最終話 踊るように、笑うように

 ――エンタングルメント。


 その言葉に慄然とする大地。

 デバイスの処理能力を使って、人間同士の思考を量子状態で同期させる技術である。

 暗殺者集団“ノース・リベリオン”はオペレーション中に言語を介さない通信手段としてこのエンタングルメントを研究していた。これが実現できれば、一瞬を争う量子魔術戦において、絶対的なアドバンテージを得られるはずだった。

 

 だが、実験は惨めこの上ない結果に終わっていた。

 身内である舞と精神同調した瞬間に拒否反応を示してしまったせいで、大地はエンタングルメントによるネットワークを構築できなかった。それどころか気を失ってしまう始末だ。

「そ、そんな! ムチャな……」

 尻込みする大地。

 舞の翼に対するわだかまりを知った瞬間にリンクが失敗してしまったことは、今でも大地にとっては直視できないほどのトラウマだ。

 エンタングルメントによる思考の同期によって、それぞれが記憶を共有することになる。それはつまり、見たくもないことや知りたくもない気持ちをお互いに認識し合うということだ。そしてどちらか一方が拒絶反応を示した時点で、エンタングルメントは破綻を迎えてしまう。

 もし、翼との同期がうまくいかなかったら?

 そう考えると震えずにはいられなかった。

 エンタングルメントが失敗すれば、量子デバイスは強制終了=デコヒーレンスを起こす――即ち戦いにおける死を意味する。

 しかも今度は翼まで巻き込んでしまうのだ。

 あまりにも強大な敵を目の前にして、そのような博奕など打てるはずはなかった。

「ムリ……ムリに決まってるよ」

 大地は、力なくそう呟くのだった。

 そんな大地に翼は決意を滲ませて訴えた。

「大地、あたしを信じて!」

 エンタングルメント以外に活路はない。そう確信した翼は、大地を正面から見つめる。

 そして、強く抱きついていく。

 あの頃のように――大地を安心させるように、強く、体をあずけるように抱きついてくる。

「お願い、あたしを――信じてっ!」

「翼……」

 その感触で、大地はようやく思い出すのだった。

 何故自分がこの場所にいるかという、その理由を。

 抱き締めた翼の細い肩。

 その柔らかい感触が、大地に決意をもたらしてくれる。

 守りたい。守れなければならない。

 その優しさに、報いるために――

 この身を賭すのではなく、ともに生き残るために、

 一緒に、笑い合っていくために――

 大地は、震える声でコマンドを起動。

 耐え難い恐怖に向かって、しかし一歩を踏み出していく。

「エンタングルメント、プロシージャー……開始!」


 直後、大地の思考に変化が顕れる。

