3章
第1話
王都アリダ・ヘルバの郊外には小さな森がある。その森には高名な魔術師が住むという。
その魔術師の名はミラージュ。ヴィクトリア王国王子、ハニエル・リオン・ヴィクトールの師にあたる人物だ。
以前は王宮に勤めていたのだが、ハニエルが五年前に成人——ヴィクトリアでは十八歳で成人とみなされる——したのを機に森でひっそりと隠居生活をしていた。
「うーん、やっぱり布はこっちのが良いかしら……」
森の奥、小さな家の中でその人は溜め息を漏らした。
小さな家の中には居間と寝室くらいしかなく、森で採取した植物とたくさんの本で埋め尽くされていた。しかし不思議と散らかっているように思えないのは、家主が綺麗好きで片付け上手だからだろう。静寂が心地よい空間だった。
家の主ミラージュは、そんな居心地の良い空間で眉間にしわを寄せていた。手入れされた美しく長い銀の髪が、はらりと肩から落ちる。
ミラージュの両手には芥子色の布と葡萄酒色の布があった。小さな机の上には針や糸が置かれていることから、どうやら裁縫をしていたようだ。
「あの子の黒髪には黄色い方が映えるけど、ちょっと悪目立ちしちゃいそうねぇ……。綺麗なお顔だから女の子が寄ってきちゃうわ」
そう言うと葡萄色の布を断ち始める。しかしやはりなにか腑に落ちないようで、まだ断ち終えていない布と鋏をそのままに、ぼんやりと窓の外を見た。
外の景色は木々が覆い繁る緑の風景。木漏れ日が美しく、風に揺られる葉の音が気持ち良かった。
——ここは優しい森だ。陰鬱とした印象を受けない。
風が吹きカーテンが揺れる。淡い緑の生地に白いフリルが施された上品で爽やかな品だ。
「そうよ、これよ!」
明かりを灯した時のように、ミラージュの顔が瞬時に華やぐ。中途半端だった作業を再び始めると、そのあとは無心で手を動かした。
子守唄を歌うように囁く。
「この世界はあなたには生き辛いものよ。アタシはこんな手助けしかできないけれど、少しは役に立つことを願っているわ」
*****
グローリア山脈の麓にあるこの村は、畑と酪農、そして山からもたらされる恵みで生活しているのどかな村だった。
そこに、村の平穏さとは掛け離れた雰囲気の男の姿があった。大剣を背負った大柄な男だ。しかしその異様な風貌を怪しむ者はいない。どうやら村人と彼は顔見知りのようだった。
男は村の奥を目指していた。先へ進めば日当たりの良い開けた場所が見えてくる。そこは、村の墓地だった。
男は小さな墓の前に立つ。目の前にある墓石は二つ。ささやかだが手入れの行き届いた墓だ。
「七年か……」
墓地には比較的新しい墓石が目につく。
遡ること七年前。——この村は、多くの命が失われた場所だった。
「会えなくてすまなかった」
——否、会わなかったと言った方が正しい。
男は七年前にこの村で妻子を失った。彼の娘は十を迎えたばかりで、まだまだこれからを生きていくはずだった。
彼の妻子を含め、村の者の命を奪ったのは〝魔障〟と呼ばれる病である。
発病原因はある日突然井戸から噴出した大量の魔力。
人は一度に大量の魔力を浴びてしまうと、魔力に耐性の低い者は魔力性障害——魔障を発病してしまう。
魔力は人間の体内に入り込むと自らの居場所を作るため、生命力の源となる核を作り換える。うまく適合すれば魔力がそのまま生命力となり魔力を持った人間になれるのだが、そうでない場合は自らの生命力と魔力が反発し合い、そして魔力に負ければ死に至る。これが魔障だ。
この村で起きた魔力の大量噴出の原因はわかっていない。王国側も当時事態の早期収束のため大勢の魔術師を派遣したが、数多くの命を失ってしまう結果となってしまった。
唯一できた処置といえば、時の国王ジブリール——ハニエルの父親だ——が早々に村を訪れ、噴出していた魔力を抑え込んだことくらいだろう。当時まだ少年だったハニエルも処置にあたっていたはずだ。
