第4話
やっと梅雨が明け、セミたちがひしめきあう夏がやってきた。
おれたちはほとんど毎日顔を合わせていた。学校なんて滅多に行かずに、ハンバーガー屋に入り浸り、かすみに悪い虫がつかぬように見張ったりしていた。学校へ行かないおれに、かすみは少し悲しい顔を見せるときがある。そんな表情を見た次の日は自分に鞭を打って登校するようになった。
おれはかすみと接して緊張して話せなくなるようなことはなくなったが、これといって関係が進んだわけでもない。それに、おれはかすみにはっきりと好きだとは伝えていない。
こんな曖昧な関係はおれを不安にするだけだった。
「凛太くん、夏といえば?」
湿った生ぬるい風に吹かれ、昼下がりの繁華街を歩きながら、かすみは唐突に訊いた。
「えっ? 夏といえば、やっぱ海かな?」
「そうっ! 海だよね~。ねっ、行こうよ。海!」
おれは頭の中でかすみの水着姿を想像し、血液が良からぬところに流れるのを感じ、首を大げさに横に振った。
「えぇ? 嫌なの? どうして~」
かすみがおれの腕を掴んで大きく揺さぶる。
「いやっ、違うんだ。いいよ、行こう」
「本当? じゃぁ早速今から水着を買いに行くよ。凛太くんに選んでもらおーっと」
「えぇ? おれが選ぶの?」
「男の子は理想の水着を女の子に着てもらいたいものなんじゃないの?」
「いや、それはそうだけどさ。海を背景にして見たときの衝撃と感動が薄れるっていうか、なんていうか……」
「ふーん。なるほど、わからなくもない」
唇に人差し指を添えて、少し上を見ながらそう言った。
「じゃぁ、どんな水着か楽しみにしててね!」
「おう! 斬新なものを求む!」
「ビーチにいる男全員を魅了してもいいってことね?」
「いやいやいや! それは困る!」
突然焦りだしたおれを見てかすみがクスッと笑った。
そんなかすみを見ておれも笑った。
そして待ちに待った海水浴。今日は最高の一日になる! と思っていたのに……いざ来てみればすごい人混み。それにもっと最悪な出来事に遭遇した。海の家の更衣室に入ると目の前に……須藤がいた。
「おーう、凛太じゃねぇか。一人かぁ?」
「一人なわけねーだろ。かすみとデートに決まってんだろ? お前こそ、一人か?」
「おうよ。あったりめーだぁ。一人に決まってらぁ」
「なんで当たり前なんだよ。お前の手下たちはどうした?」
「夏の海でやることっていやぁ、ナンパだろ? あんな焼き栗みたいな危険な顔した奴らといたらかわい子ちゃんは逃げちまうだろ? 夏の海は一人で歩くって決まってんだよ」
「お前、鏡で自分の顔を見たことねぇーのか? 焼き栗どころじゃねぇ、真っ赤に燃える石くらい危険な顔してんぞ」
「なーに言ってやがんだ。女は危ない恋がしてぇのさっ。それより凛太、いつになったら彼女の友達をおれに紹介してくれんだ?」
そう、須藤はおれにちょっかいを出さなくなった。理由はわかっている。これ以上おれに嫌われたらかすみの友達を紹介してもらえなくなるからだ。しかし、おれは一度も紹介するだなんて言っていないし、そもそもそれはかすみ次第だ。
「知らねーよおれがそんなこと。ってかもう着替えたんならさっさとどっかいけよ! あと、前から思ってたけど、香水つけすぎだぞ」
そう言われて、須藤は自分の腕を嗅ぎながら首をかしげた。
「この香水、つけた瞬間しか匂わねーんだよな。だから何回もつけなきゃいけねーんだよ」
「やっぱ馬鹿だろ? お前。匂いってのは慣れるんだ。自分では匂わなくても、周りの奴らには嫌ってほど匂ってんだよ。ほら、もうどっかいけよ」
「ったく、つれねーよな、凛太は」
そう言って、須藤は傷跡だらけの上半身裸で出て行った。
さっさと水着に着替え、荷物を持って外に出た。太陽に熱せられた砂が足の指に当たってとても暑い。
「やっぱ夏は最高だよなっ」
隣にいたでっかいやつが独り言なのか、そこそこ大きな声で言ったので振り向いた。そのでっかいやつは須藤だった。
「な! 須藤! まだいたのか。何やってんだ」
「なにって、決まってんだろ? 凛太の彼女の水着姿を拝むためだ」
「は? なに言ってやがんだ。マジでぶっころすぞ」
須藤と軽いもみ合いになった瞬間、涼やかな声がした。
「もうっ、なにやってるの凛太くん!」
ふと視線を声がした方へ移動させると、おれは固まってしまった。
透き通るような白い肌に薄い水色の……ビキニ。
『ふおぉぉぉぉぉ!』
おれと須藤は同時に同じ鳴き声で鳴いた。
「って、てめえ、見んじゃねー」
そう言っておれは須藤を突き飛ばした。
「あなたが須藤くんね! こんど凛太くんに暴力振るったら本当に許さないんだからね!」