 合わせ鏡の中にいるように、無限に連なる自分自身の同位体。

 そのそれぞれに向き合っているのは、一人の少女。

 ずっと身内だと思っていた少女だ。

 頭の中で思い描いていたのとはまるで違う、冷たい雰囲気を醸す美少女。

 まるで似合っていない真っ赤なリボン

 生真面目で融通の利かない堅物。

 でも、大地を優しく抱き締めてくれた、思いやりのある少女。

 その少女が大地と向き合い、少しずつ近づいてくる。

 それぞれの大地とそれぞれの翼がともに手を取り合っていく。

 大地には翼の、翼には大地の意識が流れ込み、融合していくのだった。

「――ッ!」

 拒否反応が出そうになるが、翼の温もりが踏み留めてくれる

「安心して大地。あたしがここにいるから」

 やがて始まっていく、記憶の共有。


 それは――幼い頃の翼。

 あなたに会いたい人がいると聞かされて、千代田特別区ディストリクトを訪れた。

 そこである夫婦と会う。優しそうな女の人と、少し怖いけど誠実そうな男の人だった。

 何日か泊まっていくように言われた。

 綺麗で広い部屋と、美味しい食事。

「天国みたい」って思ったけど、大地が気になってすぐに戻りたくなった。

 でも、翼が互恵ハウスに戻ることはなかった。

「うちの子になって?」

 そう言ってくれた女の人が温かくて、優しくて、ママみたいな匂いがして。

 泣いてしまいそうなくらい幸せで。

 そのまま、その家の子どもになってしまった。

 幼稚園でもみんな優しくて親切だった。

 善意の塊みたいな女の子たちと、信じられないくらいに紳士的な男の子たち。

 いじめもないし、醜い諍いもない。

 ノース・サイドとはまったくの別世界。

 翼は思った。お金があって豊かだと、こんなにも人に優しくできるのだと。

 どこまでも居心地のいい、幸せになれる場所が、ディストリクト。

 その気になればノース・サイドから歩いていけるほどの距離なのに、何もかもがどこまでも遠い。

 周りの子どもたちと仲良くしていると、これまでのハウスでのみじめな生活なんて、なかったみたい。

 だから、翼は誓った――友だちを作らないことにすると。

 どこまでも優しい義母と義父。天国のような暮らし。そんな場所に優しい友だちがいっぱいいたりなんかしたら、流されてしまう。負けてしまう。大地のことを忘れてしまう。だから、友だちなんて一人も作らない。作っちゃいけない。そのために氷の仮面を被ろうと、固く心に誓う。

 そしてもう一つ――翼は目標を持つことにした。

 お義父さんのような高級官僚になって、綺麗で広い官舎に住んで、毎日美味しいものを食べて、立派な服を着て、外国でもどこでも好きな時に好きな場所へ旅行に行ける――そんな暮らしを、大地にさせてあげようって。

