第8話
「やはり遅かったか!」
ロゼが王宮に戻ったのは日が沈み始めた頃だった。
彼女が帰還した時には全てが終わっており、王宮の惨状に愕然と膝を折る。そしてロゼは手短に状況報告を受けると、ハニエルの私室へ一目散に赴いたのだった。
その身なりはぼろぼろで、急いで戻ってきたのがありありとわかる。
「強力な術を使用したと聞きましたが」
そう尋ねるロゼの表情は浮かない。
「大丈夫、平気だよ。体力こそ衰えてしまったけれどね、魔力はむしろ充実してるんだ」
「それはベッドの中で言う台詞ではありませんよ」
彼女の声は厳しい。それもそのはずで、ハニエルは体調を崩して休養を取っていたのだ。無茶をするなと言われていたのにも関わらずこの有様では、きつく咎められるのも無理はない。
ロゼが溜め息を漏らせばハニエルが困ったように笑う。
「そんなに大事にはなってないってば。それより——」
笑顔から一変、その穏やかな表情を険しくさせる。彼には術の行使がどう自分に影響するのかなど、実に些細な問題だった。
そんなことよりも、ハニエルが気になるのは化け物のことだ。
「……」
違和感を感じていた。そして、それをどう消化すべきか悩んでもいた。
「化け物のことですか?」
なかなか話を切り出さないのでロゼが話題を振る。
彼は「そうだよ」と短く答えると、今度は彼女が目を伏せて考え始めてしまった。長い睫毛が瞳に影を落とす。紅玉の眼は戸惑いを含んだように揺れていた。
「私も今日、あれと対峙しました。風の術を使用したので応戦したのですが、その……」
そう言うと自身の双剣に触れ、視線を剣の方へと落とす。薔薇の装飾が施された見事な剣は、かちゃりと金属音を鳴らして煌めいた。
「……術を断つことが出来ませんでした」
浮かない声で呟く。
ロゼの双剣は通常の武具とは違う〝魔工品〟と呼ばれるものだ。魔工品は〝魔石〟と呼ばれる魔力を蓄積した石を用いて制作される。魔力を扱うため、高度な技術が必要となる一級品だ。
「君のその剣は、確か魔術の術式を破壊するものだっけ?」
魔工品の最大の特徴は〝魔力を持たずとも魔術が扱える〟というものである。
魔石自体に魔術の術式を覚えさせ、発動条件を満たせば魔術が展開される仕組みだ。技術の限界で一つの魔工品に一つの魔術しか施せないが、それでも十分な代物である。
「ええそうです。ですが先ほども申し上げました通り、風の魔術を破壊することが出来ませんでした。——そもそも剣が反応しなかったのです」
魔工品の魔術の発動条件は魔力に触れること。魔力に触れたその瞬間、魔石を加工した部分が紫色に発光する仕組みだ。
「ハニエル様、あれは魔獣だったのでしょうか?」
そう問いかけるロゼの顔からは不安が垣間見える。魔獣ですら恐ろしいのだ。それに加えて魔獣ですらない生物の出現は脅威でしかなかった。
ハニエルはしばし黙した後、ゆっくりと口を開く。
「なんとも言えないな。あれが魔獣ではないなんて、まだ僕の口からは明言できないよ」
ハニエルは国家の主であり、この国——もとい、世界屈指の魔術師である。その彼が魔獣以外の存在を認めてしまえば、大きな混乱に繋がるのは明白だった。
判断材料が足りなかった。相談できる相手も欲しい。できれば同じ魔術師で、冷静に現状を受け止められる人物が——
「ロゼ、今すぐ手紙を手配してくれないかい? 〝彼女〟に相談してみようと思うんだ」
「彼女——ああ、ミラージュ様ですね! ええ、彼女ならきっと知恵を貸してくださると思います!」
ハニエルの指示を受けロゼが踵を返す。すると、部屋の扉を叩く音が響いた。
「失礼致します……っと、これはこれは申し訳ございません。やだなぁ、お二人の邪魔なんてしませんよ。お届け物を持って来ただけです」
青年従者は妙な気を遣い用事を済ますと足早に去っていく。
王宮内ではハニエルとロゼの関係を噂する者は多く、二人が一緒に居るときは滅多なことでは邪魔をしないというのが暗黙の掟だった。見目麗しく家柄も良いロゼは、ハニエルの婚約者に相応しいと専ら評判である。
「手紙、ですね」
従者が持ってきたのは一通の手紙だった。簡素な白い封筒からは爽やかな香草の香りが匂い付けされている。
差出人を確認すると、ハニエルはややあと納得したように笑った。
「ロゼ、どうやら手紙を手配する必要はなさそうだよ」
差出人の名はミラージュ。
——ハニエルの師匠の名前だった。
「……先読みされてたかなぁ」
「なにか仰いましたか?」
「いいやなにも。それよりロゼ、君こそ休んだほうがいい。昨夜からまともに休んでいないのだろう?」
指摘されるとロゼの視線が逸らされる。宙を泳ぐ紅玉の瞳は、それが真実であることをまざまざと証明しており、わかり易い態度にハニエルが思わず顔を綻ばせた。
「せっかくの綺麗な顔が隈で可哀想なことになっているよ。僕は元気な君の顔が好きなんだけどな」
微笑んでそう告げれば、ロゼの頬が朱に染まる。
彼女は騎士としてはたくましいが、女性としては初心で純粋な一面があった。異性からの好意にめっぽう弱く、そのような感情を向けられると生娘のような反応をしてしまい、取り乱してしまう節があった。
「か、からかわないでくださいまし! ハニエル様がお休みになってくださるのであれば、私もちゃんと休みます!」
「わかったよ、ちゃんと休むってば」
そう告げれば、彼女はハニエルを一瞥すると静かに部屋を去っていった。彼の目は揺れるミルクティ色の髪を名残惜し気に見送っている。
そうして扉がゆっくりと閉まるのに合わせて、ハニエルは一言「おやすみ」と呟いた。
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