第5話 世界線

 赤羽大地あかばだいちは初めて装備した量子デバイスで魔法を放った。

 かなり強い反応であったはずなのに、目の前にあるトルソーは無傷のまま。

 その結果に困惑する豊島茜とよしまあかねと研究員たち。

 しかし社長の霞治郎かすみじろうはただ一人、気味の悪い笑い声を立てているのだった。


「いったい、なにが……?」

 茜は肩を震わせている社長の背中を見つめていた。どう反応していいか分からなかった。

 社長はそこでゆっくりと振り返る。

 右手はトルソーの喉元に触れたままだ。

「見なヨ」

 そのやたら細長い人差し指が指す場所を、茜は眼を凝らして見つめる。

「こ、これって……!?」

 特殊強化プラスチックで成形されたトルソーの喉元から右脇にかけて、緩やかな曲線が刻み込まれていた。

「これは、いったい?」

 茜は訝りながら、トルソーの背後に回り込む。すると、たった今見たのと同じ曲線が、しかし左右反転して描かれているのだ。次に、恐る恐る背後の壁面に眼を向ける。

「――ッ!!」

 五メートルは離れている壁面にも、同じような曲線。

「コレは、コレはコレはコレはコレは――ッ!」

 奇声を上げながら、社長が走り出していた。

 茜たちも慌ててその後を追う。

 彼らはオフィスを出て、壁の向側にある中央通路に出ていた。

 他企業のトラックが不吉な吃音を立てながら進むすぐ脇で、社長はすぐに見つけ出していた。

 壁面に走る、不自然な曲線を。

 それは確かに特殊強化プラスチックのトルソーを切り裂き、それだけでは物足りないとばかりに背後の壁面まで貫いていたのだ。

 だが、威力がピンポイントに絞られすぎたせいで、まるでカミソリで斬りつけたような筋を残しただけになっていた。だから言われなければその破壊力は意識することさえできない。しかし、その断面を見ればあまりに綺麗に切断されているのが分かるはず。

