第3話


「師匠、帰りはどうするのですか?」


「大丈夫よ。夕方には雨は止んでるわ」


「そうなんですね」


ミラージュは魔力の流れを読むことに長けていた。

魔力はどんな些細な場所にもどんな時間にも、どこにでも存在している。そしてその日常にありふれた力は、意思を持っている。

実際に声が聞こえるわけではない。ミラージュ曰く「女ってね、察するのが上手な生き物なのよ」なのだそうだ。


魔力はこの世界のあらゆることを知っている。雨に溶け、風に吹かれながら世界を回っている。そう、まるでさながら旅人だ。

東の風に運ばれた魔力が血の匂いを運べば、きっと東で戦争があったのだろう。

南の雨雲に運ばれた魔力が煤けた臭いを運べば、きっと南の街が燃えてしまったのだろう。

ミラージュの元にはそんな話が運ばれてくる。


「そういえばハニエル、あなたまさか〝あの場所〟で話をするつもり?」


長い廊下を歩く道すがら、ミラージュはハニエルに疑問をぶつけてみた。

彼女は長年この王宮に勤めていた魔術師だ。今歩いている場所がどこかもわかるし、この先に何があるかも知っている。知っているからこそ、ハニエルに聞いた。


「そのつもりです。調べ物がありますし、なによりあそこはあまり人が往来しませんから」


「そうだけど……。アタシは良いんだけど、あなた、大丈夫なの?」


ミラージュは弟子の考えがわからなかった。

不安げな彼女の真意を察したハニエルが困ったように笑う。けれどしっかりとした口調で、


「いつまでもトラウマを引きずるのは腹が立つので」


と言った。たまらずミラージュは吹き出す。


「もう! まったくもう! あなたって本当にイイ男ね!」

ミラージュはハニエルに抱きつくと、まるで我が子のように彼の頭を撫でる。

忌まわしい記憶に向き合う姿は勇ましく堂々としていた。


「あはは、苦しいです師匠」


ミラージュの体は立派な男性である。さすがに苦しいのか、ハニエルは穏やかな口調で断った。慌ててミラージュが離れる。


「実は昨日、あなたに手紙を出そうと思っていたんですよ。でも、やはり師匠にはお見通しでしたね」


雨音を聞きながら二人は廊下の角を曲がる。彼らは深掘塔に向かって歩いていた。


「魔力が騒がしかったのよ。王宮から流れてきた魔力だったわ」


この王宮には王族専用の魔術の学習場所がある。それが深掘塔だ。

深掘塔は王宮の北側に建てられた小さな塔だ。

王宮を建てた際、当時の国王が魔術を研究するために設けた施設だった。それが年月を経た今、そこは王族が魔術を習う場所になっている。ハニエルもこの塔でミラージュから魔術を授かった。


「では、昨日の騒ぎもご存知で?」


「ええ、もちろん知っているわよ。だから急いで手紙を送ったの」


深掘塔は王宮から少し離れた位置にある。

一説によると魔王の介入で気が触れた国王が、誰かを傷つけないよう離れた場所に建てさせたらしい。そしてそこで多くの魔術を研究していたとも言われている。


「——僕は、あれの正体がわからない」


「ハニエル、ここではこれ以上その話題を避けた方がいいわ。まだ人が多いもの」


塔が見えてきた。あいにく外を歩かなければいけないので、見張りの兵士が二人分の雨具を持ってくる。侍女たちが濡れた時のためにと、乾いた布を手配していた。

侍女の一人が「飲み物はどうなされますか?」と尋ねてくる。


「寒いし体が温まる飲み物が欲しいかな。……ああ、懐かしいな。昔は嫌ってほど通ってたのに」


塔を見上げながらハニエルは言った。


「そうね、むしろあなたがここへ来られたことの方が驚きよ」


塔の前に着けば兵士が中の扉を開ける。

内部は昼間だというのに薄暗い。きっと、雨が降っているせいだろう。

目の前には上へ登る螺旋階段と、地下へ下る階段がある。

彼らは階段を登った。


「あのねハニエル」


塔の内部は魔力が多く留まっている場所だった。それゆえに魔力に耐性のない者が立ち入るのはあまり好ましくない。


「アタシ、嫌な予感がするのよ。昨日の騒ぎは、きっと些細なきっかけよ」


「そうですか。奇遇ですね、僕もそんな気がしています」


薄暗い塔を登るのに、彼らは自身の魔術で足元を照らしていた。小さな光源が、わずかに揺れている。

二人はゆっくりと塔を登っていた。目的の部屋はまだ見えない。


「先行きが不安ね」


前方には薄暗い闇が広がっている。

あいにく、その先を見ることはできなかった。

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