだ。
「そ、それは」
「これが死化粧。兵士の運命を彩る、赤い呪い。私があなたに、最後に伝えることよ」
ナタリーは息子の手を取り、人差し指をパレットに浸す。それを筆代わりにして、自らの頬をやさしくなぞった。涙腺、瞼、鼻梁、そして唇。順になぞりながら、ルディは母の異変に気が付いていた。輪郭がぼやけ、この世界とは違う場所にあるような不思議な感覚。そしてそれは、続く母の言葉で現実へと変わった。
「ルディ、愛してる」
強く毅然たるその言葉を、子はどのように受けただろうか。もはや、すべてを理解するに十分だった。
「俺もだよ、ママ。行こう」
その時、ルディの目の前に銃口が向けられた。瞬きはしていない。それなのに、彼は自らの母がどう動いたのかさえ分からなかった。
「あなたは残るの。ここで指揮を取りなさい」
彼女は、既に死を賭している。その悲痛な覚を前にして、ルディは頷くことしかできない。外に出ると、勢いを増す雨に打たれた母は妖しくも美しく夜道を彩る。その頬の鮮やかな赤は、濡れても落ちることはなかった。
「ルディ、元気でね」
その柔らかな声は雨に反響し、この世のものでないかのようなぼやけた音となった。
そして、鳴り響く砲声がばたりと止んだ。そして銃撃は街の中心だけに集約していった。そして、ひとつの悪寒がルディの頬を伝った。それは、あのナグの決戦と同じ。であればこそ、ルディは後悔をしたくなかった。
「エイド、俺は出る。指揮を任せる」
「ですが、ナタリー団長が誰も近づけるなと」
ママを死なせない。彼の振り絞るような低い声は、力んで震えていた。
薄明りに照らされた一番通りには、ふたつの躍動する影があった。一方はジグール傭兵団団長、ナタリー・ディートリヒ。もう一方は砂漠の実働部隊を統べる男、アレクサンダー・ライル。共に拳銃と、ナイフ一本での決闘だった。
その攻防は苛烈を極めていた。発射地点にもう人はなく、静止した瞬間を狙い撃つ。近づけばナイフで間合いを取るか、あるいは切り込んでいく。ナタリーの戦い方は攻撃的で、命が交差する場所で確実に目的を遂げようとする。ましてや、相手はケビンを殺した男である。その攻めには身を投げ出すような危うさがあった。
「ママ」
声を出した途端、足元に銃弾が突き刺さる。邪魔をするなと、砂漠は言っているのだ。
「小僧、そこで見ていろ。ジグールの終わりを」
そう言って、ライルは三発放つ。相手が回避行動をするのを見て、遮蔽物に転がり込みながらリロードをした。だが、それは身を隠すことを意味しない。すぐさま飛び出し、ナタリーとの距離を取り直した。しかし、ナタリーの攻撃はそれを上回る精度で繰り出される。身のこなしは人間業ではなく、静止するタイミングを作らず立ち回り続けていた。この一騎打ちを望んだのがどちらであるかは、ルディには明らかだった。砂漠と真っ向からぶつかり合えば、兵の量も質も足りない。では、互いの指揮官だけならばどうか。加えて、こちらは命まで切っているのだ。
その決意の固さは、ルディに引き金を引かせなかった。
「私ふぜい、圧倒できぬのか。死化粧。貴君に宿る死は、前任よりも強かろうに」
「言っていればいい。私は湖畔国家全てのために、あなたを殺す」
「その曇った目で、私が見えるかな」
ライルは一歩下がり、その銃口で捉えようとする。きっと突き合せれば、彼女は撃つだろう。死兵と戦うことは困難を極めることを、彼はケビンとの戦いで知っていた。
だが、それでもライルは受け続ける。彼はここに、どのような価値を見出すのだろうか。あるいはそれは、砂漠にとってどのような意味を持つのだろうか。そう自問するほどに、ルディの中にある感情が湧いてくる。それはここに来る前にした決意と同じものだった。
そのような者のために、母を死なせてはならない。ルディは動き出した。自分に向かって降りかかる銃弾を躱し、街路に踏み入る。
「やはり来たか。応戦しろ」
ライルのその言葉と共に、砂漠の兵士が現れる。
「お坊ちゃん。ここは通さねえぜ」
「正々堂々ってやつだ。あのアレックスが応じてくれただけ感謝しな」
だがルディにしてみれば、それはただの障害物に過ぎない。ウィークポイントはすぐに目視できるため、一発二発と撃つだけだった。
「そこをどけ」
