第26話

「なんなんだよ、あの女は」

 おれはカーテンを閉めると、その場でうずくまった。

 あの女がおれの後をつけているのを知ったのは三ヶ月前。初めはトイローズの間者だと疑い、しばらくつけさせていたが、どうも違うようだった。あの女はおれが捨てたペットボトルをゴミ箱から取り出し、持ち帰ったりしている。あれは完全なストーカーだ。

 それから毎日、あの女の視線を感じながら街を歩いている。トイローズに吸収されたダチュラメンバーの動向を探るために徘徊しているのだが、気が散ってそれどころではない。

 初めてあの女がおれに接触した日、おれが高圧的な態度を取れたのはマンドレイクのみんなの前だったからだ。おれ一人で女に声をかけることなんかできっこない。でも、このままだとおれはおかしくなってしまう。家の中でさえ、視線や気配に怯えている。もうダメかもしれない。

「凛太おぼっちゃま、少しよろしいでしょうか?」

 健人さんがおれの部屋の扉をノックした。

「あぁ、どうぞ」

 真っ暗の部屋でうずくまっているおれを目視した健人さんは、燭台にろうそくをさし、火をつけた。

「ロウソクの火は心を穏やかにしてくれます。それにこの程度の明かりなら外へは漏れません。早速なのですが、あの女性と話をしてまいりました。彼女の主張は大変興味深いものでしたよ」

 おれの目の前にロウソクを置き、おれの隣にしゃがみ込んでそう言った。

「十二月三十一日までの記憶は、一月一日になった瞬間に失い、記憶が書き換わると言っていました。そして三年前に凛太おぼっちゃまと彼女が出会い、お互いに想いあった。そして年が明け、記憶を失ったおぼっちゃまは、また彼女に一目惚れをし、再びお互いを愛した。そしてまた年が明け、記憶を失ったおぼっちゃまを探し出し、自ら接触した。と、おっしゃっていました。にわかには信じられませんが、もしそれが本当のことだとしたら、大変興味深いと思いませんか?」

「健人さんは、その可能性があると思ってるの?」

「ゼロパーセントとは言えませんね。なぜなら私にはずっと疑問に思っていたことがあるんです」

 健人さんは視線を落とし、おれの手を見つめた。

「凛太おぼっちゃまは、いつからそのような指輪を着用されるようになったのですか?」

 そう言われ、改めて指輪の存在に気がついた。左薬指にはめられたオレンジ色に輝く指輪の入手経路に思い当たる節がない。

「確かに、おれ、こんな指輪を買った記憶も、もらった記憶もない。それに今言われて気がついたよ。なんで指輪をしていることを不思議に思わなかったんだろうって。今まで一度も外そうとすらしなかった」

 そう言って、おれは指からリングを外し、じっくりと眺めていると、健人さんが指輪を手に取った。

「おぼっちゃま、確かあの女性は旭かすみと名乗ったのですよね?」

「あぁ、確かにそう言ってた」

「これをご覧ください」

 健人さんが指輪を少し傾けておれに見せた。そこには刻印が刻まれており〝K to R〟と記されている。

「かすみから、凛太へ。という意味に取れますね。となると、彼女の仮説が現実味を増してきますね。この指輪は過去二年の間に彼女からプレゼントされ、今ここにあると……」

 確かにそうだったとしたら、この指輪の存在に納得がいく。外そうとしなかったことも、潜在意識に眠る記憶の断片がそうさせたのかもしれない。それに、おれにとっては何の所縁もない場所が妙に気になったりすることがあった。何かを思い出しそうな、もどかしい気持ちになる。

「仮に彼女が本当のことを言っているとしましょう。今年の初め、彼女が凛太おぼっちゃまに接触した際、おぼっちゃまはトイローズの間者だと疑い、高圧的な態度を取った。彼女が過去に二度、おぼっちゃまを失っているのであれば、今年おぼっちゃまを見つけたときにはさぞかし興奮し、とても幸福感と安堵感に包まれていたことでしょう。それをおぼっちゃまが怒鳴りつけた。本来のおぼっちゃまはとてもお優しい方です。過去二年間でおそらくおぼっちゃまは一度もそのような表情や言動を彼女にしなかったことでしょう。だから、そんなおぼっちゃまを見て、彼女の精神は壊れてしまったのではないでしょうか? 相手が自分の記憶をなくしてしまっているという事実はとても残酷なものです。もし凛太おぼっちゃまが私をお忘れになったら、私はとても悲しく感じるでしょう。それでも、また新たな思い出を作ろうとするかもしれません。そしてまた共有できる思い出がたくさん作れた頃に、またリセットされる。巨大なジクソーパズルを完成間近にバラバラにされ、また作り直す作業がずっと続くと想像すると嫌になりますね」

 もし、本当にそうなんだとしたら、おれは何の罪もない女性を傷つけてしまったことになる。


『そんな……どうして? どうしてそんな怖い顔で私を見るの? あの優しくてあたたかい私の凛太くんはどこに行ってしまったの? 凛太くんはそんな人じゃない。いつだって正義を貫いて、大切な人を大切なものごと守るって、言ってたのに……そんな顔で見られたら、私なにも言えないよぉ』


 目に涙を浮かべ、必死にそう言っていた彼女を思い出した。今思えば嘘をついているようには思えない。それに、おれはあのときの彼女の表情を見て、少し心が痛かったんだ。マンドレイクのみんなの前だったから虚勢を張ったが、あのときの彼女の様子と、おれをつけまわす彼女の様子は全く違う。おれがあのとき、彼女の心を壊してしまったのだろうか。

「確かにこの指輪の刻印が、必ずしも〝かすみから凛太へ〟という意味だとは言えません。しかし、身に覚えのない指輪の存在がそうであると主張しているようにも思います。さぁ、どうなさいますか?」

 そう健人さんがおれに訊いた瞬間、外から女性の叫び声がした。

 何事かと、急いで部屋を出て、玄関の扉を開く。暗くてよく見えないが、門の外に黒いスーツを着た大男が二人いた。

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