第6話
「くそっ、やられたな。凛太、どうすんだ?」
汗だくの顔で、少し息を切らせながら須藤が訊いた。
「やってやろうじゃねーか。ここで逃げたら一生後悔する」
おれの手を握るかすみの手に力が入った。そして、かすれた小さな声で言った。
「ダメだよ、こんな大勢相手に、勝てるはずないよ。凛太くんが死んじゃう。そんなの嫌っ」
地面を見つめ、小刻みに震えている。まるで過去に同じような出来事を体験しているかのように思えた。そんな彼女にこれ以上悲しい思いをさせたくはない。しかし、ここで逃げてしまえば確実にかすみはどこかへ売られていってしまうだろう。売られた先でどんな仕打ちを受けるのか、想像するだけで咽喉がキュッと締まり、ツーンとした刺激が鼻の奥の方で感じる。
「かすみ……おれは守りたいものを守れないような人間でいるくらいなら、死んだ方がマシだって思ってる。その守りたいものが守らなくてもいいって、おれに言ったとしても、おれが守りたいことには変わりない。だったらおれはおれのために、その人を……かすみを守り抜く。ごめんなっ、わがまま言って。でも、かすみはいつもおれを子ども扱いするんだから、わがまま言ってかすみを困らせるのも当然だよな! 大丈夫。絶対に死んだりしないから」
かすみのサラサラな黒髪を撫で、優しく微笑みかけ、ゆっくりと握った手を離した。
おれの目の前でニヤニヤと怪しい笑みでおれたちを舐め回すように見つめる男の手に見覚えがあった。ごつごつしていて、拳より腕の方がかすかに白い。金色の短髪で、生え際が黒い。金持ち悪徳坊主があぐらをかいたようなふてぶてしい鼻には、金色のリングピアスがはめられており、ぼってりとした唇が下品さを表している。
「お前だよなぁ、かすみを無理やり連れ去ったのは?」
「そうだったとしたらぁ? どうするってんだぁ?」
男はゆっくりと顔を近づけ、小さな目を精一杯大きく見開いた。
「あんた、おれのこと〝もやしみたいな軟弱なガキだ〟って言ったよなぁ? なら試してみるか? 本当にもやしかどうか、確認させてから行くべきところへ送ってやるよ」
挑発に見事に乗ってくれたその男は、ごつごつとした大きな拳をおれの顔面に放った。さすがのおれも、この重いパンチには吹っ飛ばされた。須藤の手下に殴られて切れた瞼の傷が開き、血が豪快に溢れ出た。温かい血液が左目をなぞり、海水が目に入った時のような刺激が走る。
「ほうっ、おれのパンチをあの距離で食らって立ち上がれるってか。これはなかなかだ。なかなか……」
男が話し終わるのを聞き届けることなく、おれは瞬時に男の間合いに入り、加速したスピードを利用し、みぞおちを膝で蹴り上げた。
「おぶっ」
という鳴き声をあげ、倒れ込んだ。それを見た他のダチュラのメンバーは一歩後ろへ下がった。
男は必死で息を整えながら、涙目でおれを睨みつける。
おれは右手の指だけを前後に動かし、さらに相手を挑発した。
生まれたての子牛のような動きで立ち上がった男は奇声をあげ、おれに突進してきた、そのとき。
「そこまでだ! 全員腹ばいになって両手を頭の後ろで組め!」
そこには数名の警官が銃を構えている。おれは心の中でガッツポーズを決めた。おれはとっさに目の前の男を取り押さえ、動きを封じた。他のダチュラの奴らは一目散に逃げ出した。
警官の一人がこちらに近づき事情を訊いてきた。おれは殴られ、殺されるととっさに判断して相手の動きを封じたと説明した。かすみたちが拉致されたことも説明し、正当防衛を主張した。
「とりあえず調書を取らねばならないので、署まで同行願います。それに、傷の手当ても必要でしょう」
若いが、貫禄のある雰囲気の警官がおれに取り押さえられている男に手錠をかけ、連れていった。
