第9話
そしてしばらくの月日が流れ、梅雨に入った。
あの後、すぐに凛太くんは私をデートに誘ってくれた。去年のようにパニックを起こすことなく、とても素敵な時間を共に過ごさせてくれた。去年の凛太くんは私と話すとき、よく
先週から降り続ける雨は、空気を湿らせ人々をイラつかせたが、私は彼と過ごすことで、ジメジメとした湿気を苦に感じることはなかった。
凛太くんは相変わらず学校に行こうとせず、学校に通学するかのように私の家を訪れた。バイトへ行っている間も私の家におり、食器を洗ったり、掃除をしたりしてくれている。私が家に戻ると、優しい笑顔で「おかえり」と言ってくれる。そんな凛太くんが健気で、とても愛おしく感じる。だから無理に学校へ行ってとは言えなかった。
そんなある日、バイトが終わり家に帰り、凛太くんとお茶をすすっていたとき、玄関のチャイムが鳴った。と同時に玄関のドアが開き、見知らぬ女の子が靴を脱ぎ、入ってきた。
「おーっす、かすみぃ。夏休みだから帰ってきたよぉ~」
「ちょぉーっと待って、待って。あなた、誰?」
「なーに冗談言ってんのよ。かすみらしくないぞぉ~」
金髪のポニーテール姿のその少女は小さな歯を覗かせニッコリと笑って私の肩をバンッと叩き、リビングへ向かうと叫び声をあげた。そして玄関に取り残された私の元へ走ってき、困惑の表情を浮かべながら私に訊いた。
「か、かすみっ! だれ? あの男の子? し、し、親戚の子かなんかだよね?」
「あの子は凛太くん。私の彼氏だけど……そんなことよりっ、あなたは誰なの?」
「か、か、彼氏~? あのかすみに……彼氏~?」
私に彼氏がいるという事実が、彼女の聴覚を麻痺させているらしく、両手で頬を押さえ、顔の肉を上下にさげながら悶えている。私が投げかけた質問なんか、聞こえていないようだった。しかし、悪い人間ではないことはなんとなく理解でき、とりあえず居間のテーブルへと案内し、お茶を淹れた。
「でっ、あなたは誰?」
両手を胸のあたりでパンと合わせ、にこりと笑って訊いた。
「かすみっ、いつまでそんな冗談言ってんの? 私だよ、中学の同級生の明石レン。あんたの親友っ!」
「中学の……同級生?」
「あんた、頭でも打ったの? まさか、記憶喪失?」
レンは大きく目を見開いて両手を口に当てがった。その反応は本当に驚いているようであり、本気で私の記憶喪失を疑っているようだった。記憶喪失といえば、私の隣に腰掛け紅茶をすすっている凛太くんだ。もし、目の前であたふたしている少女、レンが言っていることが本当だとすると、私も凛太くんと同様、記憶が欠落している。だって、私の記憶に明石レンなる人物の影すらないのだから。
「あのね、レン。あれ? 私、あなたのことレンって呼んでたっけ?」
「うん。そうだよっ、レンって呼んでた。もっと呼んで。もっとぉ~」
瞳をウルウルとさせながら、捨てられた子猫のような表情で私が呼ぶ名前を噛み締めている。
「レン、私ね。本当に記憶喪失になってるみたい。でも、凛太くんも去年の私との記憶がなくなっちゃったの。もしかしたら、世界中の人が何らかの記憶を失ってるのかもしれない。思い出すことなく普通に生活してるのかもしれない。だから、ごめんね。これから新しい思い出を作ろっ」
そう言って私はレンに右手を差し出した。レンは納得がいったわけではなさそうだが、私の顔を見て少し唇を尖らせ私の手を握った。
改めてレンの顔を見ると、とても端正な顔立ちだった。細い眉は釣り上がってはいるが、笑った時にクニャリと曲がりとても愛らしい。吸い込まれるような大きな青色の瞳はとても鮮やかで、妖麗だ。外国人のように細くとがった鼻、薄くキュっと結ばれた口、透き通るように白い肌。
「レン、あなたってハーフなの?」
「そだよっ、ロシアと日本のハーフだよ。そんで、今は大阪のインターナショナルスクールに通ってるんだっ」
「だからこんな時期なのにもう夏休みなんだね」
「そーゆーことっ。お隣の凛太くんは、こんな時期なのにこんな時間になぜかすみの家にいるのかなぁ?」
急に話題を振られた凛太くんは、すすっていた紅茶が気管に入ってしまったようで、ひどくむせかえっている。私は凛太くんの背中を優しくさすった。
「けほっ、けほっ。お、おれはいいんだ。がっ、学校なんて行っても無駄だし、行かなくても高校で習う勉強くらい、習わなくてもできるし……」
凛太くんは少し恥ずかしそうにしながら、斜め下を見て言った。凛太くんは確か女の人と話すのが苦手だった。私には普通に接してくれることに少し優越感を感じた。
「ふーん、そんなやんちゃな頭してよく言うね。じゃほんとにできるかテスト。x+√x(x+1)+√x(x+2)+√(x+1)(x+2)=2の場合、xに当てはまるのは?」
「24分の1」
まるで問題の答えを知っていたかのように即答した。レンは慌てて脳内に電卓プログラムを立ち上げて必死に計算している。今はBIMを使えば脳内に電卓プログラムで計算することが可能だけど、BIMを使ったとしてもこんなに早く答えを出すのは不可能に等しかった。
「うわ、すごっ。本当にあってる。凛太くんって、天才なの?」
「天才なんて、そんな大したもんじゃ、な、ないよ。そもそも数学は苦手なんだ」
顔を赤らめ俯く凛太くんを抱きしめたい衝動に駆られたが、何とか押しこらえた。
「凛太きゅーん、夏休みの宿題……手伝ってぇ~、お願いっ!」
レンは涙目で、すがりつくように凛太くんの腕を抱きしめた。その光景をみて私の心がどよめいた。
「レン、ダメだよ。宿題は自分の力でやらないと。それに凛太くんは人見知りで、特に女の子は私としか基本、ちゃんと話せないの」
レンから凛太くんを振りほどき、ぬいぐるみを抱きしめるかのように凛太くんを抱擁した。
「なら、私と仲良くなれば問題は全て解決するってこと? なら、凛太くん。私と今からお出かけしよっ!」
レンは凛太くんの腕を掴むと、強引に引っ張って家から飛び出していった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます