第1話

「なにが悲しくてオッサンと相乗りしなきゃならないんだか……」 


 穏やかな海面に大きな影が落ちる。その影の正体は翼を持つ白い獣——天使と呼ばれる種族だった。空を駆ける姿は鳥のように優雅で勇ましい。まさしく天の使いと称えるに相応しかった。


 その天使の背を見ると、二人の人間が巨体に跨っている。細身の青年と、片眼鏡を掛けた中年の男だ。先ほどの呟きは青年から発せられたものである。


「そう言うなよリル坊。手綱は俺が持ってんだし、女王様気分で空の旅を楽しんでくれや」


「女王様じゃなくてオリアス様を後ろに乗せる騎士がよかった」


「お前ってホント坊ちゃん坊ちゃんだよな! ちっとはこのスペクター様を敬えっての!」


 中年の男スペクターは青年リルを怒鳴りつける。その声に天使が驚いて〝グァ!〟っと鳴いたが、当のリル本人は涼しい顔をしてスペクターを一瞥すると、盛大な溜め息を吐いてみせた。

 露骨な態度にスペクターが大空を仰ぐ。見上げた空は雲ひとつない青空で、降り注ぐ光が眩しい。


 現在二人はヴィクトリアで用事を済まし、ブライゼンへ戻る最中だった。着の身着のまま飛び立ったので、ヴィクトリアで支給された従者の衣装はすっかりくたびれてしまっている。


「トゥは無事着いたかな」


「天使が一番懐いてんのはトゥだし、大丈夫だろ。今回の失敗はあいつ一人に天使の世話を任せちまった俺たちにも非はある」


「山で天使と遊んでたら猿の魔獣に襲われたんだっけ? まあ確かに甘くみてたよ。魔王の地がこれほど魔力に満ちてるなんてさ」


 言ってリルは懐から紫色の石を取り出す。

 魔石と呼ばれるその石は、ヴィクトリアの王都で購入したものだ。他国では気味の悪い災いの石も、この国では価値のある資源で魔王の影響力が窺い知れる。


「俺はちょっとばかし苦労したがね。この腕で歩かれたんじゃよそ者ですって札つけて歩いてるようなもんだからな」


 スペクターは右腕をさすると、衣装の長い袖を捲り上げる。

 彼の右腕は、〝鉄〟でできていた。義手である。


 ヴィクトリアでは工業が発達していない。他の国では発展の証として持て囃されるこの鉄の腕も、ヴィクトリアでは侵略者の証だ。魔王討伐を掲げた自称英雄たちが、銃を持ち時には砲弾で森や町を荒らした経緯があるため、ヴィクトリアの人々は銃や火薬に対する警戒心が強い。

 魔王や魔力を差別せずに受け入れる背景には、工業製品に対する根強い恐怖と、ある種差別にも近い感情があるからに他ならない。

 ヴィクトリアを守ってきたのは、魔力であり魔王なのだ。


「とは言えあの王子様には参ったねえ。完全に俺たちの正体に気付いてやがった」


「そりゃあんだけ派手に脱走したんじゃバレるでしょ」


 リルとスペクターはハニエルが王宮を脱出する際に手引きした二人組だ。

 ヴィクトリアでの用事を済ませたあとだったのでハニエルに手を貸したが、別れ際に〝いい夢が見られた〟と告げられたことで、自分たちの素性がハニエルには筒抜けであったことを悟る。


 彼らはリ=サナ教団——つまり聖人オリアスの仲間だ。

 ヴィクトリアに渡航したのはオリアスとハニエルが夢で会えるように魔術の下準備を行うためである。


「坊ちゃんと王子様、ちゃんと会えたようで嬉しいよ」


 そう言って誇らしげに鼻の下を掻くスペクターだったが、リルは違った反応を見せた。


「……俺は正直、あの二人を合わせたくはなかった」


 彼の声は厳しい。


「魔王はもっと横暴で冷血だって噂されてるからさ。まさかあんな普通の人間だなんて思ってなかった。優しいオリアス様のことだ、魔王があれだとわかったら絶対に心を痛めるに決まってる」


「ばぁーか」


 間を置かずに掛けられるスペクターの言葉は軽い。その馬鹿にした口調にリルはムッと顔をしかめるが、続くスペクターの話に彼は小言を挟む機会を逃してしまった。


「オリアスの坊ちゃんが今更そんなことで心を痛めるわけねーだろ」


「魔王殺しに抵抗がないと言いたいのか? 馬鹿言うな! あの人が人を殺めることになにも感じないわけ——」


「——まあ落ち着けリル。そうじゃねーよ」


 思いのほか真剣な口調のスペクターに、リルは言いかけた言葉を飲み込む。

 リルが黙ったのを確認すると、スペクターはゆっくりと話し始めた。


「坊ちゃんは……オリアス様は魔王を殺すって決めたときからとっくに傷付いてんだ。殺す対象の人間性なんざ関係ねえ。人の命を奪う行いそのものに、あの人は毎日毎日苦しい胸の内抱えて生きてるんだよ」


 スペクターの言葉を聞いたリルの桃色の瞳が見開く。そして彼は、自身の考えの浅はかさを恥じた。


 ——ああそうだ。言われてみればオリアス・カタルジアという青年はそういう人だ。

 善だの悪だので相手を判断する人間じゃない。どんな人の話にも耳を傾け、優しく手を差し伸べる聖人様だ。


「坊ちゃんのことならなんでもお見通しってな!」


「……うざい」


 得意げに語るスペクターの脇腹をつねれば「痛ぇ!」と悲鳴があがる。その様子を見て、リルはいい気味だと鼻で笑った。

 眼下に広がる大海原は澄んだ青色で、オリアスの右目を思い起こさせる。

 ブライゼンまでの道のりはまだ遠い。「お帰りなさい」と迎えてくれる暖かい声が、今はとても恋しかった。

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