第36話 ノイスバイン帝国6

 国境から離れた街道には夥しい数の人間が倒れていた。

 気が付いた者たちが辺りを見渡し呆然と立ち尽くしている。整然と並んでいた天幕の姿は何処にもない。視界に映るのは瓦礫の山と、泥にまみれた大勢の兵士だ。

 時間が経つにつれて兵士が次々と起き上がってくる。どうやら命に別状はないらしいが、皆が一様に何が起きたのか理解できずにいた。

 一部の兵士たちは先程の有り得ない出来事を思い出し、恐怖で顔を引き攣らせながら我先にと逃げ出している。

 もともと半数近くが無理やり徴兵された民間人、逃げ出すのも仕方のないことだった。

 その中から一際大きい声が聞こえる。誰かを必死に捜す声、その声は周囲の兵士に広がり更に大きな合唱となって響き渡った。


「陛下! 何処におられますか!」

「陛下! ご無事ですか! 返事をしてください!」


 近衛騎士団の叫びに呼応して、呆然と立ち尽くしていた皇帝は我に返る。自分の体に視線を落とすと、衣服や鎧は泥で汚れ、一見すると誰か分からない有様だ。

 騎士たちが必死に叫び、自分を探していることに気付くと声を張り上げた。


「私はここだ! ここにいるぞ!」


 皇帝の声を聞いた近くの近衛騎士が数人駆け寄り、主の姿を確認すると、ほっと胸を撫で下ろして即座に跪いた。


「陛下お怪我はございませんか?」

「私は大丈夫だ。それよりもどうなっている? なぜ私は生きているのだ?」


 オヴェールは自分の手を不思議そうに見つめた。

 泥で汚れているが体に痛みは無い。水に飲み込まれた時、確かに死を覚悟したはずが、なぜ生きているのか不思議でならなかった。


「我々は何も……。水に飲み込まれてからの記憶が曖昧で……」


 何が起こっているかなど騎士たちには分かりようもない。

 術者が兵士を殺さないよう、水流を操作しているとは考えにも及ばないからだ。自分がなぜ生きているのかさえ分からないのに、他人が生きている理由など知る由もなかった。

 気が付けば辺りは別世界だ。周囲の風景がまるで違い、明らかに10キロ以上は流されている。しかも、有り得ないことに騎士が見てきた兵士たちは全員生きていた。兵士だけではない、馬でさえも生きているのだ。

 現実では起こり得ないことが立て続けに起きて、何が起きているのか聞きたいのは騎士たちも同じであった。

 オヴェールもまた、騎士たちの様子を見て分かる訳もないかと表情に影を落とす。

 手掛かりがあるとすれば、神核魔法と呟いていたセルゲイだけが頼りの綱だ。

 そう考えふと思う。近くに居たはずのセルゲイはどうしたのだろうか、国境に向かったライセルとゼファインは無事なのかと。


「――やはり分からぬか。私の側にはヴェルニュー侯と宮廷魔術師のセルゲイも居たはず。それに近衛騎士団長のホフマンはどうした? 国境に向かったライセル侯とゼファイン侯は?」

「ライセル侯爵とゼファイン侯爵は未だ発見されておりません。他の方々は少し離れた場所で陛下を探しております」

「……そうか、皆を集めてくれるか? 何が起こったのか確かめる必要がある。それと今後の話もな――」

「畏まりました」


 騎士の一人は立ち上がり深く一礼すると、踵を返し群衆の中に消えていった。

 周囲には立ち尽くす兵士が数多くいるが、もはや目は虚ろで心ここに非ずだ。明らかに戦う気力が削がれていた。

 当のオヴェールでさえ戦争をする気になれないのだ。無理やり徴兵された兵士に戦う気力があろうはずがなかった。

 仮に戦争を続けても、全軍を飲み込む魔法の前では全てが無力で、それに向かって行くのは自殺を計る行為と同じである。

 オヴェールは自国の未来をうれいて悲しみで胸を痛めるが、感傷に浸る時間は与えられなかった。

 背後から聞こえた声に反応してオヴェールは振り返る。


「陛下、ご無事でしたか」


 泥だらけのヴェルニューが複雑な表情で佇んでいた。


「ヴェルニュー侯、貴殿も無事でなによりだ」

「陛下、お側にいながらお守りできず申し訳ございません」

「気にすることはない。あれから守るなど誰であっても不可能だ」

「ですが……」

「よいのだ。あれはどうにもならん。それより今後のことを考えなくてはな」

「……はい。先ずは近くの川で汚れを落としましょう。このままでは感染症の恐れもあります」

「ここが何処か分かるのか?」

「土地勘のある者に聞きましたところ。国境から北に20キロ離れた場所のようです。近くの川まで2キロ程ございますが、馬も無事ですので直ぐに向かうことが出来ます」

「そんなに流されたのか?」


 オヴェールはがっくり項垂れ、泥濘ぬかるんだ地面に視線を落とした。この国を救うための戦争が、どうしてこうなったのか思い悩む。 


(たった一つの魔法でこれほど流されるとは……。我々は一体何を相手にしているのだ。なぜ我が国ばかりに不幸が訪れる? 長年に渡る天候不順による不作。飢えを凌ぐため戦争を仕掛ければ、得体の分からぬ力に軍は壊滅状態。私は自国の民さえ救えないのか? 頼む。これが夢なら早く覚めてくれ……)


