第6話 見えない障壁

 霞治郎社長が大地と茜を連れてきたのは、ノース・サイドとウェスト・サイドの境界線。

 会社のある団地棟はノース・サイド南西部の端に位置している。そのため、少し歩いただけでウェスト・サイドとの境目に行くことができた。

「ここって?」

 かつては板橋区と練馬区の区界だった場所だ。

 この場所では一気に風景が変わる。

 濃灰色の巨大な壁面に囲まれている閉塞した空間が一転。広々とした空が開けてきた。

 目の前に拡がっているのはいかにも裕福そうな戸建ての住宅街。それも一軒一軒が大きい造りで、ゆったりとした庭までついている。

「この辺りは北との境目で不人気な場所だったンだけどネ」社長が甲高い声で語る。「そこに目を付けた大手不動産会社が官僚の口利きを使って大がかりな土地買収を強引にしかけた。で、金持ち専用の分譲住宅街を造ったんだヨ」

「はあ」

「見なヨ。あそこの人たち。見るからに金持ちそうだろ?」

 やけに細長い人差し指は、通りを挟んだ向かい側で立ち話をしている住民を指していた。

 だが、大地たちと眼が合うと、彼らは逃げるように家の中に消えてしまうのだった。

「フフッ、感じ悪いネ。コッチの人間に見られただけで穢されるとでも思ってるのかナ?」

「ヤな感じ」茜がチッと舌打ちを一つ。

「ところで大地クンは、」社長は興味津々な眼を大地に向けてきた。「“見えない障壁”って言葉、知ってるかナ?」

「はあ、一応……」

「ウン! 素晴らしい」わざとらしい拍手。「さすが、茜クンの弟分だ」

「そんなぁ」何故か嬉しそうに顔を赤くする茜。

 滅多に見ることのない茜の照れた反応に、大地は首を傾げてしまう。

「それで、その“見えない障壁”なんだケド」

 社長は無駄に指を鳴らしながら、大地の注意を自分に向けさせる。先ほどから気になる仕草ではあったが、どうもそれが社長のクセのようだった。

「例えば、キミがどれだけ真面目に勉強を頑張って優秀な成績を修めてもいい大学には行けないし、大手どころの会社に入ることもできないワケだネ」

「はあ」

「制度上はダレでもドコにでも進学できるし、仕事だって選べるはずなのに、相手側からお断りされてしまうってワケ。学校でトップの成績を取ったとしても、面接でマイナス点が付けられて不合格になるように調節されてしまう。低所得者層出身では社会的な適性が不安だって理由でネ。これがいわゆる“見えない障壁”ってヤツだネ」

「そう……ですよね」

「詰め込み式の受験勉強はヨロシクナイってコトで、入学試験はやる気重視、人物本位にして学力より面接が重視されるようになった。ま、文科省がそう命令しただけナンだけどネ」

「……」

「その結果、却って選考過程が不透明になって、育ちやコネや社会性が重要になったンだ。新卒の就職活動と似たような感じだよネ?」

「そうなん……ですか……」

「そんな傾向がドンドン強くなっていったンだ。裏で手を引いていたのは文科省なンだけド? そしていつの間にか低所得者層、つまり下民は避けられるようになっていったンだネ。入試がペーパーテストだけだったら、下民でも頑張ればどんな大学にも合格できるはずなのに、面接による評価のせいで、すべての可能性が絶たれてしまう。つまり、努力がすべてムダになっちゃうンだネ?」

