第21話 囚われの身
皇居を一望できる高級マンション然とした官舎。
その二十五階の一室から、大地は外の風景をぼんやりと眺めていた。
緑が芽吹き始めた広大な緑地の向こうには意匠を凝らした超高層ビルが覇を競い合っている。
青空と、先端建築と、豊かな緑地のコントラストは、大地が知っている低所得者向け高層団地の、濃灰色だけで構成された画一的な景色とは文字通り別世界であった。
地下鉄に乗ることができれば、一時間もかからない距離だというのに、ノース・サイドとはまるで外国と言っていいほどの違いだ。
やけに快適な室内で、大地は静かに吐息を洩らす。
何故、自分は生きているのだろうか。
そして、何故自分はこの場所にいるのだろうか。
自衛軍が突入してきて身柄を拘束された時、大地は自分の命が絶たれると思っていた。
アルファや、他の暗殺者たちが敗北の末にそうなったように、デバイスごと頭を吹き飛ばされるのだと。
覚悟などという上等なものではなかった。
あまりの精神的な衝撃に翻弄されて思考を放棄していたのだ。
それ故に目前まで迫ってきていた死を他人事のように捉えていたのだった。
だが、大地は生きていた。生かされていた。
逮捕直後は留置所に入れられ尋問も受けたが、すぐに移動を命じられてこの贅沢な一室にいる。
外に出ることこそ許されないものの、部屋の中では行動を制限されていなかった。
食事も、飲み物も好きにとることができるし、テレビもネットも自由に観ることが許可されている。
他に不自由があるとすれば外部との通信手段がないくらいだが、それで困ることはなかった。
連絡を取る先など、大地にはないのだ。
控えめなノックが響く。
「大地……」
気遣うような表情は、大地のよく知るものではない。
毎日のように部屋を訪れてくる翼に対して、大地はどう接していいのか分からなかった。
あんなに大切に思っていたというのに。
一日だって、忘れたことなどなかったというのに。
大地はビクビクしながら翼の横顔を盗み見る。
面差しはそのままのはずなのに。だがその雰囲気はまるで別人のもの。
不安定で心配ばかりしていた翼はもういなかった。
代わりにそこにいるのは、優等生然とした生真面目そうな美少女だ。
どこか人をはね除けるような冷たく孤高な空気が、ただそこにいるだけで伝播してくる。
そしてポニーテールにした長い黒髪を束ねる真っ赤なリボン。
どれもこれも頭の中で抱いていた翼のイメージとは大きく異なるものばかり。
これが茜か舞であったなら、無意識のうちに手を繋いだり、抱き合ったりしていたはずだ。
言葉はごく自然に紡がれていただろうし、お互いの存在を確認して安堵していたはずだ。
なのに、一番の身内であるはずの翼が、今の大地にはあまりにも遠かった。
そして思う――
自分は彼女を殺そうとしていたのだ。
かけがえのない身内である翼なのに、貴族の子、社会貢献ポイントを貪る体制の狗として、自らの手にかけようとしていたのだ。
それだけではない。
大地は最後の最後まで“ホワイト・メア”の正体が翼であるのを見抜けなかった。
処刑しようとする直前に量子デバイスを外すその瞬間まで、それが翼であるとは夢にも思っていなかったのだ。
どれだけ離れていても、どれだけ成長していても、一目見れば分かるはず。
ひと言でも声を聞けば分かるはず。
そんな思いが大地にはあった。あるはずだった。
しかし自分が彼女に向けていた感情は、純粋に敵意、そして殺意だけだったのだ。
大地は、何よりその事実に打ちひしがれていた。そんな自分が受け入れられなかった。
部屋に入ってきた翼は、ベッドに腰掛けたままの大地の隣にそっと座っていた。
少しだけ距離を開けて、ただ座っている。
話しかけてくるでもなく、大地を見ることもなく。
ただそこにいるだけだった。
そして夕方になると「またね」とだけ言い残して部屋を去っていく。
