第2話
「他国の人から恨まれこそすれ、礼を言われるなんて思ってもみなかったよ。むしろ礼を言うのはこちらの方だ」
新ヴィクトリア王国に流れてくる難民は日に日に数を増していた。何が要因で数が増えているのかはわかっていないが、このままの状態が続けばいずれこの国でも受け入れが厳しくなってくるだろう。他国と交易を持たないこの国は、すべてを自給自足で賄わなければならない。
国民の生活が厳しくなれば、自然と難民の受け入れに難色を示す人々が出てくる。小さな不満が積もり、それはやがて新しい差別と衝突に繋がるだろう。
そんな事態に陥れば、迫害を受けた人々はこの世界のどこにも居場所がなくなってしまうのだ。
オリアスの活動はヴィクトリアにとっても救いとなるものだった。
「君の活動は」
穏やかな声でハニエルは言う。
左右異なる色の瞳は、顔の分からない人型の先にある、オリアスに対して向けられていた。その目は魔王と呼ばれるにはあまりにもかけ離れた、とても優しい目だった。
「君の活動は、とても勇気あるものだ。きっと未来の希望になる」
オリアスの活動は言わば世界の常識を否定し、それまで異常とされた考えを広めていくということ。それには多くの反発や危険が伴うということは想像に難くない。彼の行動は並大抵の覚悟と勇気ではできないだろう。
——彼は未来の希望になる。
これはハニエルの本心だった。
「……って、魔王に言われても嬉しくないか」
「魔王だなんて! そんなこと仰らないでください!」
身を乗り出して否定するオリアスを見てハニエルは目を丸くした。
彼の表情こそわからないが、きっと眉を寄せて必死な形相をしているのだろう。穏やかだと思っていたが、高い理想を掲げているだけあって意外に熱い青年だ。
「ごめんね」
謝罪の言葉は無意識に出たものだった。
オリアスは他国の人間でありながら差別と向き合い、魔王と疎まれる自分にでさえ情を傾ける青年だ。そんな彼を化け物と同列に見てしまっていた。
ハニエルは先ほどまでオリアスに抱いていた恐れを恥じる。
「僕はさっきまで君のことを恐いと思っていた。とても強い力だったからね。王宮で化け物騒ぎがあったばかりだし余計に警戒してたんだ」
「いえ、そんな! それに謝らなければならないのはこちらの方です。化け物……天使という種族ですが、あれは本当なら僕の方で管理しなければならなかったのです。しかし問題が発生して逃げ出してしまいまして……。申し訳ございませんでした!」
天使と呼ばれたあの化け物は、やはりオリアスと関係があった。言葉からして彼が所有していたものなのだろう。
「あの、その天使なんだけどさ……」
遠慮がちにハニエルが口を開く。するとわずかに、オリアスが息を飲んだ。そして彼はハニエルの言葉を遮ると、首を大きく横に振って次の言葉を制す。
どうやら彼は、ハニエルがどんな内容を話そうとしているのか知っているようだった。
「ハニエル様が退治なされたことは知っています。悲しいですが、仕方ありません」
それを聞いてハニエルの脳裏に天使の遺骸がちらつく。
勇ましく気高い純白の翼は無慈悲に手折られ、赤い血は土の中へと染みて錆びた臭いを撒き散らしていた。屍肉を漁る鴉たちが散乱した肉片を引きずる中で、ハニエルはその碧い瞳が恨めしそうに自分を見ていたことを思い出す。
王宮には屈強な兵のみならず、武器を持たない従者が大勢働いていた。後宮にはハニエルの母、イヴァだって居た。きっと誰も、ハニエルの行いを咎めるものはいない。
「仕方ない、か……。うん、そうかも知れない」
歯切れの悪い声で呟く。
殺し方の問題ではないのかもしれないが、やはりあれは凄惨な最期だったと、ハニエルの中の良心が痛んだ。
「でも、ごめん」
頭を垂れて詫びる。
「……ありがとうございます。そう言って貰えるだけで充分です」
そう言ったオリアスの声は水底のように落ち着いていて、ひどく優しいものだった。
しばしの沈黙が訪れる。しかしそれは決して居心地の悪いものではなく、微睡んでしまいそうになるくらい優しい時間だった。
夢の中で眠るのは可能なのか。そんなことを考えながらハニエルは空を見上げる。冴えた青空が視界いっぱいに広がっていた。
「あのさ」
たっぷりと息を吸い込む。
「そろそろ君の目的を聞かせて欲しいな」
穏やかな空気が一変し、糸を張ったように強張った。
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