第35話 ノイスバイン帝国5

「あれも殺しては駄目なんて……」


 ジュンは冷ややかな目でライセルを見つめ小さく呟いた。

 今のジュンには目の前の人間が虫けらのように映っている。益虫ならまだよいが、こともあろうか竜王を罵る害虫だ。


(殺したい……)


 湧き上がる殺意を必死に押さえていた。

 竜王の命令は絶対。殺すなと言われている以上殺すわけには行かない。遠くにはおびただしい数の天幕が見える。あんな奴が大勢いるかと思うと吐き気がした。

 ジュンはそっと頭上に手を掲げた。その仕草にノーヴェは一言だけ告げる「殺すなよ」と。

 冷静に見えるノーヴェも内心では怒り心頭だ。

 殺すなと言われているから何もしないが、もしこの場で暴れられたら、どれだけすっきりすることか。それはエイプリルも同じである。

 比較的、人間が好きなエイプリルだが、竜王を罵る存在が目の前にいるのは許せなかった。

 だから何も言わない。ジュンが何をしようとしているのか知っていても……。

 遥か上空、数キロメートルの彼方では異変が起こりつつあった。空中から水が湧き出し、水球が物凄い勢いで大きさを増している。

 ライセルとその護衛は、周囲が暗くなり初めて上空を見上げて異変に気付く。其処には巨大な水球が浮かび、太陽の光を遮っていた。しかも、その大きさはとどまる事を知らない。まだ大きさを増していた。

 ライセルの感が警鐘を鳴らす。

 身の危険を感じて咄嗟に叫んでいた。


「あの女だ! 殺せ!」


 声と同時に魔術師たちは、自分が最も得意とする魔法を即座に放つ。同行していた魔術師全てがジュンに狙いを定めていた。


「[炎の矢フレイムアロー]」

「[稲妻ライトニング]」

「[風の刃ウィンドブレード]」

「[氷の針アイスニードル]」

「[石の礫ストーンショット]」


 炎の矢が飛び、稲妻が突き抜け、風の刃が切りつける。鋭い氷の塊が飛び、石の礫がジュンを襲う。

 しかし、そのどれもが届かない。ジュンは上空に手を翳したまま、冷ややかに見ているだけだ。


「巫山戯るな! 魔法は当たったはずだ!」

「なぜ魔法が効かない!」

「化け物め!」


 魔術師は狂ったように叫び恐怖する。そんな中、無感情な声が聞こえてきた。


「安心なさい。誰も殺しはしませんわ。本来であれば飲み込むと同時に水刃でバラバラにするのだけれど……。今は優しく押し流してあげる。遥か彼方まで……。[津波タイダルウェーブ]」


 時間にして僅か10秒。

 上空に漂う水球の直径は5キロメートルを超えていた。巨大な水の塊は、ジュンの言葉で地上に落ち、大地を優しく包み込む。

 一瞬であった。

 膨大な水のうねりが全てを飲み込んでいた。ライセルは勿論のこと、ドラゴンや魔法を使用したジュン本人でさえも水に飲まれて姿を消した。

 膨大な水の圧力の前では人の力など高が知れている。水は意思があるかのように、凄まじい勢いで人間や馬を押し流していた。


「くそっ! こんな――」


 ライセルの悲痛な叫びは波に飲まれて消えた。

 水球は津波となり北に真っ直ぐ流れ出す。水が消えた丘の上には、再び三人とドラゴンの姿が現れていた。

 濡れている者は誰もいないが不思議ではなかった。水の制御はジュンの専売特許のため、身内が濡れていないのは当然のことだ。

 三人は丘の上で津波の行方を追う。加速する津波の動きに合わせて、視線は北にあるノイスバイン帝国の陣営に向けられていた。


 時を同じくして、ノイスバイン帝国の陣営では、多くの兵士が南の空を見上げていた。

 得体の知れない物体を呆然と見る者もいれば、恐怖で顔を歪める者もいる。戦った事の無い民兵の中には、我先にと逃げ出す者までいた。

 外の喧騒でオヴェールも直ぐに異変に気付く。慌てて外に出て見れば、多くの兵士が阿呆のように口を開けながら天を見上げていた。

 釣られる様に見上げて同じく唖然となる。


「な、何だあれは?」

 

 皇帝の言葉に応える者は誰もいない。唯一、宮廷魔術師のセルゲイだけが、上空の水の塊を見て呟いていた。

 