 大地はこれまでずっと辛い生活をしていたのだから。

 大地はずっと孤独を抱えていたのだから。

 そんな最高の未来が待っていても不思議じゃない。

 いいえ、そんな明日にしてあげなければならない。

 養女である自分は第三子扱いだから、国立第一大学から財務省という進路はほぼ絶望的。

 でも、一流私大を出て、一流企業に入るなんて生き方では全然足りない。

 大地には、とびっきりの贅沢をさせて上げるんだから。

 誰よりも幸せにさせてあげるんだから。

 貴族になって、最高の暮らしをイヤってほど味わわせてあげるんだから。

 そのためには、遊んでなんていられない。

 第一大学に入るためなら、どんな苦労も厭わない。

 どれだけ辛くても、大変でも、孤独でも。大地のために頑張り続けなくっちゃいけない。

 そんな時、自分に量子魔法の適性があることを知った。

 涙が出るほど嬉しかった。神さまの恵みとすら思えるほどに。

 これで公安として戦えば、信じられないくらいの社会貢献ポイントが稼げるはず。

 夢に――大地と一緒に暮らして幸せにしてあげる夢に、近づけるはず――


 一瞬にして流れ込んできた翼の十年間の記憶。

 それは孤独で辛くて、いいことなんて一つもない、まるで修験者のような毎日だった。

 大地は驚愕しながら、翼に視線を向ける。

 その翼は、泣いていた。

 両目から大粒の涙を流しながら、それでも笑ってみせる。

「よかった。おんなじだった。ずっと、大地とおんなじだった」

「オレのこと、そんなに考えていてくれたなんて」

「あたしのこと、毎日想っていてくれたんだね。毎日、話しかけてくれてたんだね、大地」

「ずっと会いたかった。一緒にいたかった」

「あたし、幸せだよ。大地がこんなにあたしのことを心配してくれてたなんて」

「オレのために、ずっと一人で……孤独に戦ってくれてたんだ」

「あたしの幸せのことをそんなに考えていてくれたなんて」

「やっぱり、翼は、オレの翼のままだった」

「あたし、この幸せを守りたい。ずっとこの気持ちに包まれていたい」

 翼の気持ちが、感謝の心が、ずっと抱き続けてきた願いが、大地の想いと解け合っていく。

「翼……」

 大地は、心の底から思う――翼を守りたいと。

 そのためにはどんなことでもしてやると。

 ゆっくりと息を吸うと、大地は空中に視線を合わせ、己自身の心をイメージする。

 鏡と向き合った自分の姿。

 紅い髪、深緑色の瞳、そして中性的な顔立ち。

 人との接触を避け、ひたすら目立たないように生きてきた卑怯者。

 他人の存在を心の底で拒絶していた臆病者。

 誰よりも大事な身内である茜にも舞にも本心を晒そうとしなかった恩知らず。

 そのくせ共依存の生暖かさから抜け出そうともせずに、身内以外が存在していないかのように無視して現実逃避を繰り返してきたのだ。

 

 でも、今は自分自身の譲れぬ想いを受け入れたいと思う。強くそう願う。

 大地は心の中で手を伸ばす。翼の心に触れるために。

 自分以外の人間を、心の底から受け入れ、そして信じる――

 

 二人の同期は一気に極限値に近づき、その瞬間に膨大なネットワークが築かれる。

 それは一対一の接続ではない。

 無限に近い並行世界の同位体同士がそれぞれに世界の壁を越えて結合を果たした、天文学的なネットワークになっていた。

 その膨大なネットワークが生み出す処理能力は、もはや数値による表示が不可能な領域。

 四次元時空に及ぼす影響は計り知れず、強大なポケット・ユニバースの力がその制御下に入っていく。

 ドラッグの力を借りて自分一人の脳で計算力を高めていた霞治郎は、この時点で既に敵ではなくなっていたのだ。

「翼」

「大地」

 二人は抱き合ったまま霞治郎に眼を向ける。

 大地は左手で翼の肩を抱いたまま、右の掌を社長に向け、

 その手の甲に重ね合わさる、翼の左手。

 彼女の右手は大地の腰に手を回し、絶対に離すまいと、きつく体を密着させている。

 大地は翼で、翼は大地――

 迷いはない。お互いの心はただ一つ。

 今、抱き締めているこの大切な存在を、何があっても守りたいという一心だけだ。

「時間と空間の生まれいづる起源にして」大地が言葉を紡ぎ始めると、

「広大無辺なる界を寸陰にて創りたまひし御業」翼が応じていく。

「光はここに生まれ、やがて生命へと繋がる逕路を紡ぎ出す」

「普遍の本源にして全智全能の創造主が如き、絶対無二の事象――」

 二人の言葉がこの瞬間に重なり合う。


 ――闢=アンフラシオン――

 

