第7話

 彼の左目が怪しく輝けば、化け物が狂ったように鳴き始める。躊躇いもなく暴風を生み出すと、そのまま弾き殺さんばかりの勢いで風を放った。

 しかし、ハニエルは何もせずその場で静止している。

 彼の周囲には紫の結界が形成され、その身を守っていた。左目の魔王によるものだ。

 化け物が怯む。

 化け物は距離を置こうとより高く舞い上がる。だが、ハニエルはそれを許さなかった。


「見下されているのは癪に障るよ」


 彼が片手を振れば数多の巨大な氷塊が化け物を襲う。化け物は結界を展開しながらそれらをかわしていくが、絶え間なく襲い来る氷塊は確実に純白の巨体を追い詰めていった。

 白い羽を撒き散らし咆哮すると、化け物はハニエルに向かって突進してくる。

 紫と碧の閃光が走った。まるで雷電のようだ。

 ばちんと音を立て、互いの結界が反発し合う。


「……っ!」


 反動でハニエルの体がよろめくが、化け物から視線を外すことはない。もう一度手を振り上げると、今度は足元に散乱した矢の残骸が浮き上がり、群れを為すように一斉に襲い掛かる。……だがしかしそれも結界に阻まれ、化け物に届くことはなかった。

 そこからは一進一退だった。

 炎が猛り、風が吹き荒れ、大地が裂ける。

 ハニエルはいくつもの魔術を駆使し攻める。だがあと一歩のところでかわされてしまい届かない。


「決め手に欠けるね。やはりあの結界が邪魔だな……」


 予想以上に粘り強く応戦する化け物に彼は内心焦っていた。

 いくら魔力が上がったとはいえ体力が乏しいのは事実で、長期戦は体に負担を掛けていた。


「どうなるかわからないけど、試してみようか」


 ハニエルの脳裏に過ぎったのは、以前まで扱えなかった魔術の知識たちだった。

 その魔術はハニエルの知る限り最も強力な類いである。魔王を宿し、王として君臨したものにこそ相応しい魔術。

 そう、それは〝魔王の力そのもの〟を使役する凶悪な魔術——


〝グァ! グァァ!〟


 なにかを察知したのだろう、化け物の攻撃が激しさを増す。

 がむしゃらに風を放ち、懸命に抵抗する様子は駄々をこねる幼子のようだった。

 しかしその抵抗はハニエルを傷つけることはない。魔王により展開された結界は、そう易々と壊れることはない。

 ハニエルは静かに詠唱を始めた。


「〝罪咎の魔王に科す〟」


 彼の周囲に黒い靄が立ち込める。その黒さは全ての色を取り込み、どの色に染まることもないどこまでも暗く深い漆黒だ。

 大地が震えている。生温い風が体を撫でる。

 この地に満ちた全ての魔力がハニエルに——否、魔王に従僕していた。魔王の力である魔力たちは王の帰還に喜び、そして歓喜していた。

 祝福するように彼らは光り輝き始める。その色は魔王の色、紫だ。


(これが魔王……)


 かつてヴィクトリアの人々は魔力を使役するために多くの時間と知恵を割いた。人生を魔術の発展に捧げた者も多い。

 魔力は本来魔王の力。人間に扱うことなど出来ない、過ぎたものだ。

 しかしこの国の人々は長い月日を経てその大いなる力を修めることに成功した。それはヴィクトリアの、ひいては人類の歴史と発展において輝かしい功績だろう。

 だが——


(こうまで容易く魔力が従うなんて)


 詠唱を唱えながらハニエルは無力感に苛まれた。

 魔王の力は長い時間の中で積み重ねた人の叡智を、いとも簡単に踏み躙る途方もない力だった。


「〝贖い隷ぜよ——〟」


 心の臓のさらにその奥深くで魔王がせせら嗤う。そいつは人の慢心に無情な現実を見せつけ、楽しんでいた。

 人間ごときが思い上がるな——まるでそう言われているようだ。

 憤りを押し殺しハニエルは詠唱を続ける。


「〝腸を以て其の肉を縊れ〟」


 黒い靄が凶悪さを増して化け物に襲い掛かった。

 靄は化け物の体をぐるりと取り囲む。純白の巨体は黒い靄の中へ隠されて、ハニエルの視界からはかすかに確認できるだけだ。

 ばさばさと羽音がしている。しかし靄は纏わり付くように化け物を逃さない。

 碧い光が漏れていた。化け物が結界を張っているようだ。

 羽ばたきは力強い。しかしその懸命な抵抗も、魔王の前では無いに等しく……

 ハニエルはゆっくりとまばたきをした。


〝グァ……。ガガッ!〟


 短い悲鳴と共に靄が化け物を締め付け、その体を潰す。卵を殻ごと素手で握り潰したあの光景に似ていた。

 生々しい残骸を目の当たりにし、ハニエルは思わず顔を背ける。真っ赤な羽が足元に落ちたとき、彼は自らの力が命を奪ったのだと実感した。


「……」


 鴉の群れが何処からともなくやってきて、血濡れた巨体を取り囲む。鳥の声が幾重にも重なり耳障りだった。


「魔獣、だったのだろうか」


 ——確認しなければ。

 不思議な義務感に駆られ、噎せ返るような血の匂いに顔をしかめながら横たわる巨体に近寄る。濡れた土が靴底に張り付いて歩き辛い。

 奇天烈に曲がり、原型のわからなくなっていたそれを一瞥すると、ハニエルはある残骸を見つけた。

 よく観察するとそれは鞍であることがわかる。


「誰かに飼われていたのか」


 申し訳ないことをしたと謝罪しつつ、せめてもの弔いにと、ハニエルは化け物の遺骸に火を点けた。群れていた鴉が一斉に飛び立ち、それと同時に煙が空に舞い上がる。


「げほっ! げほっ!」


 煙を吸い込んでもいないのに咳が出た。

 脇腹に違和感を感じ手で押さえる。どうやら〝ナカ〟がやられているらしい。

 口を覆った手の平を見れば、不気味なほど鮮やかな朱色が付着していた。


「やっぱり魔王様の力はただでは使えないよね」


 やれやれと肩をすくめ、ハニエルは自室へ向かう。

 痛みは無い。しかしその足は鉛のように重く、引きずるように歩いて帰った。

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