おれに突き飛ばされた須藤に向かって、かすみが両腕を腰に当て前かがみになって言った。
「そりゃぁもう、絶対しねぇ。も、申し訳なかったっ!」
顔を赤らめ、大げさな身振りで須藤が返答する。
「よろしい。じゃぁ、行こっか。凛太くん」
「う、うん。行こう」
大地震の前触れのような、大量に打ち上げられた魚のように浜辺でくつろいでいる人々の間を縫って、適当な場所を確保し、ビニールシートを敷き、パラソルを建て、なんとかそれっぽいものに仕上がった。貴重品はビニール袋に入れ、砂の中に隠した。
「ねぇ、早速海に入ろっ!」
「そうだな。もうすでに汗だくだ。きっと気持ちいだろうな」
おれがそういい終わるやいなや、かすみは突然走り出し海にダイブした。水面から出てきたかすみの髪はもちろん濡れていて、全身を覆う海水が太陽の光を受けてキラキラと輝いている。そんなかすみが、本当に女神のように見えた。
「凛太くーん! 冷たくて気持ちいよーっ」
おれに手を振るかすみに向かって全力疾走で飛び込んだ。
「ぶわー。本当だっ、スッゲー気持ちいいやっ」
「だよね。ほらっ、えいっ」
かすみは海水をすくっておれの顔面にかけた。
「ぶへっ、おぉ、やりやがったなぁ。これでもくらえっ」
報復には報復を。おれはかすみにされた仕打ちと同じことをかすみに仕返した。かすみは両腕で顔を覆い、おれから逃げた。そんな美しい背中を追っておれは駆け出した。古いテレビドラマで見たことがある。こんな光景を。しかし、現実とは無残な記録だ。こんな幸せなひと時をどこかの誰かは妬みと嫉妬の念で眺めていることを、おれは忘れていた。自分自身がそうであったように。
「ふぅ~、凛太くん。少し疲れたね。ちょっと休憩しようよ。私、お弁当作ってきたし」
「そうだな。おれもいざ冷静になると、自分が空腹であることに気がついたよ。かすみの手料理? やったぁー、楽しみだなぁ」
「凛太くんよ、
そういい誇って、クーラーボックスの蓋をあける。小さな手で握ったであろう、小さなおにぎりが六つあった。
「うわぁ~、旨っそう」
「右から、昆布、梅、明太子だよ。海にいるんだから塩分控えめ。でも、きっと気に入ってくれると思うよ」
少し首を傾げて優しい表情でそう言った。
おれはラップをほどき、昆布のおにぎりに食らいついた。
「う、うまい! 握り加減が絶妙だよ! 塩辛さもちょうどいい。いや、最高だ。こんなに冷たくなったおにぎりなのにふわふわで、かじるごとにいい感じで米がほぐれる。最高だよ」
「やったぁ。お口にあってよかった。そんなに喜んでくれるんなら、毎食作ってあげたくなるよ」
「いや、作ってください。お願いします」
おれはかすみに土下座をした。
「もうっ、大げさだなぁ。ふふっ」
「カニミソバーガーなんて売るべき人じゃないよ。かすみ弁当を始めるべきだよ。おれだったら毎日通うなぁ」
「もうっ、凛太くんったら、過大評価しすぎだよ……でも、素直に嬉しいな。そう言ってくれて……」
「おれが保証するよ。おれにとって、おれ史上一番うまい握り飯だっ」
そう言い放ったとき、かすみは頬を真っ赤に赤らめてうつむいた。
「君がそう言ってくれるんなら、私は天にも昇る気分だよ」
その表情を見て、おれは自分の本当の気持ちを伝えようと決意した。好きだという気持ち。大好きだというおれの本心。
「かすみ! おれ、お前のことが……」
「お姉ちゃん、まゆもこれ欲しい」
〝好きだ〟とおれが言葉にする直前、見知らぬツインテールの子どもがかすみに声をかけた。
「あら? どうしたの? お腹へっちゃったの? いいよ、昆布がいい?」
「ううん。明太子ー」
「はいはい。じゃ、はいっ、これ」
そう言ってかすみは明太子のおにぎりをその子どもに分け与えた。その子は嬉しそうにおにぎりを口に運ぶと満面の笑顔で「美味しい」っと言った。
「ありがとーっ。えっと、まゆちゃんだっけ?」
「うん。まゆだよ」
「まゆちゃんはお母さんとはぐれちゃったの?」
「うん、お母さんがいなくなっちゃったの。だから、まゆじゃなくて、お母さんが迷子なの……」
「まゆはどうしてお姉ちゃんに声をかけたんだぁ?」
せっかくの告白のタイミングを邪魔されたことの苛立ちを最大限におさえ、まゆに訊いた。
「お腹が減って、クラクラしてたら、目の前におむすびが出てきたのっ」
「クラクラって、いつから食べてなかったんだ?」
「昨日のおひるぅー」
『えぇ~!』
おれとかすみは同時にリアクションをとった。
「じゃぁ、昨日から何も食べてなかったの?」
かすみが心配そうにまゆの両手をとりそう訊いた。
「うん。でもずっと穴を掘ってた。お母さんが、まゆの穴掘りを褒めてくれたの。だからほらっ、こんなに掘ったんだよ」
