第4話

 場にそぐわない爽やかな風が吹き抜ける。すると、風に飛ばされた鮮やかな花びらがハニエルの前を横切る。しかし彼はそれに視線を奪われることはなく、真っ直ぐにオリアスを見ていた。

 彼の左目は紫色に輝いている。


「殺し合いをしよう。今、ここで」


 ハニエルの元に魔力が集束していく。そこには明確な殺意があった。

 対してオリアスは少し狼狽えているようで、ハニエルからゆっくりと距離を置く。


「今、ですか? 少し性急では……」


「敵が目の前に居るのに性急もなにもないよ。やれる時にやるだけさ」


 ハニエルはさらに魔力を高めると、片手をオリアスの前へ突き出し術式を練り始める。たった一言詠唱を唱えれば、たちまち魔術が発動しオリアスを襲うだろう。


「……わかりました。後悔しないでください、僕は強いですよ」


 そう呟くとオリアスに変化が見られた。淡く光っていた碧い人型がより強い光を放つ。

 ハニエルはその光を見届けると、詠唱を唱えて魔術を発動させた。


「〝炎よ〟」


 掲げられていた手から巨大な火球が生まれ、オリアスに向かって一直線に飛ばされる。放たれた炎の球体は火の粉を撒きながら周囲の花々を焼いて進んだ。

 しかしその炎を前にしてもオリアスが動く気配はない。彼は避けることなく火球を受けると、炎に包まれた。火柱が天に向かって噴き上がる。


「〝罪咎の魔王に科す——〟」

 ハニエルは休む間も無く次の魔術の術式を組み始める。躊躇いもなく紡がれていく言葉は魔王の力を引き出す凶悪な詠唱に他ならない。


「〝腸を以て其の肉を縊れ〟」


 詠唱に応えるように黒い靄が周囲に立ち込めていく中、ハニエルは立ち昇る火柱の中からオリアスの声を聞いた。


「〝ズィフス・グラジス〟」


 聞き馴染みのない言葉だった。なんと言っているのか意味はわからない。だがハニエルにはそれが魔術の詠唱であると察しがついた。

 凶暴な靄がオリアスに向かっていく。しかし彼は動じることなく詠唱を続けていた。


「〝ベルツピーフェ〟」


 碧い光がオリアスに集束していき強烈に瞬く。そしてその閃光は黒い靄を弾き飛ばすと、周囲を照らしながら四方に放射される。オリアスを起点とし、無数の光が闇を切り裂いていく様は、日が昇る夜明けを想起させた。

 オリアスはそのまま間をおかず、高速で魔術を組み上げていく。展開された魔術は光を用いたもので、オリアスの手元に巨大な光の剣が形成された。

 出現した剣が真っ直ぐにハニエルへ向かって放たれる。


「ちっ」


 舌打ちを漏らしたのはハニエルだった。

 光の剣はハニエルを守っていた結界に衝突すると鋭い閃光を放って消える。衝突の反動に耐え切れずハニエルの体がよろめいた。どうにか転倒を堪えて前を見れば、彼を守っていた結界は消滅していた。


「終わりにしませんか? ここは半分が夢です。殺し合いをしても意味はありません。無意味な争いは互いの心を傷付けるだけです」


「殺そうとしている相手に随分甘いこと言うんだね」


 ——しかしその提案は悪くない。

 ハニエルとてこの戦いは無意味であることはわかっていた。夢で本気の殺し合いなど、馬鹿げているのにもほどがある。オリアスを焚きつけたのは彼の実力がどれほどのものなのか知っておきたかったからだ。


「本当はあなたを殺したくないです。しかし魔王を討たなければ、差別は消えませ

ん」


 ヴィクトリアから出たことがないハニエルは、大陸の外がどうなっているかわからない。差別が横行していることは知っているが、実際に見たことはない。

 オリアスの声は厳しいものだった。きっと彼は、その目で凄惨な状況を目の当たりにしているのだろう。


「僕は人々を救いたいです。あなたも含めて」


「僕も?」


 意外な言葉にハニエルは目を見開く。


「ヴィクトリア王族を魔王の束縛から解放します。ハニエル様、あなたはもう苦しまなくて良いのです」


 オリアスの言葉はおとぎ話の勇者や、人々から崇められる救世主のそれだった。

 しかしその言葉を受けて、ハニエルは自身の奥底でどす黒い感情が蠢くのを感じていた。


「苦しむ……だって?」


 ハニエルの口から低い声が漏れる。その冷たい響きは、彼自身でさえ驚きを覚えるほどだ。

 魔力がハニエルの感情に呼応するように高まっていく。魔王の高笑いが頭の中で聞こえた気がした。


「笑わせないでよ。僕は幸せだ。それを君は勝手に辛いものだと決めつけて、挙げ句の果てに壊そうとしている。わかるかい?」


 ハニエルに気圧されてオリアスが後ずさる。砂利を踏みしめる音が聞こえたが、ハニエルはそれを気に留めることはない。

 黒い感情が蠢き、ハニエルを侵食していく。彼の真隣で魔王が囁いた。


〝我を求めよ〟


 それは容易く理性を剥がす、麻薬のように甘い声だった。

 ——しまった!

 そう思うより先に体が勝手に動く。何者かに支配されたような感覚に、ハニエルは短く舌打ちをした。

 誘われるように魔力を紡いでいけば、漆黒の靄が彼を取り囲む。そして靄は大きく膨れ上がっていくと、次第になにかの形を形成し始めた。


「これが、魔王……」


 それは、金色の鬣を持つ黒い獅子の姿だった。

 獅子はおぞましい咆哮をあげ、立ち竦んでいたオリアスをじっと睨みつける。

 するとその時、ハニエルが叫んだ。


「僕を攻撃しろ!」


 その叫びにオリアスが反応する。彼は碧い光を纏うとハニエルの周囲に人の頭ほどはある氷塊をいくつも展開し、それを振り下ろす。氷塊はハニエル目掛けて落下するが、そのどれもが黒い獅子によって砕かれてしまった。

 オリアスが再び魔術を使おうと詠唱を開始する。


「〝ズィフス・グラジス〟」


 しかし詠唱はそこでぴたりと止まってしまい、彼は手を中途半端な位置で止めたまま静止してしまった。

 わずかに手が震えている。どうやら術を使うことを躊躇っているようだ。


「魔王ーっ!」


 絞り出すようにハニエルが怒声を発する。彼は今にも倒れそうなほど肩で大きく息をしていた。左目が疼くのか片手でその目を押さえながら、もう片方の空いた手はなにかを強く握っている。

 よく見るとそれは、先ほど砕かれた氷塊の欠片だった。鋭利に尖った先端はまるで刃物のようで、それを持ったままハニエルは不敵に笑うと


「……好き勝手に、させるかよ!」


 そう言って氷塊を脇腹に突き刺した。

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