第23話

 私は今、去年の今頃の自分を思い出していた。

 凛太くんは、アイスを買いに行くと言って帰ってこなかった。私は自分のアドレス帳から彼の名前が消えていることを知り、家から飛び出した。結局、凛太くんは姿を消し、記憶喪失となって帰って来た。

 もう、二度とあんな思いはしたくない。あんなに悲しくて、寂しくて、凛太くんと出会ったことを憎んで、何もできない自分を恨んで、不条理なこの世界を呪って……。

 だから私は今、BIM内のアドレス帳を開き、凛太くんのIDを注視し続けている。もう失いたくないという思いが、強迫観念のように私をそうさせる。

 さっきまでやっていた音楽番組が終わり、テレビから除夜の鐘の音が鳴り響き、ふと視線をテレビの方へ向ける。百八回目のその鐘の音が、徐々に静寂と混じり合う。私にとって、この音はただ不安を掻き立てるだけの雑音でしかなかった。そんなことを思いながら、ふとアドレス帳へ視線を戻すと、私は恟然とした。

「うそ……でしょ?」

 両手で頭を抱え、無意識に声を漏らした。

 私のアドレス帳から、凛太くんのIDが消えていた。

「うそよ。ねぇ、うそなんだよね? 何かの冗談なんだよね? また……また去年と同じ思いをしなきゃいけないの? どう……して……」

 誰に投げかけた言葉なのか、そんな自分を理解することすらできず、全身の力が蒸発するかのように抜け、私は床に崩れ落ちた。悲しみを通り越した絶望が、津波のように私に押し寄せる。その波に飲まれた私は息をすることも、目の前の景色を見ることも、悲しみに明け暮れることすらできずにいた。ただこの現実を受け入れることを拒み続けている。

「ねぇ、私、何か悪いことしたのかなぁ? どうしてこんな思いをしなきゃいけないの? ねぇ、凛太くん……助けて……苦しいよ。胸が痛いよ。寂しいよ。早く……助けに来てよ。凛太くんはいつだって助けに駆けつけてくれるじゃない。私を、私の大切なものごと守るって、そう言ってくれたじゃない。凛太くん……私、今こんなに悲しいんだよ。すぐに帰ってくるって……言った……のに」

 溢れでる涙をこらえようとすればするほど、悲しみが溢れかえる。あのあたたかく包み込むような彼の眼差しを想像するほどに、今自分が孤独であると認識する。

 もしまた凛太くんが記憶を失って帰って来ても、私との二年間の思い出は帰ってくることはない。あんなに楽しくて、充実していた思い出を共有することはできない。私のことを忘れた彼に会うのがとても怖い。私にとっての現実は、彼にとっての虚実であるのだから。

 ふと窓の外を見ると、棉のような雪がふわりと舞っている。それはまるで時間が巻き戻ったかのようで、去年と全く同じに見えた。そしてふと、稚拙な仮説がよぎった。それは〝時間が巻き戻っているのではないか〟ということ。年が明けたのであれば二○三○年のはず。私はBIMの衛星電波時計で日付を確認した。しかし、そこには二○三○年と確かに記されている。時間が巻き戻ったという仮説は間違っていた。ならなぜ? と思考を働かしていると、BIMに着信が入った。

「あけおめぇ~。かすみっ、こっとヨロォ~。今年の抱負は、一汁三菜を心がけるだよぉ」

 底抜けに明るい声で、レンがそう言った。そんな明るいレンがとても疎ましく感じてしまった。

「ごめん、レン。私、今それどころじゃないの。凛太くんがまた……消えちゃったの……」

 そう言った私へのレンの返答を聞いて、私はまた新たな仮説にたどり着いた。

「へっ? 凛太くんって、誰?」

「レン、あなたまさか、覚えてないの? 人身売買組織に拉致されて、それを凛太くんに助けられたんだよ?」

「なにそれぇ~? かすみ、漫画の読みすぎだよ~」

 新たな仮説。それは私以外の人間は年が開けるごとに、去年の記憶が全てなくなり、リセットされる。だとすると、街で須藤くんに会ったときに無視されたことに納得がいく。レンに謝っていた須藤くんが、私の方を一度も見なかったのは、凛太くんと一緒に私を助けてくれた記憶がなくなっていたから。凛太くんと同様、去年の記憶を失っている。

 なら、なんで私だけ? なんで私はずっと覚えてるの? それに、どうして私はレンとの記憶を失ってるの? 私だけが記憶を失わないのだったら、レンの記憶の中の私は、嘘の記憶。書き換えられ、植え付けられた虚実。そう考えれば、全て納得がいく。私の仮説に一本筋が通る。

 でも、誰がそんなことをするのか。誰がそんなことをして得するのか。それはわからなかったが、一つだけわかったことがある。それは、待ってるだけじゃなにも始まらないということ。

 記憶を失った凛太くんを、自分の足で迎えにいく。今度は私が凛太くんを守ってあげる。そう決意した。

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