「……」

「で、それとおんなじような障壁が、今目の前にあるンだヨ」

 意外そうな顔を見せる大地に向かって、社長は意地悪く笑った。

「おかしいと思わないかナ、この景色?」

 言われて大地は左右に視線を向ける。確かに、ある種の違和感はあった。しかしそのことを深く考えようとはしていなかったのだ。だが、

「あ……ッ!」言われてようやく気づく。

 目の前を走っているのは何の変哲もない二車線の道路。

 だが、この道路には見渡す限り――

「横断歩道が……ない?」

「アッタリーッ!!」

 まるで福引きの大当たりが出たかのように、社長は鐘を鳴らすジェスチャーを見せた。

「よっく分かったネ。さすがだネ~~」

 わざとらしく、掌で庇を作ってキョロキョロと左右を見回す。

 クルマが近づいてくるのにお構いなしで車道へ足を踏み入れると、社長はセンターライン上で立ち止まり、くるりと回転してからピエロのように大袈裟なお辞儀をしてみせる。

「ちょうどこのセンターラインが“見えない障壁”ってヤツなんだネ」

 向こう側の車線を走っていた高級車がブレーキをかけて徐行していく。社長はそんなクルマに愛想よく手を振った。

「もちろん、」社長は甲高い声で叫ぶ。「キミはこの道路を越えて向こうに行くことができる。ダレだってそれを邪魔することなんてできはしないンだ! でも……」

 手前側の車線をトラックが近づいてくると、社長は急ぎ足で車道から戻ってきた。

「キミはこの向こうに住むことはできない。ダレも部屋を貸してくれないし、仮にそんな奇特なヒトがいたとしても、今度はボクがキミを雇えなくなってしまうンだ」

「そう……なんです……か?」

 社長はニヤニヤと楽しみながら、大地の反応を注視する。

「ボクの会社はノース・サイドの人間しか雇えないからネ。ウェスト・サイドの人間なんて雇ったら補助金は全部打ち切りになって、事務所の家賃も三倍になっちゃうンだネ」

 ポカンとしている大地の肩を、社長はポンポンと叩いた。

「そんな“見えない障壁”がそこかしこに張り巡らされていて、キミら下民をがんじがらめにしているのサ。上を目指そうと努力しても、その足を引っ張るような制度が盛りだくさん! しかもルールは日々増えていく一方だヨ。……下民のミンナは、言わば鶏卵工場で檻に閉じ込められて、ひたすらエサをついばまされているブロイラーみたいなもんナンだネ。で、気付かないところでアレコレと搾取されてるンだ。鶏が毎日卵を取られていくみたいにネ」

 ひとしきり説明を追えると、社長は満足げに息を吐き、天を見上げる。

 大地の眼にその姿は、自分の言葉に酔っているように映った。

「だからウチらは、この社会を変えなければならないの」

 待ち構えていたかのように茜が後を継ぐ。

「官僚貴族が下民を搾取し、ウチらの身分を固定化させている現状を打破するために」

「うん」大地は強く頷いた。

 聞き慣れた茜の声がきっかけになって、大地の意識は再び茜のみに向けられていく。

「オレ、頑張るよ。茜姉ぇのために、戦う。戦って悪い官僚貴族たちをぶちのめすんだ」

「う~ん、スバラシイ」

 社長のわざとらしい拍手は、もう大地の耳朶には届いていなかった。

 薄闇の迫る初春の冷えた空気に包まれて、大地は茜をまっすぐに見つめていた。

 他の誰でもない、身内である茜のためだけに戦うという決意を新たにして。

 そうできることに、これ以上ない喜びを噛み締めながら。


* * * * * * * *


 その晩から大地は会社の社宅に住むことになった。

 社宅とはいっても、これまでと代わり映えのしない団地の一室で、すぐ隣は茜の部屋だ。

 引っ越しには茜が付いていったのだが、大地に私物はほとんどなく、持ち出すものは僅かな着替えくらいだった。貸与されていた学校の制服とタブレット端末を返却すると、中学生生活の証となるのはちっぽけなメモリーチップのみ。そのチップも大地は躊躇うことなくゴミ箱に入れてしまっていた。

 簡単な書類手続きをすると大地の身元保証人は会社となり、以後大地は公の保護下から外れることになる。

 大地が、そして去年まで茜が過ごしていたのは第四十四互恵ハウス。

 互恵ハウスとは、引き受け手のない子どもを、周囲から選任された者が寮母として面倒を見る養護施設である。通常は一つのハウスに六~七人の子どもが生活しているものなのだが、なぜか第四十四互恵ハウスは大地、茜、舞の三人しかいなかった。十年前に河岸翼という子がいて合計四人だったが、翼が引き取られていった後に別の子どもは入ってこず、また茜が卒業してもそのままだった。今大地がいなくなるとハウスには舞一人となってしまう。

 一つ年下の舞と別れるのは大地にとって耐えられないもので、茜が二人を引き剥がすのに随分と時間がかかってしまった。

 涙目の大地をようやく新しい部屋に引き連れてきた頃には、すっかり夜中になったほどだ。


 最低限の必需品だけが置かれたやけに殺風景な部屋の中、大地と茜は配送ロボットが届けていた弁当を口にしていた。

「この“オリジナル弁当”、安いのはいいんだけど、ホンットまずいわねっ!」

 茜が文句を言いながら、お茶の力を借りて食べ物を喉に通していた。

「寮母さんの食事の方が、まだマシ……だよね」大地も同意する。

 久し振りに食べた“オリジナル弁当”、通称“オリ弁”。

 低所得者向けのバウチャー対象食品で、金額換算ではかなり安価に購入することができる。

 バウチャーとは、要するにクーポンのようなものだが、その使用用途はそれぞれ限定されている。食品用のバウチャーでは食べ物しか購入できないし、衣服用のバウチャーも衣料の購入にしか利用できない。そして、バウチャーの対象となる品目は厚生労働省によって事細かく指定されているのだ。


