第4話

 ハニエルが深掘塔に足を運び始めたのはつい最近のことだ。あれはそう、魔王を封印して数ヶ月経った頃だろうか……


 ——トラウマの克服。


 ハニエルにとってあの塔はトラウマだ。半年前は近寄りたくない場所だった。

 彼の記憶にあるあの場所は血であり絶望であり、そして忘れてしまった痛覚だ。ここを訪れるたびに血の生臭さと吐瀉物の酸味が、ハニエルの脳裏に鮮烈によみがえる。

 始めにその臭いを覚えたのはいつだったか。もう随分と昔のことのようだ。

 それは遡ること十年前、ハニエルが十三歳の頃である。



 *****



「待ってロゼ! そっちは危ないよ……」


「ハニエルは相変わらず怖がりね! そんなんじゃ立派な王様になれないわよ!」


 ヴィクトリア王宮庭園。

 少年だったハニエルと幼なじみの少女ロゼは、ほとんど毎日のように遊んでいた。ロゼの父親であるバルキリー将軍は軍を総括する人物であり、ヴィクトリア屈指の名家だ。そのため王宮に出入りする機会が多く、年が近いからと一緒に遊ばせるようになって現在に至る。


「怖がりじゃないもん!」


 からかわれたハニエルの顔は紅潮しており、今にも泣き出しそうだった。彼は聡明で聞き分けの良い王子であったが、臆病で泣き虫の嫌いがある少年だ。対するロゼは活発で好奇心旺盛な、所謂じゃじゃ馬娘というもので、ハニエルがロゼに泣かされるというのが常だった。


「ほーらまたそうやってすぐ泣く。大丈夫よ、ハニエルになにかあったら私が守ってあげるね!」


 ロゼがハニエルに笑いかける。

 日の光を背に笑う彼女はまるで一枚の絵画のように美しく、可憐な笑顔に思わず声が出なくなる。


「どうしたのハニエル?」


 指摘されて我に帰る。どうやら惚けていたらしい。

 そんなハニエルを、ロゼは変な顔だと言って笑った。


(ああ、可愛いなぁ……)


 ハニエルにとってその笑顔は太陽よりも眩しく、花よりも美しい唯一のものだった。

 ハニエルはロゼが好きだった。彼女が笑ってくれるのなら、それだけで幸せだった。


「仲良いなあいつら」


「まったくロゼの奴は王子に何たる無礼を……!」


「いいっていいって。ハニエルはちっとばかし肝が小せぇから、ロゼちゃんみたいな女の子が引っ張ってくんねぇとさ!」


 そんな二人を見守る人影が二つ。

 赤毛で顔に大きな傷がある細身の男と、大柄で恰幅のいい豊かな口ひげを蓄えた男だ。傷のある男はハニエルの父、新ヴィクトリア王国国王ジブリール。口ひげの男はロゼの父、軍の最高司令官バルキリー将軍である。

 二人は庭園にある噴水の脇で話していた。空は青く澄んでおり、太陽の光を受けて水が煌めいていた。花の香りや小鳥のさえずりも聞こえてくる。

 子供達の笑い声が響いた。そこはとてものどかな空間だった。


「なぁ将軍、儀式のことなんだけどさ」


 そんな場所に不釣り合いなほど顔を曇らせたジブリールが言う。声もどこか暗く重たい。


「もう、そんな年頃か……」


 ジブリールの発言を受けた将軍が負けずとも劣らない低く重たい声で返す。そして彼は視線だけ動かすと深い深い溜め息を吐いた。将軍の視線の先には、ハニエルがいた。

 ジブリールが呟く。


「時が止まればいいんだけどな」


 それはまるで息子の成長を憂いてるようだった。

 臆病だと、泣き虫だと言われているハニエルだが、ロゼと比べるとその腕はたくましく硬い。肩幅も首の太さも少女とは違う。もうそろそろ声変わりも始まるだろう。


「ええ、本当にそうですね」


 バルキリー将軍は時が経つのがここまで残酷だと思ったことはない。人の成長をここまで恨んだこともない。時の流れは、非情だ。

 ジブリールは、将軍がハニエルを目で追っていることに気が付いていた。そして、彼を哀れんでいることもわかっていた。その上でジブリールは告げる。


「——今夜から始める手筈だ」


 たった一言で十分だった。その一言で、将軍の顔から表情という表情が削ぎ落とされる。


「陛下! そのような事実、私は聞いていない!」


 将軍が声を荒げれば、遊んでいたハニエルとロゼがこちらを振り向く。向けられた純粋な瞳に罪悪感が押し寄せた。

 二人は細い肩を寄せ合い、怯えた様子でこちらを見ている。少年と少女の瞳は、不安で揺れていた。


「悪い悪い。俺がちょっと変なこと言っちまっただけだ、気にすんな!」


 ジブリールが気さくに笑い掛ければ二人はまた何事もなかったように遊び始める。再び子供たちの笑い声が庭園に響き渡った。


「お前は優しい。だからぎりぎりまで黙っていた」


 声の調子をまた低く戻し、ジブリールが話を続ける。

 ジブリールの顔に表情はなかった。彼の獰猛な紫の両眼は、感情を悟らせることを許さない。


「ロゼのことを頼む。きっとハニエルは、しばらくは——下手すりゃ一生会えねぇ」


 そう言った彼の目は、ほんの少しだけ優しかった。


「ハニエル、ロゼ!」


 ジブリールの快活な声が庭園に響く。彼の顔はすっかりいつも通りの明るい国王の顔に戻っており、先程まで暗い声を発していた人物とは別人のようだった。

 呼ばれた二人が駆け寄ってくる。最初はロゼが先頭を走っていたが、すぐにハニエルが抜き去ってしまった。後から付いてくるロゼを気遣うように、ハニエルが後ろを振り返る。彼女は少し不満げな顔をしていた。


「昔は私の方が速かったのに……」


 不機嫌にそう言われ、ハニエルは困ったように眉を寄せる。なんと答えていいのか

わからなかったので、彼はとりあえず謝ることにした。


「うーん、ごめんね?」


「なんだか嫌味っぽい」


「えー、そんなこと言われても困るよ……」


 幼かった頃は二人とも変わらない体つきをしていた。一時はロゼの方がしっかりしており、少し得意げに振舞っていたこともあった。しかしやはり男女。ハニエルはロゼより二つ年上ということもあり、その差はあっという間に追い越されてしまった。


「まーまーロゼちゃんそう怒んないでくれよ。度胸は君の方がよっぽど据わってっからよ!」


 ジブリールに頭を撫でられ、ロゼの顔がぱあっと明るくなる。まるで花が咲き誇るような笑顔だ。

 ジブリールは思う。じゃじゃ馬と呼ばれている彼女だが、これから落ち着きを身に付ければ、きっと誰もが振り向く美しい女性になるだろう。ハニエルも気が小さいところが気になるが、真面目で優しい少年だ。母親に似て——ハニエルとジブリールは恐ろしく顔が似ていない——綺麗で整った容姿をしているので、女性たちが色めき立つ声が今にも聞こえてきそうだ。

 二人は成長している。眩しいくらいに。

 できればこのまま何年、何十年と成長を見守って——


「——っ! 離れろ!」


 咄嗟に左目を押さえ、叫ぶ。

 ジブリールは失念していた。自身の左目に潜む魔王の存在を……

 左目が疼く。黒い感情がじくじくと侵食していく。不快感が体中を這い回り、それは魔力となって露わになった。ジブリールの周りに集った魔力が、黒い衝動に共鳴するように騒ぎ始める。

 魔王は未来を夢見ることなど、許しはしなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る