そんなことがもう何日も続いていたのだった。
「制服、……高校の?」
いつもは地味な普段着の彼女は学校から直接来たのか、今日に限って制服姿だった。
その意外な感じに、大地は気がついたら声を発していた。
「……うん」翼は控えめに頷いた。
それは都立永田町高校の制服。
大学受験が学力テストのみだった時代に、国内最難関の東京大学へ毎年何十人もの学生を合格させていた、かつての名門都立高校である。
今は生徒全員が貴族の子どもたちに占められるようになり、官僚養成機関ともいえる国立大一大学への最短距離という位置づけになっている。
おかげで一般庶民からの知名度はすっかり下がってしまい、栄華を知るOB・OGたちをがっかりさせている。
とはいえ官僚貴族への登竜門であることは絶大なまでのステイタスとなっており、官僚たちのソサエティにおいては最高峰に位置する高校だ。
制服のデザインも、その生地の質感も、大地の着ていた公立中学のものとはまるで違うのが、見ただけで分かってしまう。
翼は遠慮がちに頷いた。
「失望した?」喉を詰まらせたような、翼のかすれた声。
大地は弱々しく首を横に振る。
失望したのは、他ならない自分自身に対して。
だから、懸命に首を横に振る。
今さらではあっても、これ以上翼を傷つけたくなかった。
たとえ手遅れであると分かっていたとしてもだ。
「でも、よかった」ぎこちなく、ひどく硬い表情で翼は囁く。「やっと、話しかけてくれた」
そんな翼の言葉に驚きを見せながらも、慌てて口を開きかける。
「い、いや……」
違う。そうじゃない。
ただ、どう話しかけていいか、分からなかったんだ。分からなかっただけなんだ。
「えっと……、えっと……えっと……」
大地の言葉は宙に漂い、微かに流れる空調の音に飲み込まれていく。
どう言っていいのか分からないまま、諦めてうなだれる。
無造作にベッドの上についていた手。
その手の甲を優しい掌がそっと被さっていった。
「……ッ!?」ハッとして大地は顔を上げる。
すぐ近く、息がかかる距離に白皙の頬。
青みがかった白眼とのコントラストが胸を昂ぶらせる、漆黒の瞳。
束ねられた黒髪と共に揺れる、真っ赤なリボン。
「やっぱり、気になる? ……茜ちゃんのこと?」
凛とした雰囲気とは不釣り合いな、儚げな声だった。
ほんのりと鼻孔をついてくる甘い香りはシャンプーのものか。大地には知らない匂いだ。
少しの沈黙を経て、大地は答えた。
「茜姉ぇ……」
自由にテレビやネットを閲覧することのできた大地は、自分が捕まった直後に会社が強制捜査を受け、大勢の逮捕者が出たことを知っていた。
中学生の女の子も補導されたと伝えられているので、舞も当局の手にあるのだろう。
だが、首謀者である霞治郎社長は逃走していて、いまだ指名手配中。
そして、社長と行動を共にしていると報道されているのが十代半ばの少女である。
セーフハウスに逃れていたはずなのに、茜一人だけが姿を消して社長と合流していたのだ。
ただ逃げているだけなら、まだよかった。
ネットでは一人の少女があらゆる意味で注目を集めていた。
彼女は毎日のように動画をアップし、社会に対して、特に貧困層に向けて力強いメッセージを発し続けていた。
『みんな、聴いてほしい。知ってほしい。……この国が欺瞞に満ちた偽りの支配下にあるということを!』
真っ赤に塗られた壁面をバックに、豊島茜はカメラに向かって、その先にいる閲覧者に対して訴えていた。自らの顔と名前を公開し、切々と訴える。
『この国の官僚がどれだけ国民を食い物にしているのか、どれだけ酷いことをしてるのか……』
ショートボブにしたカーリーヘアをさっと揺らしながら、茜は情熱的な瞳をカメラに向ける。
閲覧者の心を捉えて離さない、射抜くような視線だ。
