第6話
「あの色……」
ハニエルはその色に見覚えがあった。
「〝大いなる奔流よ。世界を創りし祖の力よ〟」
大勢の魔術師による集団詠唱が始まっていた。
魔力のうねりが空に流れていく。
「〝其方らの王を。凍てつく氷に喩えて我らの前に示し給へ〟」
大気が冷やされ、瞬く間に巨大な氷柱が形成されていく。無数の氷柱はどれも槍のように鋭く、化け物の頭上に展開されていた。
魔術師たちが右手を掲げ、振り下ろす。すると手の動きに合わせるように、氷柱は化け物を貫かんと勢いよく落下した。
異変を察知した化け物がそれまでで一番強烈な風を発生させる。その風は立っているのがやっとのほどで、晴れた視界は再び砂埃で遮られた。
〝グアァァァーッ!〟
天を貫かんばかりの咆哮が響き渡る。
落とされた氷柱がどのような状態なのか、ハニエルの目からは確認することができない。
視界が開ける。そこで、彼は見た。
「結界、か」
純白の化け物は相変わらず力強く羽ばたき、空からハニエルたちを見下ろしていた。周りには粉々になった氷塊が散らばっている。
周囲に碧い結界が張られていた。どうやら化け物はその結界で氷柱を防いだようだ。
「なんてやつだ……」
兵士の呟きが聞こえてくる。
その声はいくらかの絶望を含んでおり、そして震えていた。
「まずいな」
近くで見ていたハニエルの声は険しい。
士気が落ち始めていた。
本来魔獣は頻繁に出現するものではない。現在王宮を警護している者の中には、魔獣を見たことがないような兵士も多い。
(魔獣でさえ厄介なのに……)
彼の知識にある魔獣と、目の前の化け物は異なるものに思えた。もし仮に魔獣であったとしても、風を操り結界まで形成できる個体は脅威でしかない。
魔術が効かなかったのも士気を著しく下げた原因だろう。この国では、魔術が最も強い兵器だからだ。
化け物は悠々と飛び回っている。そしてそれとは対照的に、兵士たちには動揺が広がっていた。——彼らの中に恐怖が芽生え始めていた。
ハニエルが声を張り上げる。
「全員この場から撤退しろ!」
「ハニエル様! どうしてここに……」
「ここは僕の家だよ? 居たって不思議はないさ。さあ行って! あとは僕が引き受ける!」
ハニエルの申し出に、近くにいた魔術師がたまらず抗議を示す。
「駄目です! 魔術の使用は今のハニエル様には負担が大き過ぎます! そもそも王子にそのようなこと——」
「魔術に関しては心配いらないよ。むしろ以前より強くなっているはずだから」
そんな会話をしている間にもハニエルの背後では兵が化け物と交戦していた。矢が放たれ、槍が投擲される。
兵士の悲鳴が聞こえた。強風で飛ばされた木片で頭を切ったらしい。滴り落ちる鮮血を見て、ハニエルは顔をしかめる。
上空を見上げると化け物に変化はなく、傷一つない綺麗な純白の体だった。
「これ以上は負傷者を増やすだけだ。僕の目の前で傷ついた姿を晒さないでくれ。民を守るのも王の務めなんだからさ」
周りが静止するのを聞かずハニエルは進む。化け物の前までやってくると兵士たちの方を振り返り、言った。
「何も心配することはないよ。この僕が相手なんだから」
髪が乱れ、上等な衣服が汚れても気にすることなく立つハニエルの姿は、疲弊した兵たちを安心させた。天に届かんばかりの大きな声は他の誰よりも力強く、高らかに響き渡る。
「僕を信じて。絶対どうにかしてみせるよ」
衣服の隙間から覗くハニエルの腕は成人男性の割に白く細い。しかしそれ以上に、まるでなんでもないように笑うその姿は、陽だまりのように暖かくそして頼もしかった。
「さあ行くんだ! 魔術で吹き飛ばされたくなければ今すぐにね!」
「申し訳ございません……! よろしくお願い致します」
兵たちは一礼するとその場を後にする。ハニエルの実力はこの場にいた全員がわかっていた。そして、自分たちでは足手纏いにしかならないことも……
全員が撤退したことを見届けると、ハニエルは頭上を見た。白い巨体が我が物顔で飛び回っていた。
「できればこのまま立ち去ってくれれば嬉しいんだけど……。僕だって、こういうのは初めてだしね」
言葉通り彼は魔獣——目の前の白い化け物が魔獣であるとは断言できないが——を見たのは今日が初めてである。
ハニエルはずっとヴィクトリアの王都で暮らしていた。何度か王都から離れたこともあるが、どれも大仰な一団を連れての外出で、魔獣と対峙したことはもちろん、まともな戦闘経験など皆無に等しい。
恐れがないといえば嘘になる。人間である以上、化け物は恐ろしい。
しかし日頃世話になっている国民を失うのはそれ以上に恐ろしく、そしてなにより自分の目と鼻の先で家を荒らされるのは我慢ならなかった。
そんなハニエルの心情など知る由もなく、化け物は我が物顔で暴れ回る。
「あまり僕を怒らせないでくれるかな」
ハニエルの口調は荒い。空を睨め付けたハニエルの目は、獣ように鋭かった。
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