第6話

 ジブリールはそんな息子を抱きしめると、ゆっくりと話し始める。いつもは粗暴で威圧感のある声が、凪いだ海のように穏やかだった。

 その優しい声が語った内容は、とても苦しいものだったけれど……。


「壊醒のことは知ってるな?」


〝壊醒〟。それはいずれ訪れる魔王の引き継ぎの際に、体に掛かる重い負荷を和らげるために行う儀式である。魔王はあらゆる苦痛を与え、あらゆる感覚を刺激し、体を支配しようと目論んでいる。それに耐えられる体にするため、必要不可欠な行いだと、ハニエルは聞いていた。

 しかしそれがどういう内容なのかは聞かされていない。

 こくんと頷くのを確認したジブリールはさらに続ける。彼の口から語られたのは、儀式とは名ばかりの恐ろしい内容だった。


 ——彼曰く、そこで行われるのは拷問であるということ。皮が剥がれ、肉が裂け、血が噴き出してもなお終わらない苦痛。叫んで叫んで、いずれ喉が裂けて血を吐いても叫び続け、己の血で息が詰まりのたうち回る。……だが、それでも拷問は終わらない。

 その儀式は辛いという言葉さえ陳腐に思えるほどだ。焼け石を飲み込む痛みに耐え、嗚咽を噛み殺す恥辱に耐え、そしてようやく、魔王に耐えられる体が出来上がる。——と、ジブリールは言った。


「そんな儀式を終えた頃には立派な狂人の完成だ。俺を含めて歴代の王はみんなどこかおかしかった。ハニエル、お前もきっと今のお前じゃなくなる」


 それは、親が子に言う内容ではなかった。だがしかし、ジブリールはそれが言える人間だった。

 お前は壊れる。お前は狂うと、ジブリールは擦り込むように息子に言い聞かせる。

 肩口からすすり泣く声が聞こえた。ハニエルの泣き声だ。

 なにかを言おうとしているのか、はくはくと空気を吸う音が聞こえて来るが、声が出せないようだった。


 彼はどうしていいのかわからなかった。父に見捨てられた気分で、それがどうしようもなく恐ろしい。

 なぜ自分が狂わなければならないのか。なぜ自分が苦しい思いをしなければならないのか。なぜ父はそれを課してくるのか。なぜ——

 そんな様子のハニエルをあやしながら、しかし、ジブリールははっきりと最後にこう締め括る。


「今日、日が沈んだら壊醒を行う」


「な、ん……」


 ようやく絞り出した声はか細い。

 ハニエルは空を見た。青い空が黄色に変わり始めている。

 あと少しで、日が、沈む。


「きょう……?」


「ああ、あと少ししたら深掘塔へ行くぞ」


「そんな、まだ……」


 ——まだ心の準備が出来ていない。

 ハニエルは声にならない声で叫んだ。


「何年も前から言ったところで同じだ。過去には生まれた時から壊醒の内容を知らされて、その日が来る前に気が狂って死んじまった王族もいる。そうじゃなくても、いつか来るその日に怯え、それまでの大事な日々を取り零しちまった奴もいる。忘れるなハニエル。儀式を終えた先には魔王がある。お前が魔王を引き継げなければ、また魔王が解き放たれるんだ」


 あまりに無慈悲な内容だった。ジブリールの声はいつにも増して厳しい。

 しかしそれがハニエルに突きつけられた現実だった。逃げ場はもうない。彼が逃げた時、それは世界の終わりを意味するのだから……


「どうして僕が。どうして、ですか?」


「呪いたいなら好きなだけ呪っていい。ただし、魔王にだけは魂を売るんじゃねぇぞ。大切な人が死んでも良いなら別だがな」


 ジブリールの言葉にハニエルの目が見開かれる。

 彼の脳裏には一人の少女の姿が浮かび上がっていた。淡いミルクティ色の髪を揺らし、紅玉の瞳を輝かせ、力一杯に自分の名を呼ぶ天真爛漫な女の子——ロゼ・バルキリー。

 彼女はいつもハニエルの前にいた。いつもハニエルの手を取り引いてくれた。臆病なハニエルを守ってくれた。


「ロゼ……」


 小さな声でハニエルは呟く。


「お前、ロゼちゃんのこと好きだろ? 儀式に耐えられれば、あの子の笑顔が守れるんだ。魔王を無事に引き継げれば、彼女の笑顔を守れるんだ!」


 ハニエルの目に少しだけ輝きが戻る。

 すると彼は力強く、


「僕はロゼを守りたい。ずっと守られてばかりだったから、今度は僕が守りたい」


 と言ったのだ。

 細い肩はまだ震えていた。しかしその瞳には強い意志が垣間見える。


「お前は本当に良くできた息子だよ。俺の期待以上だ」


 ジブリールはそう言ってハニエルの頭を撫でる。そしてひとしきり頭を撫で回すと、また力強くハニエルを抱き締めた。

 ハニエルはそこで違和感に気が付く。


「ちち、うえ?」


 抱き締めたジブリールの腕は細かく震えていた。弱々しいその姿は普段の彼とは掛け離れたもので、今まで見たことがない父の側面にハニエルは戸惑いを覚える。

 動揺するハニエルをよそに、ジブリールは小さな声で囁いた。


「俺はお前を息子として愛している。これからなにをしようと、なにがあってもだ」


 ジブリールの熱い吐息が耳元に掛かる。ハニエルはそれにこそばゆさを感じると、くっと堪えるように口を引き結んだ。やり過ごすように空を見る。

 見上げた空には星が瞬いていた。気が付けば辺りは薄暗くなっており、兵士たちが燭台に火を灯していく。

 日暮れは、もうすぐだ。

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