第33話 ノイスバイン帝国3
「さて、ライセル候の作戦は一理あるとしてだ。ドレイク軍が必ずしも兵を伏せているとは限らない。これから前線に兵が集結することも視野に入れて、幾つか戦略を練る必要がある。皆の意見を求め――」
オヴェールが再び戦略を話し合おうと言うとき、突如として皇帝の言葉を外で騒ぐ兵士の喧騒が遮った。
「何だあれは!」
「馬鹿な!」
「何故こんなところに!」
「信じられん! 本物なのか!?」
声を聞く限りでは何かに驚いているようだが、何に驚いているのか肝心な言葉は聞こえてこない。
オヴェールが渋い顔で声の聞こえる天幕の人口に視線を向けると、一人の兵士が転がるように駆け込んできた。
オヴェールもよく見覚えのある初老の男は、
感情を表に出すことの少ない彼が、今は白髪交じりの髪を振り乱して酷く狼狽していた。
よほど急いで駆けつけたのだろう。ホフマンはオヴェールを見つけるなり、息も絶え絶えに声を上げた。
「へ、陛下!
事態を飲み込めずにオヴェールは首を傾げる。
(
天幕の中ではみな訝しげな表情を浮かべる。
「見間違いではないのか?」
オヴェールの言葉に他の貴族も頷く。
ホフマンも遠くから見ただけであったが、目は良い方だし、あれ程の巨体を見間違えるはずがなかった。何より目撃者はホフマンだけでなく、殆ど全ての兵士が
「見間違えなどではございません! 大勢の兵士が国境の丘に降り立つ
オヴェールは貴族たちと互に視線を交わし、最悪の状況を思い浮かべる。
「ドレイク王国は
オヴェールは俯き唇を噛み締めた。
焦りと不安でオヴェールの掌からじわりと汗が滲む。
(
ふと、そんな考えが脳裏を過ぎる。焦燥感に駆られて矢継ぎ早に口を開いた。
「誰か
問いかけるも返事は返ってこない。如何に
それでもゼファインには、
「陛下、ドレイク王国が
「それは本当かゼファイン侯!」
「遥か昔に聞いた話ですので、確証はございませんが……」
交渉が成された現実味が一気に帯びるが、
仮に
「ホフマン、他に情報はないのか?」
「私にはこれ以上のことは分かりかねます。もう暫くすれば、国境を監視する偵察部隊が情報を持ち返ると思うのですが……」
「それまで待つか。いや、近くまで行って確認できないか?」
「陛下が自ら赴くのは賛成できません。万が一のことがあってからでは遅いのですよ?」
「ホフマンの言う通りです。ご自重ください」
ホフマンの言葉をヴェルニューが後押しする。気性の荒い
同じく皇帝の身を案じたライセルとゼファインが、陛下が行くくらいなら自分がと名乗りを上げた。
「確認なら私が行きましょう。陛下はここでどっしり構えていればよいのです」
「ライセル侯だけでは心もとない。私も付いて行きましょう」
オヴェールは自らの目で確認をしたかったが、こうも周りから止められてはどうにもならない。しかも上位貴族の二人が代わりに確かめるとあっては、これ以上の我が儘を言うわけにもいかなかった。
「ではライセル侯、ゼファイン侯、頼まれてくれるか?」
「お任せ下さい陛下」
「私の知恵も少しは役に立つでしょう」
「そうか、では近衛騎士団から精鋭100人、宮廷魔術師から10人を選び護衛に付けよ。くれぐれも気をつけてくれ」
二人は黙って頷くと椅子から立ち上がり、オヴェールに深く一礼して天幕を後にした。
事態に備えてオヴェールはホフマンを椅子に促す。常に結果が最悪とは限らないが、対策は必要だ。
「ホフマンお前も席に着け。聞きたいこともある」
「はっ! では失礼いたします」
ホフマンが末席に腰を落とすと、ヴェルニューが重い口を開いた。
「陛下、如何いたしましょう。まさか
オヴェールは直ぐに言葉を返せなかった。
「ホフマン、近衛騎士団で
「陛下、
「ふむ、では質問を変えよう。どの程度の
「近衛騎士団であれば
オヴェールは渋い顔を見せる。
(魔法で地上に落とす必要があるのか……。それにしても
「誰かセルゲイを呼んで来てくれ」
外で従者が駆け出す足音が聞こえ、暫くすると一人の老人が天幕に足を踏み入れた。
老人の手には、ぐにゃりと拗くれた木の杖が握られ、全ての指には
老人の名はセルゲイ・ハワード。多くの宮廷魔術師を束ねる長であり、
年齢は既に90を超えているが、魔法は未だ衰えを知らず、ノイスバイン帝国にその人ありと言われる人物だ。
「陛下、この老い
「先ずは座ってくれ。お前なら何故呼ばれたのか聞くまでもないだろ?」
「やれやれ、
椅子に座ると当然のように
「単刀直入に聞こう。お前の使える魔法で、どの程度の
「陛下、
「いや初耳だ。そうなのか?」
オヴェールが知らないと言うと、セルゲイは天幕の人物を問うように見渡した。
首を縦に振るのは近衛騎士団のホフマンだけで、後方で待機している従者や、席に着いているベルニューも首を横に振る。
殆どの者が知らないことにセルゲイは眉をひそめた。
(よもやこの程度の知識もないとは……)
「先ずは
「……それは人数さえ揃えれば殺せるということか?」
「第4等級の攻撃魔法を使える者が1000人は必要かと。第5等級であれば200人。第6等級であれば30人で足りるでしょう」
オヴェールの表情が見る間に曇る。魔術師は2000人いるが、その中で第4等級の攻撃魔法を使える者は恐らく1000人程度だ。宮廷魔術師の中でも第5等級を扱えるのは一握り、片手に収まってしまう。等級が一つ上がるだけで、それほど魔法は覚えるのが困難になる。