 とてつもない規模の量子魔法を感じたテロリスト霞治郎は、必死の抵抗を見せる。

 合成ドラッグの力を借りてデュアル型の量子デバイスを手にして以来、初めて感じた、それは恐怖という感情だった。

「ナ、ナメンなヨォオオオオオオ――ッ!!」

 必殺のはずの暗黒球を必死の勢いで二人へ投げつけていく。

 だが、その悉くが二人を避けるように抜けていき、背後で爆散。

 全てを喰らい尽くす爆縮の特異点がまるで大地と翼を避けるような軌道を描いて、二人の背後へと消えていったのだ。

「ナ、ナニが……いったい――!?」


 大地の斬撃は宇宙定数が極端に大きいポケット・ユニバース。

 翼の放出する原始物質は誕生直後のポケット・ユニバース。

 最初から相性のよかった二人が、今心を一つに重ね合わせている。

 結果として繋がったのは誕生したばかりの――時間が生まれてからビッグバンが始まるまでの寸陰に起こった、空間が爆発的に拡大した――インフレーション宇宙。

 その空前絶後とも言える空間の拡がりが、霞治郎の放つ超重力を相殺していたのだった。

 重力の特異点を呑み込み、瞬く間に空間が拡散。

 霞治郎の重力球は、完全に中和され、悉くが消滅してしまう。

「バ……バカな……、ありえ……ナイ」

 絶対の攻撃力を防がれてしまった霞治郎はその衝撃に集中力を切らせてしまう。

 ドラッグによって強制的に維持されてきた意識はタイトロープと変わらない。

 一瞬だがデコヒーレンスを起こす霞治郎の量子デバイス。

 大地はその瞬間を見逃さなかった。

 刹那の判断で翼とのエンタングルメントを解除。同時に斬撃を放つ。

「――斬ッ!」

 霞治郎の量子デバイスは再起動をかけつつあったが、大地の斬撃が一瞬だけ早かった。

 世界線が緩やかな曲線を描きながら真空の斬撃を撃ち放つ。

 描かれた軌道はフォアヘッド部とリアヘッド部の双方を切断し、デバイスはその内部構造を無防備に晒す。

 コアとなる超伝導量子干渉計=SQUIDは真っ二つに分断され、そのジョセフソン効果は一瞬にして消滅。

 霞治郎は完全に無力化していた。

 唖然としたまま硬直するテロリスト霞治郎に、大地は躊躇せずに追撃を放った。

 何十人もの、無実の人間を無情にも殺戮していったテロリストを、

 善人面で人を騙し、そのくせ人のことを単なるチェスの駒としか見ていなかった偽善者を、

 何より大切な茜姉ぇに無差別殺人を犯させた、許し難い悪鬼を、

 今この場で裁くために。

「――斬ッ!」

「ダメェエエエエ――っ!!」

 その右手にしがみついてきたのは翼だった。

 翼の干渉によって軌道がズレたため、その斬撃が霞治郎の右頬に一文字を斬りつけていた。

「ギャアアアアアアアアア」

 斬撃が頬を掠めただけなのに、大袈裟に喚き散らす霞治郎。

 派手に流れ落ちる鮮血に、気を失わんほどの勢いで取り乱し始める。

「イタい、イタい、イタアアアアアアアアアアアアいぃいいいいいい――!!」

 散々人々に恐怖を与えてきたものの、自分が攻撃されるという状況を考えもしなかった。

 戦うという覚悟が最初からなかった卑怯者の、それが正体であった。

 この男を殺すのは自分以外にはいない。険しい表情で大地は霞治郎を凝視する。

 しかしその右腕を翼は懸命に押えていた。

「翼、どうして――ッ!?」

「ダメ、大地。……あの人は、法が裁かなくては」

「でも、アイツは、アイツは……」

「お願い。怒りの感情で人を殺すなんてやめて。あなたは人殺しじゃないんだから」

 すがるような翼の言葉に、大地は詠唱を途中で止めていた。

「あの人は、もう戦う力がないから。あとは法が裁くべき……」

 かつては茜の言いなりになって、人殺しになると決めていた。

 茜姉ぇが喜ぶのなら、それでいいと自分に言い聞かせていた。

 でも――

 懸命に自分にすがりつき、必死に懇願してくる翼の姿に大地は心を動かさずにはいられない。

「翼、なんで?」