治癒魔術を扱う者も居た。しかしその人数は少なく、処置が間に合わなかった。
人の体内に直接干渉する治癒魔術は一歩間違えれば魔障を悪化させかねない。それだけ繊細で高度な魔術だったゆえに魔術師事態が少なかったのだ。
「もしや、グランツ君かな?」
男の背後からしゃがれた声が聞こえてくる。老人の声だ。
がちゃりと背負っていた大剣が鳴る。
名を呼ばれた男——グランツは、ゆっくりと背後を振り返った。
「村長ですか?」
「ああそうだよ。すっかり老いてしまったがね」
グランツに声を掛けたのはこの村の村長にあたる老人だった。七年前、グランツが国を去る前からずっと村を守ってきた人で、彼も世話になった人だった。
グランツはフードを取り去ると村長に歩み寄る。すると、村長の頭の位置がだいぶ低い位置にあることに気が付いた。
いくらグランツが大柄とはいえ、記憶にある彼はこんなにも小さかっただろうか。七年前はまだしっかりと立っていたはずだ。
そこでグランツは七年という月日を痛感する。
彼の目の前にいる老人は、杖を頼りに曲がった腰をさすっていた。
「その様子じゃ、まだ軍人をやっているようだね」
「軍人ではなく今は傭兵ですよ」
「どちらにせよわしには大差ない。この国に戻ってきたのは、やはり国王のことが気
になってかな?」
「そんなところです」
そう答えるグランツの顔にはわずかに疲労が見て取れた。無理もない、いくら彼がたくましい肉体を持っていたとしても、もういい年なのだ。端正で彫りの深い顔にも、深い海の色を称えた瞳の、その周りを覆う肉にだって、老いを感じさせるしわがくっきりと刻まれている。
「君も若くはない。ハニエル様ならきっとよくしてくださるだろう」
「ハニエル様……」
グランツにとってそれは懐かしくもあり、新鮮な響きの名だった。記憶の中のハニエルはまだ少年で、グランツが最後に見たときは情緒が不安定だったことを思い出す。
「ああそうか、君の記憶ではまだジブリール陛下の治世だったね。これから王都へ行くのかい?」
「ええそうです。気弱な王子がどのような成長を遂げられているか楽しみです」
まるで父親のような心境だった。彼はハニエルの成長した姿を想像して無意識に微笑んでいた。
グランツとハニエルは親子ほど年が離れている。さらに幼い頃からよく知っており、息子のように接してしまうのは無理のない話だった。
「歴代屈指の魔術師だと聞いているよ。国王陛下がお強いと頼もしいね。この国は安泰だよ」
——国王の力が国を守っている。その考えはあながち間違いではない。
新ヴィクトリア王国は魔王が治めているというのが他国の見識だ。未知の力を奮う魔王が統治しているという事実はそれだけで不気味で、どの国も関わろうとはしない。
だからこそこの国は数百年もの間、誰にも侵略されなかった。
「戻る気はないのかね? 君が居ればハニエル様も安心するだろうに」
「いずれはと考えているのですが、まだ決心がつかなくて……。とりあえず体が動くうちはまだ剣を置く気にはなれません」
申し訳なさそうにはにかむと、グランツは先を急ぐからとフードを被り直す。
この村は居心地が良い反面で、辛い記憶も呼び起こす場所だった。
「無理は禁物だよ」
見送る村長の声はどこまでも穏やかだ。老いはしたもののその声は変わらない。
グランツは軽く手を振ると村を後にする。降り注ぐ光は優しく、そして温かい。
風が懐かしい匂いを運んでくる。まるで時が止まったようだった。
〝早く帰ってきてね〟
「——っ!」
声が聞こえた気がした。愛しい少女の声だった。
反射的に振り返る。
だが、やはりそこには何もなくて……
グランツは再び歩き始める。その目は前だけを見ていた。
振り返っても仕方がなかった。
彼の大切な妻も娘も、七年前に死んでしまったのだから。
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