第13話 魔力の源
株式会社クリーン・スイープ代表取締役の
茜と一緒ということもあったが、大体は大地と一対一だ。
それも人が大勢いる場所にわざわざやって来ては自分だけに声をかけるのだ。
周囲の反応に無頓着な行動にも見えるが、故意にやっていると思えなくもない。
そんな時の社長は、大地がどんなリアクションを取るのか、実に興味津々という眼で観察しているからだ。
「これは……?」
社長から手渡された物体を見て、大地は不思議そうに訊ねていた。
それは銀色の婚約指輪に似た形状のリングだった。
だが人の指にはめるには経が小さすぎていて、またずんぐりと太い。
「超伝導量子干渉計だヨ」
社長は大地をじっと見ながらそう応じた。
「略してSQUID=イカって呼ばれてるケド。量子コンピュータのコアプロセッサってトコかナ?」
「こんな形、してたんですか?」
日常的に装着している量子デバイスではあるが、大地はその構造をほとんど知らなかった。
核となるパーツは、実にコンピュータらしくない指輪状の物体。
「とはいえSQUID=イカじゃあんまりにも情けないンで、研究者たちはこれを“ホビットの指輪”って呼んでいるケド」
「ホビット?」
社長は嬉しそうに語る。
「これはまさしく“ホビットの指輪”と同じだヨ。はめる人間によって福音にもなれば、地獄の鍵にもなりかねないってネ」
社長は大地の掌にある超伝導量子干渉計を指先でつまみ上げ、満足げに見つめる。
どこか陶酔したような眼をしていた。
「罪のないホビットが使えば身を隠す程度のイタズラで済むケド、魔王が手にすれば力の指輪と化して大いなる災厄をもたらすってワケ」
言いながら指先でSQUIDを弄ぶ。
「このリングに超伝導を起こさせるとジョセフソン効果で電流は右回りであると同時に左回りに流れる。量子力学的な言葉で言うと“重ね合わせ”だネ。で、電流が発生させる磁束も当然のように“重ね合わせ”になるンだ。その磁束を量子ビットとして扱っているってワケ」
「はあ……」
「構造のことは難しいかナ?」社長はそこで得意そうに笑う。「ケドいくつか知っておいてもらいたいこともあるンだヨ」
「なん……ですか?」
「まず、量子力学は並行世界の存在を予測しているってコト! 量子力学的な発想では、世界は常に分裂を続けてるンだネ。例えば、今この瞬間も分裂を繰り返してる! 信じられるかナ?」
大地の困惑した表情を満足げに眺めると、社長は続けた。
「で、その量子力学に基づく量子コンピュータもまた、並行世界の存在を前提としているってワケ……」
『世の中のすべてのものは量子力学に従って動いているのだから、その量子力学を使って動くコンピュータを作れば様々なシミュレーションを効率よくできるのではないか?』
量子コンピュータは、かの高名な理論物理学者リチャード・ファインマンの提唱に端を発する。
これが従来型のコンピュータ=フォン・ノイマン型コンピュータと大きく異なる点は、量子力学の奇妙な点――量子の重ね合わせと量子トンネル効果――を使って解を導き出す点にある。フォン・ノイマン型コンピュータが総当たり式に一つひとつの解を出していくのに対して、量子コンピュータはそれら奇妙な性質のおかげで、ずっと少ないプロセスで厳密解、あるいは厳密解に近い近似解に辿り着くことができるのだ。
例としてコインの裏表という極めて単純な計算を挙げる。
1枚のコインを投げた時に表か裏かが出るパターンは考えるまでもなく2通りである。
2枚のコインを投げた時にそれぞれが表か裏かというパターンは2×2=4という、これもまた簡単な結果が導かれる。
では、コインの枚数が100枚あるとどうだろうか。
数式で表せば2の100乗である。
そのパターン数を従来型コンピュータで計算しようとすると、文字通り2の100乗回、つまり約1.27×10の30乗回計算しなければならない。
では、これを量子コンピュータで計算しようとするとどうなるのか?
