6章

第1話

 目覚めたという感覚はさほどなく、激しい倦怠感がハニエルを襲った。それと同時に胃からせり上がる不快感。慌てて口を押さえて部屋を見回せば、侍女が持ち込んでいた紙袋が目に留まる。以前体調を崩した際に置いていったものだ。

 一通り吐き出して、備えてあった水差しで口をゆすぐ。雑な動作で口元を拭うと、苦々しい声でハニエルは呟いた。


「半分現実ってこういうことか……」


 夢の中で行使した魔術は、目覚めたハニエルの体に負担を掛けていた。オリアスがハニエルを治療した理由にも納得がいく。


「さて」


 ハニエルは従者を呼び吐瀉物を片してもらうと、徐に机に向かい引き出しを漁る。取り出したのは封筒と便箋。

 横目で時計を確認すればまだ早朝と言える時刻だった。


「……大丈夫そうだね」


 今日は客人を迎える予定があった。あまりもたもたはしていられない。

 ハニエルは机に向かうと手紙を書き始める。駆け足で認められていく文章には、オリアスのことが記されていた。


「ズィフス・グラジズ……。古の魔術か?」


 それはヴィクトリアの魔術とは異なる詠唱だった。

 現在、世界で魔術を扱うのは新ヴィクトリア王国以外には存在しない。他国において魔術は悪だ。しかし大昔の——魔王が君臨していた時代には、今とは違った魔術が存在していたと聞く。

 その多くは魔王無き現在において不吉とされ失われてしまったのだが、希に過去の遺物として残っていることがあった。


「これで良いかな」


 手紙を書き終えると時計の針は一周しており、早朝というには少し遅い時間帯になっていた。客人の知らせはまだ来ない。

 面会予定の客人グランツ・フリードリヒとハニエルが最後に会ったのは彼がまだ少年だった時だ。当時は心も体も不安定で、きちんとした挨拶もせずうやむやに別れてしまったことを思い出す。

 あれから七年。ハニエルは変わった。前王ジブリールが死に、新ヴィクトリア王国も新しい治世となった。


「きっと彼の中では、まだ僕は泣き虫のままなんだろうな……」


 あの大きく優しい手は変わっていないだろうか。あの陽だまりのような眼差しは変わっていないだろうか。


「……変わってないといいな」


 ——自分は変わってしまったから。

 そんなことを考えていると、部屋の扉を叩く音が響く。中へ招けば青年従者が入ってきた。


「ハニエル様、郊外警護の者から連絡がありました」


 青年従者はこの国では珍しい褐色の肌をしていた。もしかしたら他国からの難民かもしれない。ヴィクトリアに根付いた難民の中には、こうして王宮に勤めているものも少なくはなかった。


「話を続けてくれ」


「はい。グランツ様が到着なされたということで、王宮への到着予定は昼過ぎになるそうです」


「わかったよありがとう。ああ、ついでにこれも持って行ってくれないかな」


 用が済んだので立ち去ろうとする青年を呼び止め、ハニエルは先ほど書き上げた手紙を掴む。

 その際、オリアスの詠唱文句に心当たりはないか尋ねてみた。


「君、ズィフス・グラジズって魔術の詠唱に心当たりはないかい?」


 難民であったとしても彼が魔術に精通しているとは限らない。そもそも他国で魔術に触れる機会など極めて珍しく、手掛かりを得られることの方が奇跡に近かった。

 青年は驚いた顔をしてハニエルを見返すと、眉間にしわを寄せて唸る。そして少し考え込んだ後で、彼は意外な言葉を口にした。


「ズィフス……。なーんか俺の故郷で聞いたことがあるような……」


「その話詳しく聞かせてっ!」


 情報を得られると思っていなかったハニエルは、反射的に青年の肩に掴み掛かる。いきなりの出来事に驚いた青年は、大きく肩を跳ねさせると目を見開いてハニエルを見ていた。

 夕空を思わせる青年の橙色の瞳からは不安が滲んでおり、恐怖で顔が引きつっている。ハニエルの勢いに気圧されて萎縮した様子だったが、彼はおずおずと話し始めた。


「俺、クツァル族ってところの出身なんですけど、その村で昔から使われている言葉に似てるなぁって……」


「言葉の意味はわかるかい?」


「そこまでは……。魔術の詠唱に使う程度でどういう意味かはさっぱりです。ああでも俺の婆さんならなにか知ってるかもしれません」


 ——クツァル族。

 その名前にハニエルは聞き覚えがあった。

 グローリア山脈北部に住む部族で、新ヴィクトリア王国が建国される以前からこの大陸に住む人々である。


「なるほど、クツァル族出身だったんだね。どうりで肌が褐色なわけだ」


 クツァル族の最大の特徴はその褐色の肌である。また彼らは独特の文化を有しており、ヴィクトリアの魔術発展にも貢献したと魔術史に記されていたことを思い出した。


「君の名は?」


「え、えっと、ラキファです。ラキファ・トルチカって言います!」


「ラキファか、覚えておくよ。君のおかげで助かった、引き止めてしまってごめんね。手紙、よろしく頼むよ」


 そう言ってハニエルはラキファに手紙を託す。彼は託された手紙をしっかりと受け取ると、ハニエルに一礼をして部屋から立ち去った。

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