 もしトルソーが人体であったなら、気道と脊髄が一瞬で切り裂かれ、絶命は免れない。

 衝撃を受ける茜たちのすぐ横で、霞治郎社長はクックッと笑い声を洩らしていた。


 研究室に戻った社長たちを待ち構えていたのは、それまでずっと無言を貫いていた主任研究員、西台高志にしだいたかしの青ざめた表情だった。

「これを」

 社長は渡された端末の画面を不思議そうに見る。

「初めて見るパターンですね」

 無精ひげにボサボサの髪。黒縁メガネといういかにも研究員然とした西台は、静かに声を震わせると、驚きの視線を大地に一瞬だけ向ける。

「通常、魔力を放出する特異点は空間の一点のみに存在していますが」

「ウンウン」社長は早く言えという表情で続きを促す。

「彼の場合、この特異点が曲線を描いて移動しています」

「それって?」

「どのように移動するのかはこれからの解析を必要としますが、点状であるものが一次元の曲線を描くということは……」

 西台は言い淀んだものの、社長の視線に促されて続けていく。

「とてつもない威力の発動が可能であるという潜在性を意味しています。これはつまり、同一魔法の連続使用と解釈してもいいかと」

「素晴らしいッ!」社長が両眼を見開いて陶然とした笑みを浮かべる。「実に素晴らしいじゃないカ?」

 そしてパチパチパチと一人、大袈裟に拍手をするのだった。

「我が社創設以来の大型新人は、ヤッパリ違うんだネ、茜クン?」

「は、はあ」

 困惑気味に茜が応じるすぐ隣で、主任研究員の西台は頭の中を整理するように語る。

「茜くんのように特異点が不確定な位置に存在するのとはまた違う、はっきりとした移動です」

「ほ、ほう?」歓喜に満ちた社長の視線。

「なんとういか……」西台は顎に手を当ててつい感想を洩らしてしまっていた。「これは、ファインマン・ダイアグラムの世界線のような軌道、ですね」

 そんな独り言に社長がピクリと反応を見せる。

「世界線――ッ!!」社長は素っ頓狂な大声で叫んでいた。「世界線ッ!」

 あまりの大声にその場にいた全員がぎょっと目を剝ける。

 社長は両眼をカッと見開いたまま、一人悦に入ったようにウンウンと頷いた。

「これでキマリだネ!? カレのコードネームは“世界線”で決定――ッ!」

 周囲を置いてきぼりにして歓喜に浸る社長と、そんな彼を前にひたすら困惑し続ける研究員たち、そして茜。たった一人その場に取り残された大地が茜の袖を引っ張る。

「茜姉ぇ……」不安そうに囁いていた。「オレ、なんか悪いことしちゃったの?」

 茜は心配顔の大地をバカねと笑う。

「ううん。むしろその逆よ」

 不思議そうに頭を傾ける大地。

「つまり、アンタには凄いチカラがあるってこと」

「じゃ、じゃあ。オレ、茜姉ぇの役に立てるの?」

「ウチどころか、みんなの役に立てるのよ」

 不安に震えていた大地はようやく状況を理解して、柔らかく微笑んだ。

「オレ、茜姉ぇを助けられるんだね」

 今この瞬間、大地の視線が捉えているのは茜の姿だけになった。

 社長も、そして研究室のスタッフも彼の意識から外に置かれてしまっていた。

「よかった――!」

 大地は深緑色の瞳を揺らした。嬉しくて嬉しくて、しかたないのだ。

「オレ、茜姉ぇの役に立てるんだ!」


* * * * * * * *


 検査が終了すると初日の勤務は終了になっていた。

 気がつけば夕方。大地が思っていた以上に時間が経過していたようだった。

 作業服から着替えた茜と一緒に会社を出た大地は、エレベーターに乗ろうとしていた。

 荷物の運搬にも使用するエレベーターは一つひとつの動作が緩慢で、到着するのに時間がかかる。さんざん待たされた後で、ようやく乗りこもうとした時、

「どきたまえ」

 故意に人の感情を逆撫でするかのような、威圧的な声が背後から発せられた。

 二人が驚いて振り返ると、そこにいるのはスーツ姿の初老の男。

 中肉中背で頭には白髪が目立つ。

 男は大地と茜の間に割って入るように突き進むと、そのままエレベーターに乗りこんだ。

「ゴホン」

 二人が後に続こうとすると、それを制するかのようなわざとらしい咳払い。

 同じ空間にいるだけで不快だと言わんばかりの態度だった。

 状況を察した茜はそこで大地の肩を掴み、脚を止めさせた。

「お疲れさまでございました」

 深々と頭を下げたのは、昔風の事務服を身に纏った若い女秘書。

 男はそんな挨拶をあっさり無視して、そのままドアが閉じていく。

 エレベーターが動き出した音が鳴り響き、そこでようやく秘書の女は顔を上げるのだった。

「新任の上級副所長代理の方です」聞かれもしないのに大地たちに説明をする。

 絹に包まれたような柔らかい声だった。

 大地は、その足首に巻かれた包帯を認めて、それが社長室でコーヒーを出してきた秘書だと知った。

常磐ときわらいらです」女は愛想良く自分の名前を告げた。「らいらは、平仮名でらいらと書きます」

 茜はムスッとした表情を浮かべて大地を親指で指した。「赤羽……大地」

「よろしくお願いしますね、大地さん?」

 らいらはにっこりと親しげな笑みを見せる。

「は、はあ」

 大地はそこでようやく秘書の女を正面から見ることができた。

 肩先にかかるくらいの長さで切り揃えられたおかっぱ頭に、優しそうな瞳。

 昔風の事務服はサイズが二つか三つ小さいのか、立っているだけではち切れそうなほど。

 紺色のベストの奥でやたら窮屈にしている双丘は超という形容が似合うほど立派だ。

 少々太めの脚が、不自然なまでに短いタイトスカートから伸びている。

 愛嬌のある笑顔を絶やさない、見るからに癒し系という雰囲気。

 いかにも天下り官僚が喜びそうな容姿と言動――らいらは茜と同じ時期に入社した重役秘書である。タイミング的には同期と言ってもいいが、彼女は他企業からの転職で、歳は茜よりいくつも上である。