100の量子ビットがあれば、その答えは一瞬にして算出される。
それぞれの量子ビットは表でもあり裏でもあるという――コンピュータの世界に適用すれば「0」の状態と「1」の状態を同時に取っている――“重ね合わせ”の状態を持つため、瞬時に計算ができてしまうのだ。
また近似解というトラップにはまった場合でも、量子トンネル効果によってさらにエネルギーの低い状態=基底状態へと瞬間移動することができるため、厳密解に近づくことも可能である。
このように量子コンピュータは従来のフォン・ノイマン型コンピュータと比べて圧倒的な速さを有することができるとされていた。
それ故に、数多の科学者たちはこの夢の機械を作り出そうと研究を続けてきた。
人工的な大きい原子“スーパーアトム”、二次元的な疑似原子「量子ドット」、核磁気共鳴を利用した量子ビットによる計算。様々な試みはしかしブレイクスルーをもたらしてはくれなかった。
結局、量子コンピューティングを実現したのは大学や研究機関ではなく、民間企業だった。
カナダD=Wave社が開発した手法、そのコアを成すのが霞治郎社長が手にしている超伝導量子干渉計=SQUIDである。
ニオブという金属で作った、ジョセフソン接合を施されているリング。これを極低温に冷却し、超伝導を発生させる。すると電流の向きが右回りになると同時に左回りになる。電流が生み出す磁束を量子ビットとして扱うことによって、飛躍的なまでの計算力が実現される。コインの表裏というパターンにしても、100枚のコインによるパターン数=2の100乗は理論上僅か一回の計算で解を得ることができる。もっとも、量子コンピュータは確率的な存在であるので、検算が必要になるのだが、それでも従来のフォン・ノイマン型コンピュータと比して圧倒的に速いことが分かる。
「量子コンピュータは並行世界の同位体を利用して計算をおこなっているンだ。この規模が大きければ大きいほど、高速で複雑な計算が可能になる。ケド、並行世界とは本来局所的、つまりお互いが干渉し合わない世界なンだネ。この無関係な世界同士を強制的に繋げてしまうとどうなるかナ?」
「はあ……」
「本来あり得ないコトが強引になされちゃう。それはなんらかの歪みをもたらすってコト」
「歪み……ですか」
「そう、歪み!」社長は嬉々として語る。「で、その歪みがこの四次元時空に負荷を与えてしまうわけだネ」
言いながら社長は、キャビネットから分厚い紙の本を取り出した。
「宇宙ってのはこんな感じなんだヨ。一枚一枚のページが、ボクたちのいる宇宙。膜=ブレーン宇宙なんて呼ばれてる。で、それらがぎっしりと重なり合っているワケ。重なり合っているケド、接触することはないンだ。それが、本来のあるべき姿ナンだネ」
社長は本のページをパラパラとめくる。
「もっとも、これは四次元空間から見た三次元宇宙みたいなモノなンだネ。三次元空間では二次元空間の厚みがゼロであるように、四次元空間では三次元空間の“厚さ”がゼロになる。で、量子コンピュータが膨大な並行世界を巻き込んで処理をおこなうと、この均衡が崩れてしまうワケだネ。規模が一定水準を超えてしまうと……」
社長は引き出しからボールペンを取り出し、大きく眼を見開く。
一瞬の間を持たせ、大地が自分を見ているのを確認してから本のページに思い切り突き刺すのだった。
「――ッ!」
ガンと音を立てたペン先は、数ページ分の紙を貫いていた。
突然の行動に大地が目を白黒させるその前で、社長はニヤニヤとペンを引き上げていった。
ボールペンの先に貫かれたままの四~五枚のページが一緒に持ち上げられる。
大地は意図せずに社長の言葉を継いでしまう。
「部分的に別の宇宙と繋がってしまう……?」
それは、大地が肌感覚で知っていることだった。
大地の膨大な処理スケールは、別の宇宙へと繋がるワームホールを生成していた。
その先にあるのは、宇宙定数があまりにも大きいポケット・ユニバース。
急速に宇宙が引き裂かれるビッグ・リップへと向かう短命な宇宙だ。
そんな宇宙から漏れ出す爆発的な空間拡大のエネルギーこそが、大地の放つ斬撃の正体だ。
「しかも大地クンの特異点は一次元の曲線を描いてる。点状の特異点と違って、その分放出時間が長く、しかも相手にとっては避けにくい動きを見せる。つまりそれだけ処理規模が大きいってことなンだネ」
「それって、珍しいこと……なんですか?」
