第2話

 その日、早朝のヴィクトリア王宮は混乱の直中にあった。

 王子ハニエルの不在……は、悲しいかなこれが初めてではないので誰も気に留めなかった。問題は共に行方がわからなくなっている二名の方だ。


 現職の近衛騎士ロゼ・バルキリーと、その前任グランツ・フリードリヒが揃って姿を消しているのである。

 勿論、ハニエルを含めこの三名は旧知の仲であるため、夜にふらりと出掛けることも十分に考えられる。特に夜遊び激しいハニエルのことであるから、久しぶりに帰郷したグランツを労おうと穴場の酒場へ連れ出していても不思議ではない。


 ——だがしかし、関所を警備していた兵からの報告でその平和な憶測は崩れ落ちた。


〝ロゼ様とグランツ様が魔術師一名を連れ城壁外へと出て行かれました!〟


〝王都の関所三カ所、全て強力な結界により封鎖されております!〟


 悪夢のような知らせに、王宮は混乱した。

 新ヴィクトリア王都アリダ・ヘルバは城壁に囲われた都である。その都と外部を繋ぐ関所が全て封鎖されたのだ。

 強力な結界は並みの魔術師で解ける代物ではなく、王都から兵が出られない状態となっていた。

 また、関所からの追加報告で「魔獣よけの簡易的な結界を張るとロゼ様が言っていた」という内容も王宮に届いていた。

 今にして思えば、ロゼとグランツに同行していた魔術師がハニエルであったと察する。しかしそれに気付いた今では後の祭り。まんまとハニエルに嵌められたあとだった。


「ミラージュ様に文を! ハニエル様の結界など、あの方以外で解ける魔術師はいない!」


 先日発生した化け物騒ぎと相まって、臣下たちの不安は増していく一方だった。そもそもいかにハニエルの頼みであろうと、ロゼとグランツが周囲に黙って外出などするわけがなく、なにかあったに違いないと考えるのが普通である。


「またミラージュ様に文を送るんですか?」


 慌ただしく人々が走り回る中で、呑気な声を発したのは褐色の青年従者、ラキファだ。彼はその大柄な体格と、早朝の時間外勤務であるにも関わらず献身的に王宮警護を勤める姿勢を見込まれて——というと聞こえは良いが、有り体に言うと暇そうだったと言った方が正しい——臣下たちの集う大広間に警備兵として召喚されていた。

 彼は欠伸もそこそこに続ける。


「昨日もハニエル様から文を預かったばかりですよ? あんまり送ったらミラージュ様の家が手紙だらけになりますって」


「それなら心配いらないわ」


 優雅な野太い声がその場に木霊する。声のした方へ視線を運べば、そこには長身の人影が立っていた。

 その人は綺麗な銀の長髪を揺らして大広間に入ってくる。一人だけ時の流れが違う、そんなゆっくりとした歩調だ。


「ミラージュ様!」


 歩くミラージュに臣下たちが駆け寄ると、なぜ王宮に居るのか、ハニエルの所在は知らないか——など、各々が一斉に話し始める。矢継ぎ早に質問を浴びせられたミラージュは、それらを一蹴するとひと息ついて言った。


「ちょっとだまらっしゃい! まず結界は解けてるわ。ある程度時間が経てば消える仕組みになっていたようね。まったく、そんな小細工やってのけるなんてつくづく出来が良過ぎる愛弟子だこと!」


 大広間はミラージュが一蹴したことにより静まり返っていた。今まで王子の不在という事実が先行して場が混乱していた為、沈黙が訪れると途端に空気が重くなる。


 ミラージュは大広間に集結していた臣下たちを見る。どれも知った顔ぶれだ。かつてミラージュが王宮に仕えていたとき、共に前王ジブリールを支えた重鎮たちだ。


 人相悪い、素行も悪い、おまけに頭も悪い。悪い三拍子が揃った悪王がハニエルの父、ジブリールという男だ。そんな王を戴いてもヴィクトリアが崩壊しなかったのは、有能な臣下の助けがあったからだろう。

 ——が、その有能な臣下たちは今、かつての働きぶりを発揮することなく、餌を待つ雛鳥のように口を開いて空腹に喘いでいるだけだ。


 情けないとミラージュは嘆く。

 悪王から一転、優れた王が国を治めるようになり、肩の力のみならず頭のねじも緩んでしまったらしい。出来る男も困り者ねと、ミラージュは苦笑した。


「少しハニエルに甘え過ぎていたんじゃない?それとも、前王陛下には尽くせても、当代陛下には尽くす価値がないと思っているのかしら」


 ミラージュの発言に臣下たちが声を荒げる。


「いくらあなたでも口が過ぎるぞ!」


「第一ミラージュ様はなぜ王宮に参られたのですか。ハニエル様のことでなにか知っているのでしたら話していただきたい!」


 静かだった大広間が再び騒がしくなる。野次と非難の応酬にミラージュは頭を抱えた。

 彼女は知っていた。ハニエルが王都を——ヴィクトリアの大地から離れる理由を。

 昨日受け取った手紙に全てが記されていたのだ。


(さて、どうしたものかしらねぇ……)


 手紙には想定された最悪の事態が記されていた。


 ——魔王と同等の力を持つ者が、魔王を殺そうとしている。


 大魔術師として数多の困難に直面したことがあるミラージュでさえ、その手紙を読んだときは肝が冷えた。

 ヴィクトリアの国民にとって魔王は統治者であり〝神〟である。魔力を侍らせ強大な力を以てこの国の大地と民を守ってきたのだ。この国の者は、赤子同然に王の力を信頼している。


 ミラージュが真相を話せるわけがなかった。少なくとも、今の状況では、まだ……


 広間では中身のない議論が続く。いつまでも終わりの見えないそれに彼女は大きくうなだれると、臣下たちを一瞥し、渇をいれた。


「いい年した中年男共が、たかだか二十ちょっとのガキが居なくなったくらいで慌ててんじゃないわよ! 揃いも揃って情けない。ちょっとはこの子を見習いなさい!」


 言ってミラージュはラキファの肩を掴む。

 いきなり話を振られたラキファはどう返していいかわからず、首を左右に動かして目で助けを求めた。……が、誰も彼と目を合わせようとしなかった。


「彼、ちょっと借りていくわよ。落ち着いたらアタシを呼んでちょうだい」


 そう言い残すと彼女はラキファを連れて大広間をあとにする。背後からはもう、言い争う声は聞こえてこなかった。


「ミラージュ様、俺なんか連れ出してどうするおつもりですか? 頭を使う作業ならお断りさせてもらいますよ」


 訝しげにラキファが尋ねる。


「頭の作業ならもっと有能な子を選ぶわよ。あなたに手伝ってもらいたいのは肉体労働。見た所体力ありそうだし、頭を使わない仕事だから安心なさいな」


 茶目っ気たっぷりにミラージュが言うと、彼女は高い靴音を響かせて王宮の正門へと向かって歩く。ラキファはいまいち状況が理解できないまま大人しく従ったが、正門前に二台の荷馬車があるのが見えて目を丸くした。


「んー、ちょうど着いたようね」


 ミラージュは荷馬車に歩み寄ると、積まれた荷物を控えていた従者たちに降ろさせていく。どうやらそれは、彼女の私物のようだ。

 運び出される荷物は服や書物が多い。いかにもミラージュの持ち物らしい物品の数々に、ラキファは思わず「引っ越しみたいだ」と漏らした。

 ミラージュがそれに相槌を打つ。


「ええそうよ。だってアタシ、今日からここに住む予定だもの」


「えっ……」


 驚くラキファに構うことなく、ミラージュは手際良く家財道具を王宮へ運ばせていく。


「さあさあ呆けてないできっちり働いてちょうだい!」


 ミラージュがラキファに本の束を手渡す。分厚いそれらは力に自信のあるラキファでも少し重たく感じる重量で、辺りを見回せばその本の束がまだいくつも積まれていることが確認できた。

 積まれた本の表題を視線でなぞれば、魔術書であることが窺い知れる。彼には縁遠い、高度な学術書だ。


「……これもヴィクトリアへの恩返し、かな」


 ゆるく結われた黒髪をなびかせ、ラキファは本を落とさないようにゆっくりと歩き始める。偉大な魔術師の引っ越し作業は、まだ始まったばかりだ。

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