「えっ? 副所長……代理?」

「上級副所長代理、です」らいらは茜の言葉を優しい声で訂正する。「先週ご就任なされました」

「そう」しかし茜の反応は奇妙なまでに素っ気ない。

 大地の視線の先が不快であるかのように、茜は大地の赤い髪を引っ張った。

「階段でいくわよ、大地」

「お疲れさまでした、茜さん、大地さん」

 らいらは意に介さず笑みを浮かべたまま。

 大地は戸惑いながらも茜に従って後に続いていった。


 無言のまま手を引かれて大地は階段を降りていく。

 コンクリート剥き出しの壁面に、床に積もった埃。

 窓はなく、頼りない照明だけの薄暗い階段室に茜の足音が大袈裟に響いていた。

「ったく、腹立つわね」

「……茜姉ぇ?」

 急ぎ足で三フロア下った踊り場で、茜は急に立ち止まる。

「いったい、何様のつもりよ、あの天下り官僚っ!」

「あ、さっきの……。えっと副所長……なんとか?」

「そう、それ」茜はビシリと大地を指さす。「どこの役所から来たか知らないけど、感じ悪いったらないわよね」

 大地は控えめに頷いた。

「どいつもこいつも、威張りちらして、あったまきちゃう!」

 アマゾネスと表現されるワイルド系の美形が、やり場のない憤りに燃えていた。

「大地、アイツらはクズよ。会社にたかる寄生虫なんだから」

「う、うん……」

「アイツら一人にどれくらいのお金がかかってるか、分かる?」

 大地はブンブンと首を横に振った。

「天下り一人の給料で、アンタが十人は雇えるのよっ!」

「そ、そんなに?」

 中卒の入りたてだから、大地の給料はたいしたものではない。とはいえ、その十倍であればかなりの贅沢ができてしまうはずだ。

 茜はぎりっと歯を食いしばってから再び口を開いた。

「高い給料だけじゃないのっ! アイツら、バカの一つ覚えみたいに『個室』、『運転手付きの黒塗り高級車』あと『若い美人秘書』の三点セットがないとダメなんていって会社にそれを要求してくるのよ。それと信じられないくらいの飲食費もねっ! 仕事なんてなにひとつしないくせに――っ!!」

「……」

「その費用だけでもアイツらの給料と同じくらいかかってるの。つまり、あのクソ一匹でアンタが二十人は雇えるってことね」

「そんなに――ッ!」あまりの金額の大きさに、大地は絶句する。「なんで、そんなの雇わなくっちゃなんないの?」

 一転して大袈裟な溜息を漏らすと、茜は応じた。

「入社したばっかりのアンタに言うのもなんだけど、その天下りを受け入れることで会社は役所から優先的に仕事を割り当てられているの。それが、急成長の理由なんだけど。……でも、百人程度の会社で天下りが十人もいるって、どう考えても異常よね?」

「そんなにいるんだ」大地はまたしても驚きに包まれる。

 そして思い出す。社長室の近くになって、オフィスの様相が一変してゴージャスになっていたことを。

 やけに金のかかっていそうな調度品の数々は、天下り官僚用を遇するための装飾なのだ。

「おかげで会社はあり得ないほどの勢いで成長してるし、役所の便宜で競合相手がバタバタと潰れてる」

「それって、天下りの口利きってヤツなの?」

 茜はそうねと頷いた。

「本当の活動の、隠れ蓑としてもこれ以上ないんだけど」

「うん……?」

「でも、あんなのと毎日顔合わせなくっちゃなんないって……」

 斃すべき天下り官僚。だがそのおかげで会社が潤い、反体制活動の原資を与えてくれている。そればかりか、テロ行為の隠蔽にも役立っているのだ。加えて、万が一会社が疑われるようなことになっても、天下りたちが穏便に捜査の矛先を変えてくれることさえ、期待できるという。

