第2話 祓われる事を望む霊と、食われる事を望む祓い師

『安奈!』


 ママが、アタシを強く抱きしめて、大声で泣いていた。

 また、走馬灯のような夢。

 アタシはママを抱きしめ返す事も出来なかった。両手は包帯が巻かれていて、うまく動かせなかった。

 何か、すごく大事な、大切な物を掴んでいた気がしていた。

 その感触は、今も残っている。


『ママ、あたし、勝ったんだよね? だから、生きてるんだよね?』


 ママは何も応えなかった。

 褒めてもらえると思ったのに、ママからの優しい言葉は一切無かった。


 多分、中学に入ってすぐの頃。アタシが神童ともてはやされていた頃。

 手に余る巨大な怨霊と戦ってしまった。

 その時の記憶はすっぽりと抜け落ちている。怨霊に魂の一部を食われたからだ。

 そして、記憶が戻らないのは、その怨霊がまだ滅んでいないからだ。

 でも、そんなことはどうでも良い。呪傷はずっとこのままだからだ。


 目覚ましの音が聞こえる。

 でも、音を出しているはずの携帯電話が見つからない。

 ここはまだ、夢と現実の狭間だ。

 病院のベッドから、自分のベッドへと場面が変わっていた。これは、アタシが神童から並以下の劣等生へと転落した瞬間の記憶。


『安奈、あなたは生きていること自体、奇跡なの』


 夢の中でも、ママの手は暖かった。


『あなたの手は、もう霊に近付けないで』


 分かってる。この言葉は今も心に焼き付いてる。


『霊には、絶対に手をこの長さよりも近づけない事。分った?』


 あの頃の手の大きさ。手首から中指の先まで。


 約、十五センチ。


『あなたの手の力の及ぶ範囲は十五センチなの。そして、怨霊の破片が、あなたを傷つける程強く飛ぶ範囲も十五センチなの。これ以上近づけて手に呪傷を負ったら、あなたの魂が形を保てなくなるの』


 苦悶の表情を浮かべるママから、思わず目を逸らした。この後の言葉は一番よく覚えている。


『そうなったら、あなたは死ぬわ』


 ママの手は震え、顎からはぽたぽたと汗がしたたっていた。

 祓い師の道は諦めろという宣告だった。


『ママ……』


 おかしい。

 これは過去の記憶なのに。アタシは何も言えず、黙っていたはずなのに。


『ママ……なんで、セーラー服着てるの?』


 セーラー服を着たママが、そこにいた。


「ぶおえぇ!」


 変な声を出してしまったが、なんとか起きる事が出来た。


 日課を果たそう。

 机の上には鉛筆が立ててある。その手前には、十五センチの定規。

 十五センチまでしか近寄れないなら、十五よりセンチ先に力を飛ばして霊を祓えばいい。その力を飛ばす訓練をずっと続けている。

 つい先日、十五センチよりも向こうで、あの鉛筆を倒せるようなった。

 祓う力で物理に干渉出来たから、きっとそれなりの力だ。弱い怨霊なら祓えるかもしれない。


『あんな』


 なんだ、まだ夢の中だった。

 この声が初めて聞こえたのは、二年程前。老婆のような声は聞き飽きた。黒い大きな何かが遠くに見える。あれに飲み込まれるのはいつだろう。


 やっと目を覚ますと、携帯電話の時計は目覚めるはずの時間から十時間後を示していた。

 夢から覚めたと思ったら、また夢の中。そして、何かに名前を呼ばれ続ける。

 我が家の周囲には野井間の一族が得意とする強い防壁が巡らされているから、並の怨霊は入って来られない。つまりあれは霊ではなく、あの世からの『お迎え』なんだと思う。

 とにかく、時間通りに起きられる事は少ない。お陰で出席日数不足が祟って、高校は五年目だ。つまり、もうすぐこの世ともお別れ。傷だらけの魂が、限界を迎えているという事だ。




「こんばんは、安奈さん」


 あれから連日、液晶の向こうでセーラー服姿のママを見続けていた。

 そもそも、現実が悪夢だった。


「……う、嘘」


 スマホで再生した制服姿のママの動画を見て、ピンボケ野郎があからさまに動揺していた。

 ここ二週間程の対話で、ピンボケの記憶は多少鮮明に出来た。

 きっとこいつは誰かに祓われているだろうと思ったら、児童公園のベンチでぼうっと座っていた。

 先の短いアタシの命だ。一度くらいナンパ野郎の誘いに応じたって罰は当たらないだろう。対話でこの霊を満足させて、あるべき場所へ還す祓いの一環であるという言い訳も立つ。