まゆが指差した方を見た。確かに、大人一人がすっぽり入るくらいの深い穴だった。
「お母さんはまゆに何か言い残してどこかに行ったのか?」
「ううん、穴を掘ってて、気がついたらいなくなってた」
「まゆちゃんのお母さんの特徴を教えてくれる?」
そう、かすみが尋ねると、まゆは大きく目を見開いて嬉しそうな表情で説明した。
「あのねっ、長い茶色の髪でね、細くてとっても綺麗なの。よく、モデルさん? て聞かれて、ほっぺが赤くなっちゃうの」
なるほど。となると、まゆの母親はナンパ誘拐に遭った可能性が高い。
ある組織が人身売買の商品を躍起になって集めていると噂になっている。人が闇市で競りにかけられ売られてゆく。奴隷、愛玩、臓器目的、人体実験、目的はいくらでもある。そのある組織が最近この界隈で怪しい動きを見せているとの情報を聞いたことがある。
おそらく組織は若い男を雇い、ナンパを装って人をさらっている。ということはこの近辺にさらった人間を監禁している可能性がある。毎日毎日組織まで届けるにはリスクが大きい。職務質問で警察に止められでもしたら終わりだ。
まゆの母親はまだ近くにいる。しかし、方法が見つからない。
「凛太くん? どうしたの怖い顔して」
「あっ、いやっ。なんでもないんだ。まゆ、お母さんはきっと戻ってくるからな。心配するな」
「うん。お母さんは絶対に戻ってくるっ!」
そう言って、まゆはひまわりのような無邪気な笑顔を見せた。
「……で? なんでこんなことになるんだ……」
おれはいま、動く生首と化している。まゆが掘った穴におれは埋められた。これはもはや遊びなんかではない。これは……。
「処刑だぁー」
大空を仰いでおれは叫んだ。
「凛太くん、どんな気分? あったかいの? ねぇねぇ」
かすみが不敵な笑みを浮かべ、おれの頬をツンツンする。
「おにーちゃん、おもしろーい」
まゆはキャッキャとおれの周りを走り回る。
「あのー、かすみさん? どういった趣向で……?」
「穴があったら入りたいってよく言うじゃない? 本当に穴があったときってどんな反応になるのかなぁ~って」
「いやいや、そもそもおれは穴に入りたくなるような心理状態じゃないし、そうなるような恥ずかしい行動も今日はしていない! それに、首から上だけ地面に出てたら、むしろ余計に恥ずかしいよ! しかも、砂の重さで自力じゃ出られない。そろそろ助けてくれよー」
おれを生き埋めにしようと言い出したのはかすみだ。まぁ、まゆを少しでも不安にさせない為というのは理解できる。が、明らかにかすみは楽しんでいた。たまにかすみはゾッとするような行動をとることがある。サディストなのだろうか。
「ん~、そろそろ出してあげよっか」
そう言って、かすみがおれの目の前でしゃがんだ。おれの目の前にかすみの股間が突然現れた。それを見たおれは顔面がゆでダコ状態になり、そんなおれに気がついたかすみは顔を赤らめ立ち上がり、まゆを連れて海へ向かった。
「変態さんはもう少しそこでおとなしくしてなさいっ」
キャッキャと海ではしゃぐ二人を、おれはただ眺めることしかできなかった。
ひとしきり遊んだ二人はやっとおれの元に帰ってき、ようやくおれを救出してくれるようだ。
「これ、相当時間がかかるかもしれないわ。さっきまゆちゃんが凛太くんを埋めた後に海水かけてたから砂が固くなっちゃってるよ」
「うー、飽きてきちゃったぁ~」
と、まゆがとんでもないことを言った。
「諦めるな! 諦めたらそこでおしまいなんだっ! 諦めたらおれは今世紀史上最悪な死に方をすることになる」
そう二人を励ましていると背後から数人の男の声がした。
「よぉ、かわい子ちゃんたち。おれたちと楽しいところいかねぇーか?」
背後にいる男を身動きの取れないおれは振り返ることができない。かすみは作業をやめ、立ち上がった。
「ごめんなさい。今はそれどころじゃないんです」
「おぉ、ちと胸は小さいが、いいカラダしてんじゃねーか。そんなもやしみてぇな軟弱なガキなんかほっといて、おれたちと遊ぼうぜぇ」
そう言って男はかすみの腕を掴んだ。
「いやっ、やめて。触らないで!」
「おい! かすみに触るんじゃねぇ!」
おれは必死に穴から抜け出そうともがいたが、一向に抜け出せる気配はなかった。
男の太い腕がかすみの細い腕を折る勢いで引っ張る。
「放してっ、お願い。凛太くん、助けてー」
「かすみ! クッソっ、誰でもいい、おれをここから出してくれー」
そう言ったと同時に頭に鈍痛が走った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます