第5話
「バルキリー将軍! ロゼを!」
魔力を持たないロゼを傍に置いておくわけにはいかなかった。ジブリールは乱暴に彼女の細い肩を突き飛ばす。
「ハニエル様はどうされるのですか!」
ロゼを抱きかかえた将軍がジブリールに吠える。
「ハニエルは問題ねぇ! 早く立ち去れ、さもねぇとぶった斬るぞ!」
周囲は黒い靄に覆われていた。それはまるで、絶望を象徴するような黒だった。
これ以上は危険だと判断したバルキリー将軍は、ロゼを無理やり抱えるとそのまま走り去った。「ハニエル!」と叫ぶ少女の高い声が響く。
その場に取り残されたハニエルは、呆然と立ち尽くしていることしかできなかった。父親の左目には魔王が封印されている。その事実はよく知っていたし、何度か背筋の凍る魔力を感じたこともあった。
しかしここまで間近で、肌で、その禍々しさに触れる機会はなかった。そうなる前に、ジブリールがハニエルを守っていたから……
「あ……。ああ……」
まばたきを忘れる。歯が鳴る。足が震える。
光すら通らない黒い靄は、人間では遠く及ばない圧倒的な力を感じさせた。それは絶対的な支配者、この世の全てを統べる存在を嫌でも刻み込み、恐怖を植え付けてくる。
ハニエルは魔王の恐ろしさに呑まれていた。
「よく見ておけよハニエル。いずれお前がこれを引き受けるんだ」
ジブリールは笑っていた。しかしその笑顔はハニエルの知る父の笑顔とはかけ離れた、歪でこの上なく怖気が走る笑顔だ。
「いい加減にしろよ魔王。お前の好きに暴れていいとは言ってねぇ」
ジブリールの左目が紫色に鋭く光る。
すると、肥大し続けていた靄が動きを止め、ゆっくりとゆっくりと収束していった。ぎこちない動きはまるで、地面を引きずられ、爪が剥がれてもなお抵抗を続ける罪人のようだ。
靄が小さくなっていく。そこでハニエルは聞いた。
——次はお前だと囁く声を。
「ひっ!」
ハニエルは短く悲鳴をあげると反射的に飛び退く。その際に足がもつれてしまい、尻餅をついてしまった。庭園の小石が手の平に刺さり、細かな擦り傷が出来る。だがしかし、ハニエルに痛みを気にしている余裕はなかった。
彼の黒と紫の双眼が再び前方の空を捕らえる。
そこにはもう、黒い靄などなかった。
「あ、あれは……」
ハニエルはそう呟くのがやっとだった。
見上げれば青い空が広がっている。先ほどの出来事はお前が見ていた悪い夢だったと説かれてしまえば、きっと頷いてしまうだろう。
ハニエルはしかし、これが夢ではないことをわかっていた。手の平の小さな傷が、痛みという形で現実を突きつけてくる。
彼の意識の外側から足音が聞こえてきた。乱暴だが力強い足音は、放心していたハニエルの中に踏み込んでくるような、そんな感覚だ。
ゆっくりと音のする方へ顔を向ければ、険しい表情の父が立っていた。
「あれが魔王だ。〝中にいる〟のはこんなもんじゃねぇ」
ジブリールは自身の左目を指す。先ほどまでの鋭い光はもうない。いつも通りの目だ。
だが今はそれがたまらなく恐ろしかった。
「怖いか?」
ジブリールが問う。
「……はい」
ハニエルは答える。
「そうか」
ジブリールは短くそう言っただけだった。彼は尻餅をついたまま起き上がれないハニエルに手を貸すと、ゆっくりと立たせる。
並んだハニエルの頭が目線の下にあった。まだ子供の背丈だ。
成長している反面、幼い部分もある。大人の男性に比べればハニエルは細く頼りない。
ジブリールは言う。
「お前が魔王を引き受ける未来は変わらない。いいかハニエル、これから俺が話すことはお前にとって、怖いことでしかない。泣いていい。それくらい残酷なことだ」
ハニエルの肩は震えており今にも泣きそうだった。しかしそれでもしっかりと現実を受け入れようと、懸命に涙を堪えていた。
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