 斬撃で斬られた頬を大袈裟に痛がる霞治郎の見苦しい叫びがいつまでも続いていた。

 その重力魔法でどれだけの人を殺したのか、この男にそんな意識は微塵もないのだ。

 受けた傷の痛みが不当だとばかりに泣き叫ぶが、同時に恐怖で立ち上がることもできない。

 どこまでもつまらない、取るに足りない男なのだ。

 そして、そんな男にみんなが騙され、大切なものを失っていった。

 それでも翼は、この男はこの場で殺すべきではない、法によって裁かれるべきだと言う。

「なら――」大地は斬撃の構えをゆっくりと解く。「そうする……よ」

 量子魔法でその命を絶つ代わりに、大地は霞治郎の頭を掴み、強引に立ち上がらせた。


 拳を固める。


 かつて、これほど強く拳を握りしめたことなどあっただろうか。

「これは……茜姉ぇの分だ」

 静かに言い放つと、一転して鬼の形相と化す。

 大地は全力で霞治郎の左の頬をブン殴った。

 全身全霊を籠めた右の拳が、テロリストを紙くずのように吹き飛ばす。

 斜めに回転しながら宙を舞い、コンクリートの床面に鈍い音を立てて崩れ落ちる長身。

 大地は表情を崩さず、再び拳を固めていく。

「オレの……オレの、分は……」

 その拳をゆっくりと解いていく。

 やがて、公安の人間が駆けつけてきて、あっという間に霞治郎を拘束していった。

 大地は、駄々をこねるように見苦しく喚き散らす霞治郎が連行されていく様を見つめながら、唇を噛む。

「オレの分は、法に裁いてもらうんだな……」

 そして、そこでようやく表情を緩めるのだった。

「終わった……」

 そう思うと、途端に全身から力が抜けていく。

 思わず倒れそうになるが、優しい腕が体を支えてくれていた。

 バイザーを跳ね上げた翼が、優しく笑みをかけてくれる。

 あの時のように。

 まだ二人が互恵ハウスで一緒に住んでいた、五歳の頃と同じように――


* * * * * * * *


 数日後、大地と翼は警察病院の一室を訪れていた。

 テロリスト霞治郎と行動を共にしていた茜は、本来であれば重罪人として断罪されるはずだった。だが薬物を投与され、マインドコントロール下にあって正常な判断力を失っていたとして処罰は保留され、保護観察対象となっていたのだ。

 今はまだ薬物の影響が残っているため病院内で治療を受けている。

「あれ、大地兄ぃ、どこか出かけるの?」

 翼と二人で小振りのリュックを背負った大地を見て、舞が訝しそうに訊ねる。

「ああ」頷いてから大地は答えた。「ニア・イーストに昔住んでた家がまだ残ってるっていうんで、これから見にいくんだ」

 かつての台東区、荒川区、墨田区、そして江東区の大部分を統合した第五行政区ニア・イーストを訪れると、大地は答えた。

「ふうん、そうなんだぁ」言って舞は目つきを厳しくする。「で、その女も一緒ってわけぇ?」

 翼に対する敵愾心を隠そうともしないストレートな態度に、大地は思わず苦笑してしまう。

「オレも保護観察対象だからね。で、翼がオレの監視役ってとこ」

「だったら舞も一緒に行くぅ」

 ツインテールを振り乱しながら駄々をこね始める舞。

「そいつぁ無理って話だ」諭すように止めるのは郷。「オレら全員、勝手に出かけられねえ」

 茜はもちろんのこと、大地も舞も、そして郷も暗殺者集団の構成員だった身。

 そして彼らが今いるのは病院とはいえ、窓が鉄格子で覆われている特殊な場所だ。

 公安の思惑で罰を受けてはいないが、観察対象として行動が制限されているのだ。

「そんなぁ」ぷぅっと頬を膨らませる舞。

「でも、すぐ帰ってくるんでしょ?」

 ベッドで横たわっている茜がか細い声で訊ねると、大地は強く頷いた。

「もちろん」自然な笑みを浮かべる。「ちょっと行ってくるだけだから」

 処罰を猶予される代わりに、大地たちは公安のエージェントとして戦うことを義務づけられていた。そのオファーに乗らなかった青山ノブルスは潔く刑を受け入れ、今は拘置所で裁判を待つ身となっている。