踏み出す残り足の隙を消すのは、特別な鍛錬が必要だ。そこを怠ってしまえば、一対一の白兵戦はできない。ルディはこれをキロムで教わり、死に物狂いで自分のスタイルに昇華してきた。つまりは、土台が違うのだ。
足の骨を撃たれれば、運動能力は目に見えて低下する。これで格闘など、できるはずもない。
だが、砂漠の兵士は食い下がっている。彼らに、自分の前に立つだけのものがあるのだろうか。彼らは、各々のために戦っている。実力のある集団であればこそ、雇い主は多くの報酬を与えるだろう。だが、仮にその依頼がジグール傭兵団の壊滅であれば、ナタリーを殺す機会はあったはずだ。今でも、欺くことなく挑戦を受けている。身体を突き動かす衝動の中でも、ルディの中の冷静な部分が思案していた。
そしてルディが撃ったのを皮切りに、徐々に戦端が開かれ始めた。ジグロの傭兵は外敵を追い払おうと息巻き、砂漠もまた燻らせた戦意を爆発させる。壮絶な市街戦は、思わぬ形で再燃した。
そしてルディには、さらなる数の精鋭が襲い掛かる。数の有利を取られては、さすがに狙いを絞ることができない。その首筋を銃弾が撫でたとき、ルディは腹を括った。今も母は敵の指揮官を圧倒している。であれば、信じよう。母は負けない。
だが、形勢は何十分も膠着した。雨は兵士たちの頭を冷やし、あるいは出血した体を蝕んでいく。ここまでこればもはや、故郷を守るという使命感だけではない。ただ目の前の敵に対する殺意が、割れたガラスのように通りに散らばっていた。
ナタリーの銃弾が、ついにライルを捉えた。偏差で心臓を狙った二発が、下腹に突き刺さる。苦悶の表情を浮かべながらも、ライルは立っていた。だが体勢を立て直す前に、銃口が向けられる。ナタリーはその一瞬を、怒りの開放に使いたかった。そこに兵士としての、彼女の弱さがあった。
「さようなら、砂漠の傭兵」
一発の銃弾が虚空より飛来し、ナタリーの胸に突き刺さる。それを見たとき、ルディは既に走り出していた。追う敵はいない。全て、無力化してある。
まずは一発牽制し、そのまま崩れ落ちるナタリーの背中を支える。それはもはや生者のものとは思えぬほどに冷たかった。
「ママ」
「ル、ディ……、ごめん、ね……」
ルディは通信を開き、張り裂けるほどの声を出した。
「総員、砂漠を叩く」
その叫びをかき消したのは、雨ではなくライルの声だった。
「頃合いだ。退くぞ」
その声を皮切りに、砂漠は潮のように引いていく。ライルは夥しい出血の中、機敏に装甲車に乗り込んだ。傭兵たちは必死に追撃をした。だがアイヒの市街を出ればそこには見渡す限りの荒野が広がる。そこは砂漠の土俵だ。もう、そこで戦えるほどの気力と体力は、誰にも残っていなかった。ただひとり、ルディを除いて。
「なぜ、なぜ追わない」
「ルディさん。気持ちはわかるが、消耗が激しすぎる。追撃戦は無理だ」
「では、俺ひとりでもやってみせる」
それを、ようやく追いついたエイドは止めなければならなかった。あの狡猾なライルは、必ずルディが出るのを狙っている。
「だめです。今行けば、あなたまで失うことになる。それでは、本当に終わりです」
掴まれた腕を振りほどいたルディは、その場に崩れ落ちた。兵たちが重い足取りで拠点に戻っても、ルディはしばらく雨に打たれていた。
ナタリー・ディートリヒはついに目を覚まさず、その翌日に死んだ。失血死は免れたが、それでも出血と雨による衰弱で体力は限界に達したのだろう。ルディはもう、涙を流さなかった。これからは、自分が団長になる。湖に近づく敵を全て撥ね返さねばならない。砂漠を、滅ぼさねばならない。もはや彼には、それしかなかった。
そして、ルディの戦いが始まった。相変らずミッドランドの情勢は悪く、任務には困らない。だがルディは情報収集に努め、細心の注意を払い任務を選んだ。時には砂漠との争いを避け、時には猛然と挑んだ。ライルこそ出てこないものの、ルディを最前線に置くジグール傭兵団は砂漠相手に幾度となく任務を完遂した。だが隣国のドミニコなど避けられぬ場所では、手痛い敗北を喫することも多かった。
その紙一重の攻防の中で、ルディは嫌な変化を感じ取っていた。偵察でジェラール領内に入った兵が未帰還となる事が増えた。まだ任務自体は遂行できているものの、それすらきな臭さを感じざるを得ない。加えてルディが危惧するのは、これ以上兵を失えば斥候に志願する者がいなくなり情報戦に後れを取るということだ。砂漠の結束は固く、内部に潜り込ませることは難しい。
