第12話
朝めざめ、いつものように歯を磨き、髪を整え家を出る。梅雨も明けすっかり太平洋高気圧に覆われた青い空には、城のような入道雲が動いていることを主張することなく浮かんでいる。蝉の協奏曲に耳を傾けながらレンガを積み上げたような外壁のマンションのエントランスをくぐり、エレベーターで十二階を目指す。扉が開かれ、足を踏み出す。端から六つ目の部屋のドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開く。嗅いだだけで夢見ごごちになるようなふわっとした生活臭が鼻をかすめる。
「おはよー、凛太くんっ」
キッチンからひょっこりと顔を出し、柔らかな表情でかすみが言った。
おれはこのかすみの顔がとても好きだ。新しい一日がやってきたのだと実感できる。この顔を見ずして一日は始まらない。
「おっはよぉ~、凛太くん! いやっ、川津先生っ!」
起きたばかりであろう、レンがボサボサの頭でそう言った。レンはあれからずっとかすみの家に住み着いている。夏休み中、ずっとここにステイするらしい。実際、記憶を失ったかすみとレンとの間には再び友情が芽生え始めている。そのことに関してはとても喜ばしいのだが、おれとかすみの二人だけの時間がなくなってしまい、少し不安を感じている。かすみがまだ本当におれのことを愛してくれているのか、気になって仕方がない。
「おはよう、レン。頭すごいことになってるぞ」
「そうよ、レン。男の子の前でみっともないよ」
かすみが母親のような雰囲気を醸し出しながらレンの髪を指でとかす。
「いいのーっ、凛太くんの前でかわい子ぶったって、凛太くんはかすみの物なんだからっ」
「それは……そうなんだけどねっ」
かすみが少し顔を赤らめ、上目遣いでおれを見た。そんなかすみを見ておれは少し照れながらも微笑んだ。
かすみが作ってくれた朝食をすませ、早速レンの宿題の手伝いを開始する。
「フゥー、凛太くんのおかげでようやく宿題が終わりそうだよぉ」
両手を頭の上で組み、大きく伸びをしてレンが言った。
「レンの学校って、スパルタだな。こんなに沢山宿題を出されたら夏休みなんて一瞬で終わっちまうな」
「あれっ? 凛太くん、知らないの? レンの通ってるインターナショナルスクールって、夏休み九月の半ばくらいまであるんだよ」
キッチンで皿を拭きながらかすみがおれにそう伝えた。
「マジかよっ! いいなぁ~、羨ましいなぁ」
「なに言ってんのっ、凛太くんはずっと学校行ってないじゃん。それで怒られない方が羨ましいよ。凛太くんのお母さんは怒らないの? それともこうやって学校行くふりしてかすみの家に来てるってことは、バレてないの?」
「おれに母親はいないんだ。おれを産んで、すぐに死んだらしい。親父はいるけど、家にはいないんだ。それに、親父はおれの学歴なんか興味ないだろうし。受験して入学したのも、自分の力を試したかっただけなんだ」
「へぇ~、なんかすっごいね。だったらなんでいつも夜に帰って、朝になったらまた来るの? 家に親がいないんだったら、もうここに住んじゃえばいいのに。ねっ、かすみっ」
レンはねっとりとした不敵な笑みを浮かべ、かすみに投げかけた。そんないやらしい意味で放たれたレンの言葉は、かすみの純情フィルターで濾過されたようで、「ほんとだよ。そうすればずっと一緒に居られるのに」と言った。
おれもそうしたいのは山々だ。しかし、おれには絶対に知られてはいけない秘密がある。それをかすみに知られたくないから家に帰る。なんと言い訳をしたらいいものだろうか……。
「いやぁ~、ペットに餌をあげなくちゃいけないから……」
これ以外、無難な言い訳が見つからなかった。するとかすみが興味津々の表情で訊いた。
「えっ? 凛太くん、ペット飼ってたの? なになに? 猫ちゃん? ハムスター?」
まずいな、ここでモフモフ系の愛らしい動物を言ってしまうと〝連れてきてここで一緒に飼おう〟という流れになってしまう。
「えっと、その。ヘビとヤモリ」
と、そう言った途端、レンとかすみが同時に壁に張り付いた。
「ぜっ、絶対っ、連れてこないでね」
これはおれにとって、結構な賭けだった。レンはともかく、かすみは突如意外な行動をとることが多々ある。部屋に出没したゴキブリを、殺さずにティシュで掴み取り、逃がしてやったり。結構な大きさの蛾を素手で掴んだりしたことがあった。だから爬虫類に対しても抵抗がない可能性があったのだが、虫が平気な人でも蛇だけは苦手だという人は結構いる。かすみもその内の一人だったわけだ。
ようやく宿題が片付き、昼食の相談をしていた。
「ねぇえ~、お腹へったよぉ~。もうなんか食べに行こうよぉ~」
レンがテーブルに右頬をつけ、隣に座っているかすみを注視している。
「う~ん、そうねっ。なにか作れるほどの食材はなかったし、今から買い物に行って作ったら時間かかっちゃうもんねっ」
「私、かにみそバーガー食べてみたいっ。あれ、大阪じゃ売ってないんだよ」
顔をあげ、嬉しそうに舌なめずりをしているレンにおれは言い放った。
「やめとけ、レン。あれ、めちゃめちゃに不味いから」
「えっ? あれって不味いの? 私食べたことなくって」
かすみがあっけらかんとした表情でおれに視線を向ける。
「かにみそバーガー食べたことないのに、人にかにみそバーガーを勧めてたのかよっ。あんなのただ生臭いだけだよ」
「でも、凛太くん美味しそうに食べてたよね?」
「それって、去年のおれなんだろ? 記憶にございませーんっ」
「おいおいお二人さんっ、痴話喧嘩はそこまでにして、とりあえず街へ出ようよ。ぶらぶらしてー、なんとなくで決めよう。さっ、しゅっぱーつ」
レンが勝手に仕切り、おれたちはそれに従うことにした。
太陽は今、最も調子に乗っているようで、これみよがしに熱い日差しをおれのつむじを突き刺す。息をするのも辛く感じる暑さの中、涼しげに歩く白いワンピースを着たかすみに目をやると、なんだか元気が湧いてくる。
「宿題の心配をせずに街を歩けるって、なんて清々しいのかしらっ。やっぱり宿題は早いうちに片付けるに限る~」
レンが嬉しそうに金髪のポニーテールを振り、くるくると回りながら歩いている。道ゆく人が避けてくれているから平気なものの、避けてくれない人だったら確実にぶつかるだろう。なんて考えていたら、案の定人にぶつかった。しかもぶつかった相手が須藤だった。マズイと思い咄嗟に走り出した。
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