 体制のために働かされるのは不本意極まりない話だが、それでも茜を救いたいというのが、大地、舞、そして郷の三人が出した結論だった。

「じゃあ、行ってきます」

 言い残して立ち去る二人を不満そうに見つめる舞。

 そんな舞に聞こえるように、茜は独り言を呟いた。

「なんか、悔しいね」

「うん」と応じる舞。

「結局、翼なのね。……でも」言いかけて茜は眼を細める。「でも、大地が幸せなら、ウチはそれでいいのかな?」

 膨れっ面で唇を尖らせたままの舞は、不服そうに言う。

「ぶう。……でも、舞もそう思うことに……するよぉ」

 壁にもたれて腕を組んでいた郷は、思わず脱力して笑ってしまう。

『油圧』という文字が大きくプリントされたティーシャツを、小刻みに上下させて。


 病室を出て廊下を進んでいく大地と翼の前に現われたのは、財務官僚の霞和哉。

「あ、霞さん」翼がぺこりと頭を下げる。

 大地は挨拶も忘れて霞和哉をじっと見つめていた。

 自分たちが大した処罰もされず、公安での奉仕活動で許してもらえるのは、すべてこの霞和哉の采配であった。内閣官房の身ながらも、そこまでの無理筋を通すのは相当のことだったに違いない。本来ならばきちんと礼をしなければならないのは、無論大地も知っていた。

 が、大地は固い表情のまま、訊ねずにはいられなかった。

「らいらさんだったんですね?」

「なんのことかな?」突然の質問に霞和哉は首を傾げた。

「ノース・リベリオンの情報を公安に流してたのは、らいらさんだったんですよね?」

 一呼吸置いてから、官僚は答えた。

「なぜそう思うのかな?」


 闘いが終わって、大地には思うところがあった。

 何故、自分は常磐らいらという女性をすぐに憶えることができたのかということについて。

 考えて、考えて、考えて。

 そしてようやく一つの結論に至った。

 らいらの瞳は、幼少期の翼によく似ていた。

 怯えながらも、自分のことを心から心配してくれる、優しさに満ちた瞳だ。

 でも、彼女は何に怯える必要があったのか?

 施設での生活を余儀なくされていた翼と、らいらはあまりにも違うはずなのだ。

 彼女は、ドジで失敗ばかりしてはいたが、基本的に愛されるキャラの持ち主だった。

 社長からパワハラを受けていたという噂は確かにあったが、それ以上にもっと深刻な問題を抱えているように思えたのだ。

 そして、これまでの経緯を思い返す。

 すると、どうしてもこの結論にしかならないのだった。


「らいらさん、どこかごめんなさいって顔してたから。ずっと不思議に思ってたけど、あの人はオレに心の中で謝ってたんだ。……ついこの前、やっと分かったことだけど」

 初めて会った瞬間から、彼女は自分たちに対して心苦しく思っていた。その感情が、微かな表情の乱れとなり、大地の心に刺さっていたのだった。

 たぶん、それもあって彼女を憶えることができたのだ。そしてそれが、当時の自分にとって、どれだけの救いになっていたことか。

「優秀なエージェントだったよ、彼女は」霞和哉は溜息混じりに答えた。「しかし潜入工作をするには、いささか心が優しすぎたようだな。特に君に対しては特別な想いもあったようだし」

「いまどこに?」

「言えないことになっている」

 冷淡に応じる霞和哉は、心を病んでしまって今は誰とも会おうとしない常磐らいらのことを考える。小さくない代償の一つである。だがそのことは大地には決して言えない。

「が、いつか会える日がくるかもしれない」

「その時は、オレ、あの人にお礼が言いたい……です」

 意外な言葉に、和哉は一瞬だが驚きの表情を見せてしまう。

「オレのこと心配してくれて、ありがとうって」

 和哉の困惑を意識することもなく、大地はそう言った。そう言って、笑う。

 潜入工作員として任務を全うしながらも、常磐らいらは大地のことを気遣ってくれていたのだ。その心に嘘偽りがないことを、大地だけは知っていた。

「では、行ってきます」

 翼が霞和哉に一礼して、大地とともに歩き出す。

 二人の後ろ姿を見て、官僚の男は眼を瞠り、やがて微笑を浮かべてしまう。


 生真面目な堅物の翼らしからぬ真っ赤なリボンは、いつも似合わないと思っていたのだが。

「なるほど」

 エリート官僚には珍しい独り言が洩れ出ていた。

 大地の赤い髪のすぐ隣で、翼のリボンは愉しげに揺れているのだった。

 まるで対を成すように――

 踊っているように、或いは笑っているように――        [了]

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

中卒リベラシオン つきしまいっせい @ismoon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