『官僚っていうと、国のために毎日夜中まで残業して、体を壊すまで頑張ってる……大変な人たちって思われてるかもしれない。いつもテレビがそんな“官僚残酷物語”みたいなニュースをしてるから、みんなそれが正しいって思ってる。そんな大変な、誰もやりたがらない仕事をしてて、スゴイって思っている人もいるかもしれない。でも、それはほんの少ししか真実を伝えてないの!』
日焼けした肌を伝う汗をぬぐおうともせず、茜は語る。
『だって、テレビも新聞も雑誌も、みんな官僚の身内で固められてるから! 彼らは大手マスコミっていう一流企業に官僚のコネで入社して、官僚のコネで出世してるの。テレビも雑誌も、上の人間はみんな官僚の身内で占められてしまってるわ。これを見て』
茜は某テレビ局の取締役リストを表示させた。
十数名いる取締役と執行役員の実に三分の二以上が官僚の係累もしくは天下ってきた官僚本人。他の事案ならいざしらず、官僚批判に繋がる報道が出てくるはずもなかった。
『だから官僚に都合の悪いことはぜったいに言わない。不正も、不祥事もなかったことにされている。それにネットでも総務省による規制と五毛党の大量の書き込みで、彼らに都合の悪いことは全部消されてしまう』
茜は低めのハスキーボイスを響かせた。
『この国にあるのは、建前だけの“報道の自由”! でも本当のことは隠されてしまっているの。たとえば、行政改革を進めようとする政治家は“政策オンチ”ってレッテルが貼られて人格が否定されていく。最終的には議員辞職するまえ追い込まれてしまう。マスコミはそんな個人攻撃は数字が稼げるから、喜んで官僚の情報に食いついていく。それがウソだと分かっていても。そんなふうに、この国の人たちは真実を隠されてるの!』
茜は語る。この国の歪な構造と、それを支える官僚貴族を中心とした既得権の数々を。
彼らが国の借金を積み上げ、その一方で低所得者層の犠牲の上に私腹を肥やし続けているということを。
やがて茜の瞳から余裕が消えていった。
まるで何かに取り憑かれたかのように一点に視線を集中させ、絶叫する。
『ウチは闘う!
この国の不条理を是正するため!
大切な人の未来を守るため!』
本来ならば五毛党による大量の書き込みによってデマ扱いされた後に、通報によってプロバイダーから削除されるはずの動画である。
しかし、今回に限ってはそういうわけにはいかなかった。
発生してしまった事件があまりにも深刻であり、かつ脅威であったからだ。
官僚のポチと化していた大手メディアですら無視することは不可能だった。
「まさか、こんなことになるなんて」翼が嘆息する。
今、世間を揺るがせているのは暗殺者組織の壊滅ではなかった。
逃亡中の首謀者、即ち霞治郎社長が起こし続けている、無差別テロである。
ターゲットとされるのが官僚であることに変わりはないが、組織がやってきた活動との違いは、周囲を敢えて巻き込み、不必要なまでに犠牲者を増やしているという点であった。
官僚の家族や隣近所の人間を同時に殺害していくという忌むべき手段である。
近親者であっても直接関係ない人間は手にかけるということを “ノース・リベリオン”はこれまで避けてきていた。
彼らは変革を訴える暗殺者ではあっても、無辜の民を巻き添えにするテロリストではなかった。この国のガン細胞たる高級官僚のみを排除することが、一般層からの支持に繋がるという考えからだ。
だが、霞治郎社長は、その方針を敢えて放棄して、ショッキングな殺戮を繰り返していた。そして、皮肉なことに殺害方法が残虐であればあるほど、テロリスト霞治郎の支持者が増えていくのだった。主に低所得者層の若者を中心にして。
たった七日間にして、死者は五十二人にも及んだ。未成年者八人、高齢者五人、そして妊婦二人が含まれている。しかも殺戮は日に二度、三度と重なる時すらあった。
