第2話
「——今日も寝覚めがいい」
起きたばかりのハニエルが今日一番はじめに呟いたのがそれだった。
薄ぼんやりと覚えているのは碧い光。揺りかごのように温かかったのを覚えている。
念のため自分の体が自分のものであるか確かめる。
拳を握る。
握り締めた拳の感覚は、きちんと自分の意思が通っていた。爪が食い込むほど強く握り締める。今日もちゃんと痛みはない。
二夜に渡り悪夢に苛まれなかったのは、ここ最近ではまず、ありえなかったことだ。歴代の王たちも魔王による悪夢に悩まされていたと聞く。それはハニエルの父、ジブリールも例外ではない。
「あおい、ひかり。碧……」
昨日の化け物も纏っていたはずだ。夢の中の光と同じ、碧を——
それがどうにも無関係とは思えなかった。
「お師匠様に相談しようかな。夢にまつわる魔術も気になるし」
今日はハニエルの師、ミラージュが王宮にやって来る予定だ。
ふと横目で見た時計の時刻は、早朝とは言い難い時刻だった。下手をすればそろそろ来るかもしれない。
ハニエルはベッドから移動すると衣装棚に手を掛ける。なにを着るのか決めて着替え始めたところで
「おはようハニエル。久しぶりねぇ」
と、豪快に扉を開ける音が響いた。
「おはようございますお師匠様」
呑気に受け答えをするがハニエルは上半身になにも身に着けていなかった。しかし彼は特に気にすることもなく穏やかに会話を続ける。
魔王によって衰えたハニエルの体は細く、浮き出たあばら骨が頼りなさを強調していた。肌が白いのも余計に彼を弱々しく見せている原因の一つだ。
ミラージュは気付かれない程度に眉を寄せる。
しかしすぐに表情を明るくすると、しなを作っておどけて見せた。
「あらぁ随分と色っぽい格好じゃない。女の子が見たら赤面しちゃうわね」
「そういうあなたは女性ではないのですか? 僕は師匠のことを女性だと思ってます
よ」
言われてミラージュは目を見開く。心なしか頬もほんのりと赤い。
彼——彼女は男性だった。しかし心は女性である。
ハニエルは顔が良い。その、面が秀でた王子様に甘い言葉を囁かれれば、どんな女性でもときめくだろう。師匠のミラージュでさえ例外ではない。
たとえ体が立派な男性でも、だ。
「うふふ、さすがねハニエル。そうやって何人の女性を誑かしたのかしら。あなたの
女性遍歴はやんちゃだったものねぇ」
やんちゃだと彼女は言うが、ハニエルの女性遍歴はそんな可愛らしいものではなかった。爛れている、という表現が正しいだろう。女性と言わず、老若男女幅広く手を出したと言っても過言ではない。
今でこそ落ち着いているがハニエルにも思春期があり、気持ちが不安定だった時期がある。荒れていたのはその頃だ。
「過去のことですよ。過去の」
痛い過去を掘り返されハニエルの澄ました顔が引きつる。
彼にとってこの事実は汚点であり、あまり触れられたくないものだった。
「そうね、過去のことだったわね。今では立派な王様ですもの」
ミラージュが歩み寄る。長身のハニエルと並んでも、ミラージュの背は頭半分ほど高い。しかし、それでもミラージュの雰囲気が女性のものと変わらないのは、平素から言葉遣いや仕草に気を遣っている努力の賜物だった。
「移動しましょう」
着替え終わったハニエルが、目線を上げながら言った。
部屋を出ると雨が降っていることに気が付く。雨音は今まで、少なくともミラージュが部屋を訪問するまで、聞こえてこなかったはずだ。
「雨ですか……」
「王宮に来たときは降っていなかったわよ」
どうやら雨はついさっきから降り始めたようだった。
鈍色の空から降り注ぐ雫は、大概の人の気分を憂鬱にさせる。衣服が濡れる、洗濯物が干せないといった物理的なものから、空に感化されて気分が落ち込むといった、精神的なものまで。その理由は様々だ。
ハニエルはしとしとと降る雨音を聞いていた。季節は夏。湿気が煩わしい。
「雨は——」
ミラージュが言う。
「心のわだかまりを洗い流してくれるから好きよ」
それを聞いて、ハニエルが小さく笑った。
——きっとこの人は、どんなときでも前向きな解釈をしてしまうのだろう。
途端に雨音が心地よく感じられた。
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