「行くべきところへ送ってやるって言ったよな。約束は守るタイプなんだ」
男は殺意に溢れた狂ったような目つきでおれを睨んでいた。
「まっ、なんとか任務完了だなぁ、凛太よっ」
すっきりとした表情で、須藤がおれの肩にポンっと手を置く。
「でも、なんか上手くいきすぎじゃね? 警察が来るタイミングにしてもだ。凛太があの男を蹴り飛ばした瞬間だったらぜってぇ捕まってるし、そもそもなぜ警察がきたんだ?」
「策があるって、言っただろ? おれが最後の一人に住所を叫ばせたのを覚えてるか? 実はあのとき、密かに110番に回線をつなげてオープンにしてたんだ。あの時点で警察が来ることは決まっていた。さっきの男にしたって、あえて男を挑発させて先に殴らせた。もしおれの反撃を警察に見られたとしても、こんなに血を流してりゃ正当防衛を主張できるだろ?」
「なるほどねぇ。行くべきとこへ送るって、地獄行きって意味じゃなく、牢獄行きって意味だったのかよ。全く、オメェらしいやり口だっ」
「相手がおれに〝殺す〟と脅迫された、なんてめんどくさいこと言えねぇようにどっちの意味でも取れるようにしたんだ。それにその意味もあいつに伝えたし、妙なことは言わねーだろ」
その後、近くの交番で色々と訊かれ、人身売買についての示唆を含め知っていることを全て話した。
まゆとまゆの母親は念のため病院で検査を受けることになった。別れ際にまゆのお母さんは震えながらも目に涙を浮かべ、優しい表情でおれに礼を言い、まゆとはまた遊んでやる約束をした。
ようやく解放された頃にはすっかり夕方になっていた。
おれの今日のミッションはまだクリアしたわけではない。大切なことをかすみに伝えたかった。それを伝えるために口を開こうとしたとき、かすみが先に口を開いた。
「凛太くん、話したいことがあるの。ちょっといい?」
「えっ、あぁ。も、勿論」
かすみは無言でおれの手をとり歩き出す。ビーチには昼の面影がすっかりなくなっており、まるでプライベートビーチかと思わせるほどに閑散としている。
波打ち際まで歩き、かすみが足を止めた。無言が続き、潮騒とヒグラシの鳴き声だけが風に乗ってそよいでいる。
「いやぁ、なんかとてつもない一日だったなぁ。でも無事でよかったよぉ」
この空気に耐えられなくなり、後頭部をカリカリと掻きながら口を開いた、その瞬間。かすみがおれに抱きついた。かすみの胸に顔が食い込む。その柔らかな感触に、みるみるうちに顔が紅潮するのがわかった。そんな幸せと興奮に浸っていたが、すぐに現実に引き戻された。かすみの背中が小刻みに震えている。その震えを抑えつけるように、両腕をかすみの背中に回し、抱きしめた。
「凛太くんのバカっ。こんなにボロボロになって、無茶して、わざと殴られたりして……もっと自分を大切にしてっ、もっと自分を労ってあげて。私、辛かった。怖かった。でも、まゆちゃんや、まゆちゃんのお母さんが少しでも不安にならないように、恐怖を押しこらえてた。明るく振舞ってた。でも、目の前で凛太くんが殴られる方がよっぽど辛かった。胸がはちきれそうになるくらい、心が痛かった。自分の目の前で、私のために大好きな人が痛めつけられるなんて、見たくないよぉ~」
かすみは肩を震わせ、泣き叫ぶようにそう言った。
「えっ、今なんて?」
するとかすみは涙に濡れ、火照った顔でおれの顔をまっすぐ見つめた。
「私、凛太くんが好き。大好きっ」
そう言って、かすみは自分の唇をおれの唇に押し付けた。
ハリがあり柔らかな感触が、おれの唇をネットリと包む。温かく、甘く、とろけるような接吻は、驚きとともに、とてつもなく大きな新しい感情をおれに与えた。それはうまく表現できないが、きっと〝愛〟というものなのだと実感した。