未だかつてない残虐な殺戮は極限の社会不安を引き起こしていた。誰もが事件について知りたがった。その世論という圧力こそが、大手メディアが最も弱い相手であり、彼らは事件について報道せざるを得なくなっていた。
もはや総務省や五毛党によるコントロールは不可能となり、事件についての情報を隠蔽しようとすると一般的なネットユーザーからの激しい抗議に晒されてしまう。
そして、まるで警察組織を嘲笑うかのように繰り広げられる惨劇は、燻りかけていた低所得者層の憤りにあっさりと引火していった。
そのテロ行為を正当化すべく民衆に語りかけているのが、豊島茜だ。
そして首謀者である霞治郎は一言も発することはなかった。
代わりに彼が引き起こした殺戮の現場映像が、その殺害シーンを含めて何回も何回もネットで再生されていった。
一切を語らず、実行のみで結果を示す。
にわかに発生した支持者たちによって、霞治郎の神格化がなされつつあった。
「なんでなんだよ、茜姉ぇ……」嘆きの言葉が洩れ出る。
無差別テロなんて、茜が受け入れるとはとても思えなかった。
そんなことは信じたくなかった。
だが、それが紛れもない事実であるという映像を、この数日間にまざまざと見せつけられてきたのだ。
大地は自らの両の掌をじっと見つめた。
必死に掴もうとしていた全てがこぼれ落ちている。
やっと自分の居場所を見つけ、茜と舞と再び一緒に暮らせるようになったというのに、会社は摘発を受けて消滅は免れない。大切な茜は殺戮の共犯者となってしまい、舞も捕まっている。
しかも、待ち望んでいたはずの翼との再会は最悪の一言。
全てが悪い方向にしか進んでいなかった。
関わる者すべてが不幸になる呪いでもかけられているというのか。
大地は打ち捨てられた気持ちのまま、無意識のうちに立ち上がり、窓辺に立っていた。
意識を閉ざし、ぼんやりと視線を外に向けたまま。
陽が沈み、室内に夕闇が入り込んでいた。
翼もベッドに腰掛けたまま、灯りをつけようとしない。
皇居の向こうに拡がる高層ビル群の煌めきが、宵の空を背に存在感を強めていく。
「大地……」
長い沈黙の末、お互いの顔すら分からないほどに暗くなった室内で、翼の不安そうな声が微かに聞こえる。
ハッとして目を凝らす大地。
「――ッ!」
暗すぎて見えないはずなのに、大地は一瞬だが見えたような気がしていた。
翼の、不安そうな、心配そうな表情を。
生粋の優等生のごとく毅然としている翼とは別人であるような、弱々しい幼少期のように。
「つば……さ!?」
大地は声を詰まらせる。
翼が大地を抱き締めていたのだ。
あの当時とまるで同じ、何かにすがるように、不安から逃れるように。
必死になって大地の存在を確かめたいと願うように。
強く、強く抱きついていたのだ。
真新しい制服の少し固い布地と、女の子らしい甘やかな香り。
熱を帯びた吐息が大地の胸を湿らせる。
大地は躊躇いながらも、やがて両手を翼の背中に回していった。
茜とも、舞とも違う感触。
ちょっとドキドキするような、でもどこかホッとするような、不思議な温もり。
大地はそのまま眼を閉じる。
優しく甘い過去を噛み締めるように。
しばらくの間、無言で抱き合っていた後で、翼がゆっくりと顔を上げた。
不安そうに見上げてから、大地をみて優しく微笑む。
闇に沈んでいた室内だからこそ大地には、はっきりと分かった。
それは、大地の憶えているままの、翼の笑顔だった。
不安定で心配ばかりしていた翼が、抱き合った後に見せる安心した笑みだ。
呆然とした大地はそこで手の力を抜いていた。
すると翼は大地からすり抜けるように、急いで部屋から出ていってしまうのだった。
扉が開くと同時に、隣室からの灯りが闇に慣れた眼に刺さる。
まばゆさの向こうに、急ぎ足で駆け去っていく翼の後ろ姿が、残像としていつまでも残っていった。
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