 国家予算のうち多くを占めるのが社会保障費。そのほとんどが年金である。

 この年金に手をつけなければ財政破綻は避けようがなかった。

 年金受給者の生活レベルを保ちつつ、支出総額を抑える。

 そのために採用されたのがバウチャー制度だった。

 例えば食品であれば、認定を受けている“オリジナル弁当”は優遇価格で買うことができる。一方でスーパーで一つずつ食材を買って自分で料理をしようとすると、優遇措置が適用されない。あくまでも官僚が指定した物品に対してのみ、割引が成り立つのだ。

 しっかりと“精査”された製品が低所得者に行き渡ることで、年金だけでなく生活保護支援も無駄なく効率的に運用される。

 要するに、政府が指定した業者で物を購入すれば、利用者は割引をしてもらえる。

 業者側としても一定の量を捌けるので、薄利多売で利益を上げられる。

 政府としても支払い総額を抑えられるので財政再建に役立つ。

 一見すると三者それぞれに利があり、合理的ではある。

 建前上はいいことずくめで誰も文句は言えない。しかし、だからこそ官僚の思惑が入り込む余地ができる。

 もちろんこのシステムにも、官僚の得意技がいかんなく発揮されていた。

 バウチャー対象認定を受けた企業は一定の、それも少なくない売上が保障される。

 不景気であることがすべての前提というこのご時世、バウチャー認定は企業にとって救いの一手となる。そして企業は認定を取り付けるために官僚に取り入らなければならない。

 官僚側としては、良好な関係を築ける企業に対して、優先的に指定していくことになる。

 裁量行政というヤツだ。

 見返りは天下りを受け入れること。

 そして官僚が威厳を示すために発せられた省令には唯々諾々と従うこと。

 省令や行政指導に物言いをつけるなど、もっての他だ。

 結果、バウチャー指定を受けた企業には、様々な負担が生じることになる。

 高給かつ個室・専用車・美人秘書の“三点セット”を始めとした破格の待遇で天下りを受け入れるのが、その最低限の条件だ。会議費という名目の高額飲食費も発生する。

 当然のように相応の出費が必要となる。

 企業が収支のバランスを取るためには販売する製品のコストを下げなければならない。

 結果、“オリジナル弁当”はサプリメントまみれになって味は極端に落ちる。

 だが、生命維持には必要な栄養が摂取できるので、厚労省的には何の問題もない。

 しかも官僚にとっては先輩たちの再就職先をお世話できるわけで、いいことずくめだ。


「要するに」うんざりとした顔で茜は言い放つ。「貴族たちだけがいい思いをする代償が、このクソまずい弁当ってこと」

「いつもの構図ってヤツだね」

「そうよ」茜はテーブルをドンと叩いた。「“ユニ・ウェア”の服だってそうっ! 安いだけですぐ破れるし、おんなじようなデザインしかないし。こっちだって少しくらいはお洒落したいのに!」

 うんうんと頷く大地。しかし茜も大地も身に纏っているのはその“ユニ・ウェア”の安い服。

 質が悪いことは知っているのだが、実際に買えるのは割引が適用されているバウチャー認定商品だけなのだ。

 制度上選択肢はいろいろあるように見えるが、実質的には一択のみ。

 あれこれと大儀を掲げては少しずつ、まんべんなく国民から搾取していく。

 これもまた、官僚が得意とする手法である。

「ユニ・ウェアにも天下りがいるの?」素朴な疑問を口にする大地。

「聞いた話だと、三十人以上いるって」盛大な溜息で茜が答える。

「そんなに?」

 自分の給料から計算しても、まったく見当のつかない金額が動いているのだ。

 大地は怒りを覚える前に、激しい目眩を感じていた。

 彼ら貴族は、どこまで強欲になれば気が済むのだろうか。

「ま、それはさておき」

 茜が正座をして、掌で腿をパンパンと叩いた。

 スポーツブラを外している今、豊かな胸がたゆんと揺れる。

 その仕草に大地は顔を綻ばせると、茜の腿に頭を乗せるのだった。

「よしよし、いい子ね」

 弾力のある太腿に頬を埋め、大地は飼い猫が甘えるように眼を細める。

「茜姉ぇ……」

 茜は慈愛に満ちた表情で耳かきを手にすると、大地の耳掃除を始めていった。

 大地の耳掃除は茜がする。それは茜が勝手に決めた、というより一方的に宣言したハウスにおけるルールで、かれこれ十年近く続いていた習慣だ。一年前までの大地にとってそれは当たり前の行為になっていたのだが、茜はいつも嬉しそうにしていた。

 それは大地のためというよりは、むしろ茜自身のための行為とも言えるほどだ。

 久し振りに左手で大地の赤く柔らかい髪を梳きながら、茜はうっとりと感慨に浸る。

 大地を甘やかせるのはウチだけ……そんな満足感を味わいながら。

 やがて聞こえてくるのは大地の控えめな寝息。

「舞には悪いけど少しの間、大地を独り占めね」と言って微笑む。「すこし、だけどね」

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