 どれだけ思いつめていたのだろう。オヴェールは繰り返し呼ぶ声にようやく気が付く。


「陛下! 陛下!」


 顔を上げると、そこには心配そうに声を掛けるホフマンの姿があった。他にもヴェルニューとセルゲイが、少し離れて様子を窺っていた。

 

「ホフマンか、無事でなによりだ」

「ありがたきお言葉。陛下もよくぞご無事で……」


 ホフマンは涙で声を詰まらせる。主君を守れなかったことへの憤りや悔しさ、情けなさ、込み上げてくる様々な感情が涙という形で溢れ出た。

 オヴェールもまたホフマンやセルゲイの無事を喜んだ。だが時間は待ってはくれない。やるべき事をやらなくてはならなかった。


「話は後にしよう。護衛と馬の準備を、近くの川で汚れを落とす。それと各軍の軍団長や部隊長を探して兵をまとめよ。無事な食料を見つけ次第、近くの川で汚れを落とし、兵に食事を取らせるのだ」

「陛下、もう陽も傾き始めています。夜は大変危険です。馬を持たない兵の移動は、明日にした方がよろしいのではないでしょうか?」

「そうだな、ヴェルニュー侯の意見を採用しよう。兵士の命には変えられん。今日の夜は食事を我慢してもらおう」

「よろしいかと存じます。それとライセル侯とゼファイン侯は何らかの情報を持っているはず。今のところ亡くなった兵士は見つかっておりません。お二人もきっと死んではいないでしょう。見つけ次第、必ず陛下の後を追わせます」

「落ち合う場所が必要になるな。この近くに街はないか?」

「北に5キロ向かった場所に街があるようです」

「ではその街で落ち合うことにしよう」


 程なくしてオヴェールとヴェルニューの話は纏まり、聞き耳を立てていたホフマンも動き出す。


「私は他の騎士たちにこのことを伝え、直ぐに馬の用意をいたします」


 ホフマンの行動は早かった。近衛騎士団にオヴェールの言葉を伝えると、護衛として同行する騎士を選抜して、即座に人数分の馬を確保した。

 準備が整うと、オヴェールは直ぐに川へ赴き汚れを落とす。

 効率を考えれば、直に街へ行き汚れを落とした方が早いように見えるが、皇帝の同行者ともなると大所帯だ。それだけの人間が泥まみれで街に入るのは、皇帝の威厳にも関わる。

 何より街で汚れが落とせると言っても、井戸の数は限られていた。川で汚れを落とした方がずっと早い。川の中に入るだけで、後は川の流れが汚れを洗い流してくれるからだ。

 それでも全員が汚れを落とす頃には、既に陽は落ちかけようとしていた。

 夜は魔物が活発になり、一般的に街の外を出歩くのは危険とされている。誰もが馬を早める中、遠くに街を囲む塀が見えた。

 大きな街ではないが、街を囲む塀は頑丈な石造りで高さもある。それだけで、この世界の魔物が如何に恐れられているのか窺えた。

 予め先行した騎士が話をつけているため、門の前には出迎えの衛兵が整列し、深く頭を下げて皇帝が通り過ぎるのを待っていた。

 衛兵は頭を下げながらも、何事かと横目で様子を窺っている。比較的国境に近い街とは言え、皇帝が来るような大きな街ではないからだ。

 街の中でも自ずと注目が集まる。翌朝には戦争だというのに、どうして皇帝がこんな小さな街にいるのかと、大勢の街の人間が、オヴェールとその一行を不安な眼差しで見つめていた。

 街で一番大きな宿の前で行列は止まる。大きいと言っても王侯貴族が泊まる豪華な宿ではなく、主に行商人や旅人、冒険者の類いが利用する大衆宿だ。

 オヴェールは宿の中に招かれると、一番広い部屋に同行者を呼び集めた。

 宿は貸し切りで一般の客は入れず、部屋の前には護衛も立たせてある。部外者に話が漏れないよう、近衛騎士団長のホフマンが細心の注意を払っていた。

 長テーブルの上座にオヴェールが腰を落とし、そして深い溜息を漏らす。

 もう戦争どころの話ではない。食糧難にドレイク王国への対応、国境に現れた者たちへの対策、悩みは増えていく一方であった。

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