「馬鹿な……。神核魔法だと?」


 微かに聞こえた言葉にオヴェールが反応する。この状況は普通ではない。早く教えろと声を荒げた。


「神核魔法とは何だ! どうすればいい!!」


 皇帝の言葉ですら今のセルゲイには届かない。

 絶望で膝から地面に崩れ落ち、焦点の合わない瞳が左右に揺れ動いた。セルゲイは文献で読んだ光景を思い出す。

 上空に浮かぶ巨大な水の塊は、海神リヴァイアサンの放つ神の力に酷似していた。

 神核魔法と呼ばれる神々が操る魔法。それは人間には理解の及ばぬ神の成せる技だ。

 神核魔法の前では戦略魔法ですら子供の児戯に等しい。セルゲイはそれを知るが故に全てを諦めていた。

 誰もが何もできず、ただ巨大な水球が落下するのを眺めることしか出来なかった。

 水球が地上に落ちると同時に轟音が響き渡る。波は直ぐに押し寄せ、誰もが逃げることも防ぐこともできず押し流されていた。まるで意思があるかのように、水は一つの塊となってどこまでも流れた。

 波が去った後には、大勢いた人間も馬も天幕も何もない。そこにあるのはただの草原だけ、後には何も残されていなかった。




 国境の丘の上では、ジュンが流される人間たちを目で追っていた。程なくして視界から消えると晴れやかな気分になる。


「すっきりしたわね」


 遠くに見えていた夥しい数の天幕は、今では全て消えてなくなっている。言葉の通りすっきりしていた。

 エイプリルとノーヴェは頷き返す。

 これで当分戻ってくることはいないだろうと。少なくとも明日の開戦には絶対に間に合わない。時間稼ぎとしては上場だ。

 

「ジュン、確認しますが殺してませんよね?」

「ノーヴェは心配性ね。大丈夫よ。水を一つの塊りにしているから、飲み込んで窒息をすることはないわ。津波も動かしているのは外側の部分だけだし、内側には空気も十分取り込んでいるから呼吸はできるはずよ」

「なら大丈夫っすね。これからどうします?」

「このまま待機でしょうね」


 三人が話していると一人の竜人ドラゴニュートが飛んできた。それは見覚えのある竜人ドラゴニュートだが三人とも思い出せない。

 よほど慌てて来たのだろう。肩で大きく息をしている。


「皆様、どうしてこのような場所に。それに先程の魔法はいったい……」

「えっと……、誰っすか?」

「何となく見覚えはあるのだけれど……」

「私も記憶力はよい方ですが思い出せませんね」

「こ、これは申し遅れました。私はヒューリ陛下を護衛する、親衛隊長のマルスと申します。以後お見知りおきを」


 三人は「ああ」と声を出す。レンと初めて会った時、ヒューリの傍にいた竜人ドラゴニュートだ。

 国王の紹介はされたが護衛の紹介はされていないため、名前が分かるはずがなかった。


「ってことは国王も来てるんすかね?」

「陛下はまもなく到着されます。私は一足先に様子を見に来たのです。それで、これは一体……」


 マルスは遠くを見渡す。報告ではノイスバイン帝国の野営地が見えるはずだが、天幕は疎か兵士の姿も見当たらない。

 マルスが首を傾げるのを見てジュンが微笑む。


「ノイスバイン帝国にはお引き取り願ったわ。この戦争をレン様は望まれていません。貴方も兵士を引き連れて帰りなさい」

「えっ!? しかし……」

「私たちがここに待機しますわ。安心なさい」

「……分かりました。それでは天幕をご用意いたします」

「ええ、お願いしますね」

「私は一度陛下の元に戻ります。皆様もお気をつけて」


 マルスは一礼すると大空に消えていった。

 残された三人は退屈そうに遠くを見つめてそれぞれ思う。


(逆らう者を皆殺しにすればいいだけ。その気になれば世界すら容易く支配できるのに……)


 ジュンは逆らう者を全て殺せばいいのにと。


(力で支配しないのは明確な意図があるはず、レン様のお考えを理解しなくては……)


 ノーヴェはレンの考えを理解しなければと。


(レン様は優しすぎる。誰でも許して傍に近づけてしまう。もしもの時は私が……)


 エイプリルは静かに覚悟を決めていた。

 竜王の命を脅かす者がいたら迷わず殺すと。仮にそれがレンの怒りを買い、罰を受けようとも――。

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