そして、変化はもうひとつあった。砂漠が野砲を使うのは以前からだが、技量不足なのか威嚇や建物への射撃しかしてこなかった。しかし、ある時を境にその命中精度が明らかに向上したのだ。動力部に命中したただの一発で巨人が爆散するのは、ミッドランドの常識に照らし合わせても異常であった。本来、巨人の動力装置は厳重に装甲に守られている。無論それにも切れ目はあるが、それも数センチ程度のほとんど論ずるに値しない程度の隙のはずだった。巨人は頑丈であるという認識が揺らぐことは、兵士の心理に与える影響は大きい。少しずつ、ジグール側の手札が少なくなっていった。ルディも当初は部下の死に悲しんでいたが、徐々に余裕を失っていた。ルディ自身は非情を演じることも増えていたが、それが表面だけでなくなることは必然だったのかもしれない。傭兵たちを引っ張ってきた男は、少しずつ変わっていった。
そしてもう一度年をまたぐ頃、ジグール湖に久方ぶりの斥候が返ってきた。それは未帰還が続く中で決死の思いで送り込まれたものだ。
「エイド、どうだ」
彼は震えていた。それを口にすることを恐れるように、拳に力を込めた。
「砂漠が、明日、攻撃を企画しています」
「あ、明日」
それは、早すぎる。いまから兵士を集めるのは困難であり、不十分な戦力で応ずるほかない。ルディはこの原因が何かわかっていた。砂漠が軍事力だけでない強力な組織になり始めている。マクシムを失っても、それを穴埋めするだけの個の力を得ていた。
「わかった。全員に召集をかけろ。ここは絶対に、落とされてはならない」
「あの、オランドとトマスのことは」
「大事なのは今生きている人間だ。彼らのことを考えている時間はない。今一度、斥候を頼めるか」
ルディは彼の目でなく、先を見ていた。エイドがそれに気が付いたとき、彼の中にある最後の砦が崩れたのだろう。
「はい」
彼はそれだけを口にし、ルディのもとを去った。エイドは知っていた。自分が砂漠に泳がされている。そして、今のルディは偵察に行かないことを許しはしない。だから、彼には、選択肢がなかったのだ。南東部のドミニコ国境からジェラール砂漠に入るエイドは、一度たりとも故郷を振り返らなかった。
その日から、ジグールは情報戦において後れを取り始めた。兵士の減少に、歯止めが効かなくなっているのだ。であればこそ、ルディは籠城を決めた。ドミニコより西への干渉を一切やめ、国土を守ることだけに集中することにした。無論、傭兵としての収入は減る。だがこれ以上仲間を失うわけにはいかなかった。
ルディが作戦でまず第一にすることは、最前線に立つことだ。もちろん指揮に徹し、敵に対して傭兵団全体でうまく立ち回ることができれば問題はない。しかし、高い統率を持つ砂漠に対しそれも望めないのが実情だった。強いものが堤となって立ちふさがらねば、兵たちは波のようにジグロを襲うだろう。ルディは二挺の小銃を構えて、ジグロ国境に血の雨を降らせた。引き金を引くものを全て撃てば、数で劣っていようが関係がない。精鋭の砲兵部隊には彼一流の嗅覚で的を絞らせず、こちらの狙撃ポイントに誘導して仕留める。見えない敵に対しても、互いの連携を確かに保ち居場所を推定することで何とか対応した。
その甲斐あって、ジグロを狙う砂漠をジグールは幾度も返り討ちにした。そのたびに失っていく仲間に、ルディは死化粧を施す。その筆に心がなかったとは、誰も思わない。だがたしかに、ジグールの傭兵たちはルディの変化に気が付いていた。話し方もやわらかさが減り、敵以外に声を荒げることはないものの怒気を孕むことも増えた。それにルディは気付かない。気付かないからこそ、彼は砂漠への憎しみで傭兵たちをまとめ上げたのだろう。
この日もジェラールの後ろ盾を持つ砂漠は、ジグロ国境で熾烈な争いを繰り広げていた。ルディがまず感じた違和感は、編成の変化だった。一見して歩兵が少なく、砲兵が多い。作戦を変えてきたのだろう。彼はそう思い、兵に指示を出して前に出る。砲兵に肉薄することが、この日の戦い方だと断定したのだ。
「用意はできているな」
「はい、団長。右翼は任せてください」
「二番隊も大丈夫です」
「よし、かかれ」