上位の魔術師を全て投入してやっと倒せる相手。しかも攻撃を仕掛けてくるのが
話を聞いていた近衛騎士団のホフマンだけが、不思議そうに首を傾げていた。確かに
現にホフマンは先代国王の次代に、街道を塞いでいた
「お言葉ですがセルゲイ殿、
セルゲイはそんな事かと肩を竦める。
「認識がズレているのだ。お主が一般的に
「――そうなのですか?」
「成体の
ホフマンは記憶をたどり昔の事を思い浮かべる。
今とは違い髪はまだ茶色く、血気盛んな若造の頃だ。当時は酒場で酔い潰れる度に、体長15メートルの
忘れられない思い出の一つ。月日が経った今でも当時の事は鮮明に覚えている。
「確かにそこまで大きくはありませんでした」
「だから言うたであろう? 認識がズレていると。お主が
「間違えるのが当たり前のような言い方ですね」
ホフマンが苦笑いを浮かべると、セルゲイが話し出す。
「真の
ホフマンはセルゲイの説明で
遠目から見ただけで大きさは分からないが、セルゲイの話では、
オヴェールもそこに一筋の光明を見ている。
「セルゲイの説明は分かった。話を聞いた限りでは、目撃された
ヴェルニューは頷き返す。
「セルゲイ殿が言われる認識のズレを正すなら、陛下の仰る通り亜竜の可能性が高いと思われます。もし亜竜であるなら、大きく軍を再編せずとも、近衛騎士団と魔術師が100人も居れば、十分に事足りるのではないでしょうか?」
ホフマンも同意とばかりに頷いた。
「その時は私が近衛騎士団を率いて亜竜の討伐に当たります。ご安心ください陛下」
オヴェールは「うむ」と鷹揚に頷く。何とも頼もしい限りだ。
問題になるのは目撃された
全てを忘れて逃げ出したいが、国の状況を考えるとそうも言っていられない。
「では
オヴェールの視線はセルゲイを捉えていた。
「もし文献で伝わるような力を持つなら国が滅ぶでしょう。勝ち目などございません。即座に降伏することを進言いたします」
「……どうあっても勝てないと言うのか?」
「勝てませんな」
「セルゲイ殿! それを何とかするのが宮廷魔術師たる貴方の役目ではないか!」
ヴェルニューが叫ぶと同時に天幕に皇帝付きの従者が入ってきた。
「陛下、偵察部隊からご報告がございます。お通ししてもよろしいでしょうか?」
「直ぐに通せ」
誰もが
自ずと天幕の入口に視線が集中する。
天幕に入った偵察部隊の男は、向けられる視線と異様な雰囲気に固唾を呑む。緊張した足取りで皇帝の前で跪くと、見てきた全てをありのままに話した。
「申し上げます。丘に降り立りた
オヴェールがセルゲイに目を向ければ、諦めたように溜息を漏らしていた。
「セルゲイ、
「……恐らくは
次のセルゲイの言葉を聞くまでは。
「陛下、
オヴェールは瞳を見開いて絶句し、ヴェルニューが食ってかかる。
「魔術師が1000人も居れば勝てると言ったのはセルゲイ殿ではないか!」
「あれは平均的な
「たったの5メートルだぞ? それが何だと言うのだ!」
「ベルニュー候の仰りたい事は分かります。ですが僅か5メートル体を大きくするのに、成体の
ヴェルニューは歯を剥き出し「くそ!」と、拳をテーブルに叩きつけた。
震動でグラスの水が揺れて僅かに零れ落ちる。本来なら後方で控える従者が直ぐに水を拭き取るが、この場の空気がそれを拒んでいた。
張り詰めた空気の中でオヴェールが重い口を開く。
「戦っても絶対に勝てないか?」
「今のままでは勝てないでしょうな。攻城兵器のような大掛かりな装備を準備出来きるなら、或いは何とかなるかもしれませんが……」
場の空気が沈んで誰もが口を
「三人の男女とはどんな奴らだ?」
絶望感の中でホフマンが偵察部隊に尋ねる。三人の男女、その
「三人とも人間でした。貴族風の男とドレスを着た女性、あとは冒険者と思われる少女です」
「はぁ? なんだそれは」
誰もが阿呆のように口を開いて驚いていた。
流石に巫山戯ていると思ったのか、オヴェールも問いただす。
「見間違いではないのか? 本当に
皇帝の問いに嘘はつけない。もし嘘をつくようなことがあれば極刑に値する。だが返ってくる言葉は先ほどと同じだ。
「三人とも人間でした。間違いございません」
真剣な眼差しはとても嘘を言っているようには見えない。元より偵察部隊は敵に掴まった時のことを考慮し、信頼の置ける兵士で構成されている。嘘を話す者などいるはずもなく、それだけにオヴェールは困惑するばかりだ。
(どうなっている? ドレイク王国には人間がいないはずだ。しかもこのタイミングで来たと言うことは、今回の戦いにも関係があるはず。単純に考えるなら戦争に介入するため。ドレイク王国の援軍ということになる。ならば交渉次第で引くことも有り得るか……)
オヴェールは周囲を見渡すとこれからのことを話し出す。それは自ら交渉に向かうという信じがたい決断だ。
騎士団長のホフマンを筆頭に、この場にいた誰もが止めに入るも、オヴェールの決意は揺るがなかった。
少しでも交渉の成功率を上げるため、この戦いに勝つために、皇帝としての矜持がオヴェールの心を奮い立たせていた。
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