 敵そのものを利用している社長のやり口はさすがの一言ではあるのだが、感情的には受け入れがたいものがあった。茜はやりきれない思いに歯噛みする。


「茜姉ぇ、あの秘書の人、嫌いなの?」

 話の流れを無視して唐突に、大地はそんなことを訊ねていた。

「えっ?」茜は思わず驚きを顔に出してしまう。

 大地が誰か他人に興味を持つなんて、茜の知る限りこれが初めてのことだった。

 それに、たった今天下り官僚について毒づいていたのに、大地は自分の憤りに共感さえしていない。

「社長室にあの人が入ってきた時も、茜姉ぇ不機嫌な感じだったし」

「そ、そう?」

「それに、ついさっきもあの人のこと、凄い勢いで睨んでた」

「そう……ね」茜は観念したように肩を竦ませた。「実際、あの女のこと、嫌いなんだけどね」

「どうして?」純粋な疑問を大地は口にする。

「あの、いかにも私は無力です、守ってくださいって甘えた感じが、なんか許せないのよ」

「……そうなんだ」

「胸が大きいだけで、男どもからチヤホヤされて、ホント、ヤなのよね」

「茜姉ぇだって、胸大きいのに……」

 直後、大地の頭に茜の拳が叩き込まれる。

「い、いったぁ」大地はそのまま俯いて反省する。「胸のことも、言っちゃダメだった……よね?」

「そうよっ!」茜は強い口調のまま。「特に、舞の前ではゼッタイ言っちゃダメだからねっ!!」

「うん、そうだったね」

「ゼッタイだからねっ!!」

 何故そこまで強調するのか疑問に思うのだが、深くは考えないことにする。

 茜の言うことは、舞の言うことと同じようにゼッタイなのだ。

 だから大地は、どこか不思議に感じたとしても疑おうとすることはない。

 大地はそこでさらりと付け加えた。

「じゃあ、オレもあの秘書の人、嫌いになるから」

 透明な笑みでそう口にする。当たり前のように、決めごとであるように。

「茜姉ぇの敵は、オレの敵。茜姉ぇが嫌いな人は、オレも嫌い」

「ちょ、ちょっと」茜はそこでようやく過ちに気がつく。

 とっくに気を遣っているべきだったのだ。

「アンタまであの女を嫌う必要なんてないのよ」

「なんで?」

 そう応じる大地の顔は、まったく理解できないという不思議そうな表情。

 自分にとっては当然のことを言っただけなのだ。

 茜は大きく溜息をついた。

「えっと、いい大地?」

 好戦的な表情を消して、茜は説得するように優しい眼を向ける。

「アンタが誰を好きになって、誰を嫌いになるかは自分自身で決めなきゃ。これからは、そういうこと、ちゃんと意識するようにしなさい」

「……うん」大地は難しい顔をして応えた。「やって……みる」

「それでいいのよ」茜は自分の迂闊さを後悔しながら歩き始める。

「でもオレ、茜姉ぇが大事だから」

 独り言のような呟きに、茜は立ち止まって目を細める。

 そんな、普通なら恥ずかしい言葉を臆面もなく出せてしまう大地の素直さと優しさ、そして一途さに、彼女はいつも心乱されてしまうのだ。

「バカね、アンタって……」

 言いながら茜は照れ隠しに大地の頭を優しく抱き、赤い髪を指で梳く。


 茜の温もりに包まれながらも、笑みを浮かべる大地。

 だが同時に、大地の深緑色の瞳は困惑に染まっていった。

 らいらのことがつい気になってしまうのだ。

 優しそうな感じがした。脚の怪我はどうしたのだろう? だがそれ以外に引っかかって離れない。何か――自分自身と共通しそうな何かが彼女には感じられたのだ。

 こんなふうに、誰かに興味を持つことに、大地は慣れていなかった。

 だから、茜に「嫌え」と言われた方が、よっぽど楽なのだ。


「ヤァ、お疲れサン!」

 そこで不意に背後からかけられてきた軽薄な声。驚いて振り返ると、

「しゃ、社長!?」茜が思わず甲高い声を上げてしまう。

 胡散臭いスーツを着た霞治郎社長が、フレンドリーな感じで両手を拡げていたのだ。

「ちょっと、いいかナ?」

 役者のような完璧な笑顔と、大げさな素振り。社長は長身には似合わない軽快な動きで二人の背中に手をかける。

「少し話をしようヨ?」

 言いながら、有無を言わせずに二人をやんわりと押していく。

「は、はあ」なされるがままの大地。

 その横では普段の男勝りな雰囲気はどこへ行ったのか、妙にしおらしく頬を染める茜。

 社長はニヤニヤと笑いながら二人を押していった。

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