第2話

「いでっ、いでで!」

 彼女が消毒液を切れた瞼に吹きかける。思っていたよりも強烈な鈍痛が駆け走る。

「そんな大げさ……でもないよね。でも、男の子なんだから我慢しなさいっ」

 彼女の口調には、とてもおれを労ってくれていることが滲み出ている。しかし少し楽しんでいるようにも感じる。

「はいっ、これで完了っと。凛太くんは北條高校に通ってるんだよね? 一年生? あの学校に金髪なんて、凛太くんぐらいじゃないの」

「えぇっと、その、あの……うん」

「へぇ~、どうしてグレちゃったの?」

「い、いや、グレてなんか……ない、と……おもうけど」

「ふぅ~ん。でもグレてない金髪の学生が、強面の不良たちに襲われるなんて、そんなことあるの?」

「あれは違うんだ。そ、その、最初に須藤に手を出しちゃったのはおれだから。でもまさかあいつが本当に番長だったなんて」

「やんちゃなんだ。凛太くんは」

 彼女はあたたかな表情でおれを見つめた。それは母親が子どもに送るような表情だった。

「や、やめてくれよ……旭さん。おれを子どもみたいに扱うなよ」

「かすみっ」

「へっ?」

 彼女は少し頬を膨らませ、目を細めて顔を近づけた。

「さっき凛太くんはかすみって呼んでくれた。だから、かすみでいいよ」

「か、かすみ……」

「よくできました。それに、私は凛太くんよりお姉さんだよ。子ども扱いしても怒られないもん」

「そうなの?」

「そうだよっ。凛太くんは今年で十六でしょ? 私は今年で十八だもの、立派なお姉さんです」

 そう言ってかすみは立ち上がると救急箱を持って部屋から去った。

 白い二人がけのふわふわのソファーに腰掛けているおれは、改めて彼女の部屋を見回した。壁は薄いベージュ色。目の前には小さな丸いテーブル。白い戸棚の上には可愛らしいぬいぐるみが並んでいる。それに何よりいい香りだ。花のように柔らかく、果実のように甘い。改めて自分が女の子の部屋にいることに驚嘆している。妄想通り、いや妄想以上の素晴らしさだ。心がウズウズと踊りだす。

 扉が開き、かすみが小さな丸いテーブルに温かいココアを二つ置いた。

「そのっ、かすみはここに一人で住んでるのか?」

 心の疼きを隠すように、少しよそよそしく尋ねた。

「そうだよ。三年前に両親が亡くなっちゃったの。それからは一人で暮らしてる。幸い、このマンションは分譲だったから家賃の心配はないけど、食費と光熱費は自分で稼がなきゃね」

「ごめん。変なこと聞いちゃって……」

「ううん、気にしないで。それに、きっとお母さんが私と凛太くんを出会わせてくれたんだと思う」

「え? なんで?」

「お守り。このお守りはお母さんが私にくれた大切なお守りなの。代々継承され続けてきた由緒あるお守りだって、お母さんが死ぬ間際に手渡してくれた。そんな大切なお母さんの形見を、凛太くんは身を挺して守ってくれた。お守りがないって気がついたとき、とってもとっても不安になった。もう見つかるはずがないって若干諦めかけていたの。それに私、凛太くんに襲われるって勘違いしてたから、路地に戻るのがとっても怖かった。でもこのお守りを取り戻せるなら……って恐る恐る覗いてみたら、凛太くんが倒れてた。私は凛太くんに感謝してるよ。この感謝、どうしたらお返しできるかな?」

 少し頬を赤らめ、ココアを覗いている彼女に、おれは震える心を拳で握りしめて訊いた。

「じゃぁさ、おれのお願いを一つ聞いてくれる?」

「うん……なにかな?」

「おれと、でっ、デートしてください!」

 おれはソファーから勢いよく立ち上がり、右手を前に差し出して頭を下げた。

 微かな静寂の後、その右手に柔らかい感触があたたかく包み込む。

「どこへ連れてってくれるのかなぁ~。楽しみだねっ」

 頭をあげると、おれの右手を両手で包み込み、あの笑顔を浮かべたかすみの顔が、そこにはあった。心の奥深く、細胞や組織の名前も知らないようなところからじわじわとマグマのような熱いものが湧き上がってくる。

「よっしゃぁぁぁぁぁぁっ!」

 おれは人生最大のガッツポーズを決めたのだった。

 その後、かすみと識別IDの交換を済ませ、家路に着いた。

 脳内のBIMで自分の身体状況を確認する。幸い致命的な怪我はないようだった。駆動モードを治療モードに切り替える。これで皮膚組織や外傷部の治療を優先して身体が働いてくれる。これくらいの怪我なら三日もあれば元通りだろう。

 戸棚からカップラーメンを取り出し、お湯を入れる。三分待つ間に制服を脱ぎ捨てジャージに着替える。麺を啜り込み、スープを飲み干す。自室の電気もつけず、おもむろにベッドに横たわる。今日という長い夢のような一日が終わろうとしていた、そのとき。一件のメッセージが入った。おれは目をあけ、脳内のメッセージボックスを開いた。


『今日はありがとう。凛太くんとの出会いが、私のこれからの人生を華やかにしてくれるように感じました。

 来週の土曜日のデート、たのしみにしてます。

 怪我のこともあるし、今日はゆっくり休んでください。

 おやすみなさい。いい夢を         かすみ』


「おやすみ、かすみ。いい夢みるよ……ってそんなわけにはいかねーだろぉ!」

 おれはベッドから飛び起きると、大急ぎでインターネットに接続し、ありとあらゆる情報を探り出した。

「デートなんて、軽々しく言っちまったけど、どうやればいいんだぁ」

 結局、デートの鉄則を学ぶことだけで夜が明けてしまった。

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