第2話

 ラキファが出て行ったのを見送ると、ハニエルはゆっくりと話し始める。


「——君、オリアスの詠唱に心当たりがあるんじゃない? それと、彼が持つあの碧い力についてもさ」


 その口調は重々しい。

 部屋にはハニエルただ一人しかおらず、誰かが隠れている様子もない。だがしかし、彼はまるでそこになにかが居るように問い掛けた。


〝なぜそう思った?〟


 するとその時、ハニエルの問いに応える声が聞こえた。

 地を這うように禍々しい声が頭の中で響き渡る。


「遥か昔からこの世界にいらっしゃる魔王様だもの、僕より余程知識が深いとお見受けしてね」


 左目が騒がしい。蠢く不快な感覚に眉を潜めれば、鼻で嗤う声が聞こえた。

 ハニエルが舌打ちを漏らすと、殊更満足気に魔王が笑う。


「教える気がないのか知らないのか、どっちなんだい?」


〝我が知らぬとでも?〟


「まさか。知ってると思ったから話し掛けたんだよ。そうでなければ君とは極力関わりたくないしね」


〝知ってどうする? お前があの男を殺しに行く選択は変わらぬ。我の力で潰せば良い。力の前に、真実など無意味だ〟


 魔王は続ける。


〝あれは潰せ。存在を許すな。偉大なる王の力を持って殺せ。確実にだ〟


 けたたましい声が頭の中に断続的に響いていた。剥き出しとなった激しい憎悪がハニエルを攻め立てる。

 ハニエルは頭が割れんばかりの暴力的な感情に苛まれながら、心底嬉しそうに笑った。場にそぐわない高笑いは、不気味という言葉を体現しているようだ。


「はは、ははは! 愉快だね、実に愉快だねえ! あの魔王様が人一人にここまで感情を露にするなんて。オリアス、やはり君は最高だよ」


〝あれに共感するか? お前の感情など手に取るようにわかる。愚かだなハニエル、あれはお前を殺そうとしておる。殺せ、殺すのだ。さもなくば我々の死だ〟


「黙れよ。君に命令する権利はない。僕の血と肉と命で生かされている分際でよくもそんな口を利けるね」


 ハニエルは魔王の意思を押し潰すように言葉を重ねる。強い言葉を重ねるのは自衛のためだ。

 魔王は常にハニエルの支配を目論んでいる。ここで下手を打てば魔王がハニエルを食うことは明白で、それは即ち自我の崩壊——魔王の復活を意味していた。


 情を抱いてはならない。

 譲歩してはならない。


 それは魔王に弱さを晒す愚かな行為でしかなく、信頼や共存という考えは無駄である。魔王が人と分かり合えるなどありはしないのだ。


「まあでも、僕が死んではいけないというのは間違いじゃないよ」


 利害は一致していた。癪に障るが魔王の言い分はハニエルにとって正論で、それは彼自身よく理解していた。

 厳しい声でハニエルは言う。


「だから魔王様に忠告がある。死にたくなければ僕を守れ。そして体の陣取りは一先ず休戦にしよう。寝不足じゃ、とてもじゃないけれどオリアスに敵わない」


 魔王は答えない。しかしハニエルはそれの返答を待たずに続ける。


「僕と彼に力の差は感じられない。けれど、それでは駄目だ」


 引き分けという結末は存在しない。あるのは生か死だ。


「オリアスは優しい。僕が最後まで生きる選択を諦めなければ、きっと隙が生じる。人を殺す罪悪感と迷いが絶対にあるから」


 夢の中の出来事を思い出す。

 魔王に支配され掛けたあの時、オリアスはもっと強力な魔術を使えたはずだった。しかし彼は躊躇う挙動を見せ、そして結局、強い魔術を使うことはなかった。

 魔王を倒すという意志は強いものの、人を殺す覚悟はまだできていないのだとハニエルは推測する。


「魔王に乗っ取られた僕では彼の迷いは生じない。だってそれはただの化け物で、人ではないからね。確実に殺すんだろう? だったらそれまで僕の支配は遠慮しておいてよ」


 優しさに漬け込んだ汚い方法だった。下種と罵られても仕方のない所業だと思う。しかしそうまでしてでもハニエルは生きたかった。愛する国民を守りたかった。

 ハニエルだって人を殺すのに躊躇いも迷いもある。オリアスを殺した後は、誰よりも悲しんで一生後悔する自信だってあった。しかし、その痛みを抱えるとわかっていても尚、彼は自らの手でオリアスを殺める選択を諦めない。


「僕はきちんと自分の意志でオリアスを殺したいんだ」


 それは凪いだ湖面のように穏やかで澄んだ声だった。しかしそう語るハニエルの心内は、穏やかとは到底呼べない感情が渦巻いていた。

 ——魔王に殺させてなるものか。

 それは、獲物を見つけた獣のようだった。


〝今のお前を人と呼ぶのは疑問だがなァ〟


 化け物のようだと魔王は揶揄した。どす黒いハニエルの感情は、魔王にとって笑い話の種でしかない。


「ありがとう。最悪の気分だ」


 そう言ってハニエルは歪に笑った。

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