第8話

 そして春がきた。

 私はいつも通り、ハンバーガー屋でのバイトが終わり、私服に着替えて帰ろうと通用口を開いた。するとそこに金髪の小柄な少年が立っていた。クリクリとした仔犬のような瞳にキリッとした細い眉。すっと通る鼻筋と薄い唇が知性を表している。私の大切な存在……そう、凛太くんがそこにいた。

「凛太くん……」

 思わず両手で口を覆い、枯れるような声が漏れた。

「あのっ……そ、そ、そのっ。怪しい者じゃないんですっ。じ、じ、実はさっき通りかかったときに……そのっ、あのっ、ひ、ひ、一目惚れをっ」

 彼が何を言っているのか理解できなかった。いや、理解しようとしなかった。私の身体は思考よりも欲求に忠実だった。

「凛太くん! どうして……どうしてぇ~」

 凛太くんをきつく抱きしめた。聞きたいことが沢山あった。聞いてほしいことも沢山あった。そんな思いが一度に溢れ、涙を流すことしかできなかった。

「あ、あ、あのっ……なんで、おれの名前を知ってるんですか?」

「なに言ってるの? なにも言わずに四ヶ月も行方不明になって、私との約束を破って、それでこんな冗談言って……もうっ、本当に怒るよっ」

 彼の顔をまっすぐ見つめる。彼は顔を赤らめるだけで、私と目を合わそうともしなかった。そんな彼に苛立ちを覚え、彼の肩から手を離した。

「信じられないっ。なんでこんなことするの? 私がどんな気持ちでいたか、そんなこともわかってくれないの? そんな私がこんな冗談で笑えると思ったの? もういいっ! 二度と私の前に現れないでっ」

 そう言い放ち、私は路地を駆け出した。〝二度と私の前に現れないで〟とまで言うつもりはなかった。でも、四ヶ月もの間、ずっと会いたいと懇願していた相手に知らぬふりをされたことが悲しかった。

 このまま家に帰る気にもなれず、家の近くの河原でしばらく川の流れを見つめていた。この場所は凛太くんとよく訪れた。穏やかに流れる川辺の、都会離れした青々しい芝生に腰掛け、よくたわいもない話に花を咲かせたことを思い出していた。

「私たちは、もうあの頃には戻れないのかな?」

 そう独り言を漏らし、目の前に咲くふわふわとしたタンポポの綿毛を見つめた。すると突風が吹きつけ、綿毛が宙に舞う。その様子を見てハッとした。

 もしかしたら、凛太くんは記憶を失っているのかもしれない。四ヶ月間、とても精神を正常に保てないような状況に置かれ、私との記憶が飛んでしまったのかもしれない。だとしたら、私はとんでもない間違いを犯した。なんの罪もない彼を傷つけてしまった。

 そもそも、私は本当に凛太くんを信頼していたのか。もし彼を信頼していたのだとしたら〝彼が私のことを知らない〟ということを信用したはず。

 そのことに気がついたとき、私は自分を呪った。自分が憎くて仕方なかった。自分の器の小ささに恥ずかしくなった。そして、自分は孤独であるべきなのだと悟った、そのとき……。

 もう二度と聞けないはずの声が私に語りかけてきた。

「あのっ、さっきはすみませんでした。これ、もしかしたら大切なものかなって思って」

 そこには傷だらけの凛太くんが、赤いお守りを手に微笑みかけていた。

「これ……私、また落としたんだ。もしかして、須藤くんに殴られたの? また身を挺して私を守ってくれたの?」

「不思議な人だな。どうしておれのことや、須藤のことまで知ってるんですか? それに……なんで泣いてるの」

 頬を触ると濡れていた。気がつかないうちに、涙が溢れていた。そして確信した。この人は本物の川津凛太なのだと。

「ごめんね。さっきはひどいこと言って。隣に座って、凛太くん。私の話を聞いて欲しいの」

「う、うん」

 戸惑いを隠せない様子の凛太くんが私の隣に腰掛けた。

 私は全てを話した。バイト帰りに凛太くんに声をかけられたこと、今みたいに、身を挺してお守りを守ってくれたこと、初デートでパニックになったこと、夏の海で誘拐された私を助け出してくれたこと、クリスマスにプレゼントしてくれた指輪のこと、私たちが愛し合っていたこと、そして、大晦日の夜に消えたことを。

「本当だったとしたら、おれは世界一の幸せ者だな。おれとあなたが付き合っていただなんて。でも、さっきあなたに抱きしめられたとき、不思議と懐かしい気持ちになった気がする。それに、もしおれが記憶を失っているんだとしたら、おれはまたあなたに一目惚れ……したんですね」

 少し恥ずかしそうに顔を赤らめた凛太くんをそっと抱き寄せた。

「そうだね。そして、また私を救ってくれた。ありがとう……私はかすみ。旭かすみ。凛太くんはかすみって呼んでくれてた。私、ずっと待ってた。そしてこれからもずっと待ってる。凛太くんが記憶を取り戻すまで、ずっと待ってる。だから今は、凛太くんと私の新しい思い出をいっぱい作ろっ。私をまたデートに連れ出してっ」

「かすみ。綺麗な名前だね。おれなんかで本当にいいの?」

「私は凛太くんじゃないと嫌なの。もう、どこにも行かないで。ずっと私の側で、私を守って」

 凛太くんは私の肩に小さな顔を預け、子どものような表情で目をつむり、「ありがとう、かすみ」と、優しくそう言った。

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