「もちろん!」社長は浮かれたように指をパチンと鳴らした。「フツウの量子魔法で発生する特異点はゼロ次元の点状なンだ。でもキミの場合それが曲線になってる。コレって驚異的なコトなんだヨ? 小規模だけどあちこちで展開される茜クンの発生パターンもかなりレアだけど、キミはそれを遙かに上回る威力を持ってるンだネ!」
「そうなんで……すか」
「で、その理由って、ナンだと思うかナ?」
大地はフルフルと首を横に振る。
「それはネ!」
得意げな笑みを見せながら、社長はやたら細長い人差し指をピンと立てた。
もったいぶるように数秒の間、息を止めて沈黙を保つ。
「キミの純粋さ、だネ!」
「純粋さ……っですか?」
「トラウマと言いかえてもいいカナ?」
「トラウマ……って、いったい!?」
社長はズイッと顔を近づけて、大地の瞳を覗き込む。
その反応を一瞬たりとも見逃すまいとするがごとく。
「キミの生い立ちに関係があるんだネ!」
「生い立ち……」
大地の困惑に、社長は口角を吊り上げた。
「キミのように深刻な愛情剥奪を経験していると、なにかに囚われてしまう傾向が出てくるンだ! パーソナリティ障害とか言われてるみたいだけどネ」
「……」
「パーソナリティ障害って知ってたカナ?」
ふるふると首を横に振る大地。
「研究によると、幼少期に家族と適切な関係を築くことに失敗したケースが多いらしいネ!」
「――ッ!?」
大地の驚きを吸い尽くすかのように、社長の眼は爛々と輝いていた。
「親から虐待を受けてたとか、逆に放置されてきたとか、異常なまでに厳しく躾けられてきたとか……」
そして小声でこう付け加える。
「あと親が死んじゃったとかネ!」
「(……な、なんでそんなことを――ッ!?)」
大地は思わずその場から逃げたくなっていた。それ以上は聞きたくもなかった。
それは、大地がもっとも触れたくないと感じている部分でもあった。
普段は茜や舞、そして翼への強烈なまでのこだわりの裏側に隠れている、奥底の闇――。
そんな気配を察したのか、社長は立ち上がると大地の両肩をガッシリと掴むのだった。
絶対に逃がさないように、そのやたら細長い指に力が入る。
ニタリと趣味の悪い笑みを浮かべると、やがて声のトーンが上がっていった。
「そんな親との関係性の欠如が人格形成に大きな影響を与えるんだヨ! 友だちができないとか、やたら見栄っ張りになるとか、やる気が極端にないとか、自分が特別視されなきゃ気が済まなくなるとか、自分にまったく自信がもてないとか……イロイロだけどネ!」
その両眼はしっかりと大地を捉えたまま。
「で、このパーソナリティ障害には一つの共通点があってネ。強烈な囚われなんだヨ。なにかに囚われて、そのことしか考えられなくなってしまうことがままあるンだ。常人には生み出し得ない強烈な集中力だヨ。その集中力が量子演算の実行を可能にし、その規模の大きさが空間次元に歪みをもたらす……それが量子魔法使いの正体なんだネ!」
「――ッ!」
「で、恵まれた官僚貴族のコには、そういったトラウマの持ち主は少ない。育ちがいいからネ。親もちゃんと子供の面倒を見てくれる。一方で、このノース・サイドにはまともな子育てができない人間がウジャウジャいる。経済的に余裕がなかったり、まともに育てられてないから子育てをよく知らなかったり、とにかく育児にはリソースを割いていない。で、凄いペースでパーソナリティ障害の子たちを輩出し続けてるってコト。考えようによっては、まさにノース・サイドこそが宝の山なんだネ!」
社長は決め顔でそう言い切ると、大地の肩から手を離した。
「というわけで、続きはまた今度!」
呆気に取られている大地をそのままにして、社長はいそいそと立ち去ってしまうのだった。
机の上に散乱してある本やボールペン、超伝導量子干渉計をそのままにして。
「トラウマが、オレの能力の秘密……?」
にわかには受け入れがたい説明だった。ただ、衝撃で眩暈がしているのも事実だ。しばらくの間途方にくれた後、大地は仕方なく帰路へ就く。
と、背後からかけられてくる絹に包まれたような優しい声。
「お疲れさま、大地さん?」
振り向くと、少し太めの癒し系秘書。
「らいら……さん?」
いつものようにサイズの小さい事務服を窮屈そうに身に纏い、
「遅くまで大変ですね?」そう言って、マシュマロのような双丘を揺らす。
大地が慌てて眼を逸らすと、しかしそんな様子にまるで気付いていないのか、らいらはポケットから包みを取り出した。
「よかったら、どうぞ?」
手渡してきたのは小分けされたチョコレートの包み。
「疲れた時は、甘いものが一番ですよ?」言ってふんわりと微笑む。
大地は言われるがままにチョコレートを受け取った。
「らいらさんも、遅い……ですね?」
「ちょっと失敗しちゃって」言いながら恥ずかしそうに俯く。
そんな彼女の様子を見て、大地は何となく納得してしまう。
仕事での直接の接点はまったくないのだが、そんな大地でさえ彼女のドジッ子ぶりはしっかりと見せつけられていた。
運んできた飲み物をこぼすなど日常茶飯事。来客をまったく違う関係のない部署に案内したり、天下り官僚の郵便物を悉く間違った宛先に送ってしまったり、どうやったらそこまでとツッコミを入れたくなるくらいに情報端末の設定を収拾不能なまでにメチャクチャにしてしまったり。
そしてその度に誰かからこっぴどく怒られているのだ。
大地でさえ、日に最低でも三回はそんな光景に出くわしてしまう。
それによく怪我をするようで、包帯や絆創膏を付けていない日がないと言っていい。
とはいえ周囲から徹底的に嫌われているかというとそうでもなかった。
叱られてシュンとしている彼女を見ていると、何となく慰めたくなってしまう。
天下り官僚たちは、むしろそんな彼女を叱りつけることに喜びすら見出しているようだった。
癒し系という、そこにいるだけで全てが許される特異な存在――
たぶんそんなところが、茜が彼女を嫌う理由なのだろうと、大地は思う。
では自分はどうなのか。常磐らいらという女性に対して大地自身はどう思っているのか?
「あ……」
優しい瞳にじっと見つめられると、思わず頬が紅潮してしまう。
「じゃ、また明日、ね?」らいらは顔のすぐ横まで掌を上げて、ヒラヒラと振る。
年上なのに、ちょっと可愛らしいと思えてしまう仕草だった。
だが一方で、言いようのない違和感も覚えずにはいられない。どこか自分に似ているような、似ていないような……。大地はその正体を掴めずに、首を傾げていた。
ただ、彼女の優しさがどこか救いになっていたのは否定しようがなく、大地は社長の言葉を意識の外に追いやることができていた。
時刻は夜中の十一時過ぎ。高校生ならば補導されても文句の言えない時間帯だ。
人気のない巨大団地を縫うように大地は一人、トボトボと自室へと向かう。
遠くで響く怒声。ガラスが割れる音。悲鳴。しばらくして周囲を包むパトカーのサイレン。
一見静かではあっても、すぐそこには犯罪や不条理が息を潜めているのがノース・サイド。
低所得者たちが集められ、官制貧困ビジネスによって搾取され、その身分は実質的に固定化されている。そんなやり場のない憤りをお互いにぶつけ合う、不毛な場所だ。
それこそが、大地のよく知る故郷でもある。
そんな場所にあっても、大地には大切な身内がいる。茜と舞、そして翼。
「茜姉ぇ、今日もいないな……」大地は独り言を洩す。
いつもは彼の右隣にいるはずの茜が、最近は自分を置いて先に帰ってしまっているのだ。
打倒“ホワイト・メア”に執念を燃やしてはいたものの、茜の不在は大地には堪えるものだった。しかし、茜に文句を言うかというと、決してそんなことはしないし、できもしない。
部屋に届けられていた “オリジナル弁当”を温めもせずに一人で掻き込む。
お世辞にもうまいとは言えない食物を噛みながら、大地は部屋の壁をぼんやりと眺めていた。
その向こうにいるのは茜。
ドアを叩けば、きっと彼女は大地を受け入れてくれるはずだ。
いつものように指で髪を優しく梳きながら。
だが――
同時に不安を感じてしまう。
もし、茜に拒まれてしまったらと思うと、怖くて怖くて仕方がない。体が動くことを拒んでしまうのだ。
茜を失うことなんて、考えられなかった。彼女は、何があっても絶対に失いたくない大切な身内なのだ。だからほんの僅かでも嫌われるようなことはできない。
もし、今彼女が忙しかったら?
大地に構っていられるどころではなかったとしたら?
大地は怯えるように横たわり、丸めた背中を壁に向ける。
「なあ、翼……」
幻想が生み出した存在に話しかけることで、大地は不安を頭の外に置き、自らの精神のバランスを保とうとしていった。
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