「ご、ごめん。信じられない。僕、照沙師をすごく身近に感じてたみたいで」


 持っている知識からすると、こいつは祓い師の霊だ。霊体が他とは少し違うのはそのせいかもしれない。


「ま、よく教えを請いに来る人はいるからね。アンタもその一人だったんじゃないの?」


「そうかも。すごく頼りにしていたような気がする」


 混乱しているのはコイツだけじゃない。祓い師コミュニティは全て大荒れだ。

 だが、あの奇行を面白がって支持する奴らもたくさん現れて、放送局の連中は毎日ママに密着してくれているものだから、テレビを点けたら即セーラー服ババアだ。


「アタシとママの話はいいから自分の事少しは思い出せよ」


 このピンボケは、本当はどんな顔をしているんだろう。アタシの傷顔に比べればかなりいい顔だろうけど。


「さっぱり思い出せないよ。手のかかる霊でごめん」


「自分で言うな」


 ピンボケを叩きそうになって、手を止めた。危ない。


「その手で僕に触れたら、どうなるんだろうね」


「ん? お前が一部はじけ飛んで、破片を浴びたアタシが死ぬだけよ。アンタみたいな強い奴は一撃じゃ還せねぇし」


 アタシの手を近付けると、怨霊は激しく爆ぜ、その破片はアタシの手を傷つけた。

 小さな傷はすぐに癒えるが、今のアタシにはその小さな傷すら命取りだ。


 だから触れる以前に、手は十五センチ以上近づけられない。うっかり力を放出してしまったらピンボケが弾けて、アタシは死ぬ。


「そっか。なら、もう少しこうして話していられるね」


「ふん。話でアンタを満足させる事しかできねぇし」


 何を喜んでいるんだ私は。また祓い師の歴史を塗り替えたかも。

 祓えないって事に安心する祓い師って。


「ありがとう。あの、変な事言うようだけど、生きてた頃の僕は、安奈さんの事をかなり意識してたと思うけど、心当たりないかな?」


「へ?」


 心臓に悪い事言いやがって。

 なんだよ、この糞みたいな運命は。実質告白みたいな言葉をぶつけてきた相手は幽霊って。


「無ぇよ。パパ以外の男と話した記憶も無ぇよ」


「お父さんの事もパパって呼ぶの?」


「それが?」


「なんで不良気取ってるのかなって」


 キャラ作りはお見通しか。


「そう思われてた方が楽だし。学校にいなくても疑問に思われないし」


 野井間照沙の不良娘キャラも、少しは板に付いてたつもりなんだけどな。


「……何よ?」


「辛そうだから」


 祓い師数千年の歴史で、霊にナンパされて頭を撫でられた奴なんてアタシ以外いるんだろうか。霊が物質に触れる事は出来ないから、手を頭に添えられているだけだが。


「あれ?」


「どうしたの?」


 顔の痛みが減った。頬の痛みも、左眼の痛みも減っていた。


「ちょっと、腕痺れるまでそのままで」


「霊に痺れるも何も無いよ」


 感覚が鈍っていく。

 ああ、食べられてるのかも。アタシのなけなしの魂。でも、それも良いかな。


 少しだけ、目を閉じていても、いいかな。



「……安奈さん、安奈さん」

「……ああ、あれ?」


 なんだこれ。もやの中にいるみたいだ。


「ごめんね、本物の膝がなくて」


「ああ、ごめん」


 公園の時計台は午前二時を指していた。ピンボケの膝とおぼしき場所に頭が埋まっていた。あのゴーグル着けると見える彼女みたいだ。VRだかARだか。霊を彼氏と呼ぶ程落ちぶれちゃいないけど。


 毎日、昼寝している時さえ聞こえる、貪欲な響きでアタシの名前を呼ぶ声が聞こえなかった。しかも、眼と頬の痛みが減っているのに、自分が希薄になった気がしない。五時間はこの霊と一緒にいたのに。


「今日は、長く一緒に居られて嬉しかったよ」


 ピンボケの寂しげな声はあまり聞きたくない。別れる時はいつもそうだ。


「そんな声出さないでよ」


「ごめん。すごく寂しくて」


「ねぇ、アンタ本当にこんな顔と性格の女好きなの?」


 ずっと思っていた疑問を口にする。頭が覚醒しきらないからか、余分な言葉をかけてしまうのかもしれない。


「勿論だよ。断片的な記憶で言ってるんじゃなくて、今の僕がそう思ってる」


 困った奴。


「ならアタシの顔もっと近くで見てみなよ。手は後ろで組んでるからさ」


 この状態は、お互いのためにならない。

 アタシへの勘違いな未練を、少しずつ断ち切らせないと。


 最近の外出はこいつに会うだけだから、メイクなんて一切していない。夜とはいえ傷を隠さずに外出するのは勇気がいるけど、それもこいつのためにしてきた事だ。こんな顔の奴に未練を抱くなんて、おかしいんだ。

 前髪を上げて、ヘアピンを付け直す。


 ピンボケが、ベンチから立ち上がって近付く。ああ、見ないで欲しい。


「霊にそんな事言っちゃ駄目だよ」

「霊が言うな」


 もうデートごっこは終わりにして、こいつを還さないと。アタシは祓い師なんだ。


「そのまま、後ろで手組んでて」


「……何してんだ」


 現実感がまるで無い。

 その両手がアタシの両肩を掴む振りをして、唇を唇に押し当てる振りをされても、何かが近寄ってきた感覚があるだけだ。

 こいつに対してなんらかの感情を抱いているつもりなんて無かったのに、思う事を止められない。どうして体を失ってしまったんだ、この馬鹿たれは。

 この手の経験なんて無いけれど、分かってしまう。

 今ぶつけられている感情は本物だ。


 いっその事、アタシの魂を食べてしまえばいいのに。自分の中に取り込んで、消え去るその日まで。

 きっと、こいつの霊体の強さなら、百年は一緒にいられるのに。

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