「かすみ……ずるいよ。おれから告白する予定だったのに、かすみはなんでもおれより先にやっちゃうな。ずるい……お姉さんだよっ、ははっ」
「凛太くん……」
潤んだ瞳でおれを見つめる。おれはかすみの瞳に映るおれの瞳に映るかすみを見つめた。
「かすみ、おれもお前のことが好きだ! 大好きだ。おれはこれから一生かすみを守る。だから、かすみはおれが暴走しようとして、またかすみの心を傷めてしまわないように、おれをとめてくれ!」
あのときおれに見せてくれた笑顔を軽く超越した、大輪の花火のように可憐で儚い笑顔を見せ、こう言った。
「はい。私はいつも凛太くんのそばにいるよ」
海に沈む夕日はさらに赤く、暗くおれたちを照らす。
潮騒とヒグラシに祝福されながら、燃えるような紅の黄昏の中で再度口づけを交わした。
それからおれたちはいろんなことをした。
山でキャンプをしたり、ホラー映画にリベンジしたり、一緒に料理をしたり。
秋には紅葉狩りにも行った。一緒に温泉に行こうと言ったが、未成年二人だけでの宿泊は断られ、結局叶わなかった。
クリスマスには二人で白い吐息を吐きながらイルミネーションが輝く街でデートをし、イタリアンレストランでディナーをし、クリスマスプレゼント交換をした。かすみはおれに腕時計をプレゼントしてくれた。手巻き式のヴィンテージものだった。
おれはかすみに指輪をプレゼントした。パラジウム製のオレンジ色に輝くリング。裏面には「R to K」という刻印を入れてもらった。かすみはそれを左手の薬指にはめるとニッコリと微笑んだ。
そんなおれたちは、ずっと手を繋いでいた。離れることのない、固く結ばれた二人の手には、もう接着面が消えていたのかもしれない。
そして、大晦日。おれはかすみのマンションで年を越す予定だった。もちろん、初詣も二人で手を繋いでいく約束をしている。
かすみお手製の雑煮を食い、あえてテレビで正月番組を見ていた。脳内のBIMを使えばネットを介して好きな番組が目の前に映し出されるのだが、それでは二人で見ている気がしない。
CMに切り替わり、アイスの宣伝が始まった。かすみは台所を片付けに行った。おれは無性にそのアイスが食べたくなり、コンビニへいく決心をした。
「かすみ、おれ、ちょっとコンビニ行ってくるよ。何か買ってくるものあったりする?」
「え? 特にないけど……もうすぐ年があけちゃうよ」
「大丈夫、大丈夫。すぐ帰ってくるから」
おれはマンションを出ると徒歩五分のコンビニを目指した。来年まであと十五分ある。と、高を括って歩き出した。
大晦日の住宅街には誰一人歩いている人はおらず、人間が消えてしまった世界に取り残されてしまったような感覚になり、二分前に別れたかすみに無性に会いたくなった。
コンビニにたどり着くと、アイスを二個手に取りレジにて会計を済ませた。ふと、かすみにもらった腕時計で時間を確認する。零時まであと十一分あった。
店を出て、誰もいない通りを歩く。空を見上げると、オリオン座の鞘であるオリオン座大星雲が綺麗に見えている。普段肉眼では見えにくいのだが、今日はくっきりと見えている。しばらく立ち止まって見とれていた。が、時間のことを思い出し、急いで歩き出す。しばらく歩くとふわりと大粒の羽毛のような雪が降ってきた。そこでおれは何気なく腕時計に目にやった。長針がカチリと動き、十一時五十八分になった。その瞬間、雷のようなノイズが目の前に広がる景色を分断し、テレビの砂嵐のようなものが溢れ出てきた。
そこでおれの思考は止まった……。
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