今までの守備的な戦い方から一転して、ジグールは猛然と攻めた。いかに精度が高くとも遮蔽物には無力であり、射角の制限もある。配置を予想して、ほとんどの戦力を前に出す形となった。この決定は、以前であればありえない。彼の中にある焦りがそうさせたのだ。
だが、異変はすぐに起こった。砲の死角を陣取っているはずの兵士たちが、次々と撃たれ始めたのだ。単独の遊撃兵により、戦場をかき回されている。ルディはその気配を察し、迎撃を命じた。すればいくらか発見もでき、徐々にジグールに傾き始めた。
だが砲兵たちの射程に収まったルディ達は、そこで死の雨を浴びた。友軍が次々と心臓を穿たれ、ついにジグールは砲兵部隊を突き崩すことができなかった。ルディが撤退を命じようと周囲を見たとき、彼は言葉を失った。背後を、取られている。そこには砂漠の精鋭、利に聡い蠍の姿もあった。
「残念だったなあ、ジグール」
「オリバ、どこまでも姑息な男だ」
「勝った方が偉えんだよ。それに、作戦はガキに任せてある。負けたのはお前だ、死ねよ」
畜生。ルディは歯を食いしばり、それだけを口にした。
目を覆いたくなるような惨状の中で、ルディは懸命に戦った。味方を狙う銃を発射前に弾く。まさに獅子奮迅、砂漠はルディひとりのために殲滅戦をすることができなかった。
だが、それは劣勢が覆ることを意味しない。ひとり、またひとりと仲間が消え、ジグールは戦線を構築することができなくなる。
撤退。かすれた声で、ルディはそれを叫んだ。ああ、自分はまた仲間を守れなかった。殿は自分がする。そう腹に決め、敵の前に立つ。だが、砂漠はもう自分を攻撃しようとはしなかった。
去っていく傭兵たちを、ルディはただ見ていた。自分からすべてを奪った、今すぐにでも殺すべき敵を、である。
すると、ふたりが振り向いた。小柄で濃い褐色の肌の少年と、背の高い、石膏像のような美しさを持つ少女。驚いたのはその幼さではない。むしろその年齢を感じさせない、迷いのない瞳にだっただろう。ルディは受け入れざるを得なかった。自分が、弱かったのだ。
君たち。その言葉が、意思に反して口を突いていた。
「君たちが、これからの砂漠なのか」
ふたりは投げかけた問いに対して戸惑うこともせず、互いの目を見た。そして、少女の方が口にした。
「そうよ。私も彼も、行き場のない兵士。あの人は私たちを導いてくれる」
「あの人とは、ライルのことか」
「いいえ。アレックスは砂漠を去った。彼は優秀な軍人であるだけ。その先のことは、考えない人よ。あの人は、そんな兵士たちの楽園を築くの」
ルディは両の手を握り締める。そこには強い怒りが込められていた。
「楽園、か。俺から何もかもを奪ったものが、言ってくれる」
そうね。少女は湿り気を帯びた唇をそっと開いた。
「あなたも、戦いから逃れられない。であれば、ルドルフ・ディートリヒ。私たちは、あなたの戦いを支えるわ」
「レナ、行くぞ」
「ええ、ウィシー」
それは身勝手な論理だ。ルディの戦いは目的ではない。加えて、両親を奪った敵なのだ。
そしてふたりはジェラールの荒野に消えていく。ルディはその心に、粘度の高い黒い靄のようなものがまとわりついていく感触を覚えた。胸をかきむしりたくなるような圧迫感と閉塞感。心が自分のものでないかのように冷淡になってゆく。
ああ、自分は死んでいたのだ。そう思った。守るべき国は、守るべき人は、どこにある。ルディには、何も見えなかった。
二年が過ぎた。ジェラール共和国は民主国と名を変えた。その実態は民主とは名ばかりの軍事政権であり、ミッドランドに侵略の旗を掲げた。小さな領土に築かれた兵器の貯水池は、ある時突然決壊したのだ。そしてドミニコを滅ぼし、ジグロは併合された。その水際にあって、抵抗する者の中にあの男の姿はなかった。
そこからさらに二年の停滞を経る。次に戦端を開いた時には周辺国に戦意はなく、次々に降伏を決定した。その後も、ジェラールは侵略の手をやめない。セージリア、バルドゥ、ついには最強の騎士団を擁したエハンスまでも滅ぼしてみせた。
均衡が保たれていたミッドランドの国々は、ひとつの侵略者によって完全に統一された。そこに異を唱えるものは無く、ジェラール砂漠は束の間の平和を見た。
傭兵たちの行方を、誰も知らない。
鉄の証 北家 @AnabelNorth
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